06 小鳥遊公園
オサキが足を止めたのは、人気のない公園だった。見覚えがある。私のマンションのすぐ傍にある公園だ。毎日脇を通り抜けてたけど、ほとんど入ったことはない。砂場くらいしかないところで、ボール遊びをするだけのスペースもないから常に無人の意味のない公園なんだ。今時、砂場なんて流行らないんだよ。幼稚園内とかならまだしもさ。
だから私は、気兼ねなく砂場の傍に腰を下ろしてることができた。ベンチくらいあればよかったのになーなんて思いながら、最終的にはお尻をつけた。なんだかもう、汚れるとか汚れないとか、考えることすらめんどくさかった。オサキに引っかかれた左頬もじわじわと痛んできてるし、今はただ、ゆっくり休んでいたかった。
私をここまで運んできたオサキは、その時代遅れの砂場で寛いでいる。流石に、疲れたんだろうか? 妖怪にそんな概念があるのかさえ甚だ疑問だけれど、目を閉じたまま開こうとしないし、話しかけても黙りを決め込んでいる。私は早々に諦めて、こうして休息に努めてるというわけだった。
にしても、事態は思ったより深刻そうだ。
もうあの稲荷神社には頼めないし、あの鏡たちが言ってた八咫烏と獏ってのに会ってみるしかないのかもしれない。この狐になってしまった右手も、どうにかして隠さなきゃいけない。……ほんと、どうしよう。背負ったままのギターが酷く重苦しい。よく、途中でギターもスクバも落とさなかったもんだ。それくらい、大事だってことなのか。いいや、ただの癖だ。だって今更大事にしたって仕方がない。こんな右手じゃ、ピックを持つことすら厳しい。何もしなければきっと、左手も狐になっていくんだろう。そしたらコードも押さえられなくなる。所詮、私はそんなもんなんだ。どうしようもないんだ。
「人間、どうするつもりだ?」
「どうするって……」
「学舎も休み、そのギターとやらも休みなんだろう」
ああ、きっとオサキは今朝からの会話を全部聞いていたんだ。惨めな私の姿を全部見てやがったんだ。そして、きっと口の端をつりあげて笑ってたんだろう。バカな人間って。
「だったら?」
「昨今は、私塾や夏期講習とやらがあるだろう」
「私高一だし、勉強なんて、……しないよ」
「宿題があるだろう」
「そんなもの、利き手がこんなんじゃ無理」
「それもそうか。惜しいことをした」
「惜しいって……」
バカみたい。自分で狐の手にしたくせに、「勉強ができぬのはよくない」なんて独り言を呟いてる。妖怪のくせに、化け狐のくせに。……何で、なんだろ。ギターを弾けじゃなくて、塾や宿題のことなんか。バカだ。ほんと、バカ。
「ははっ」
声を出して、笑ってしまった。
「何故、大笑する?」
「だって、オサキが変なこと言うから」
「変なこと?」
「私なんかに、勉強……なんて」
「汝には、力がある。だから進言するまでさ」
「……ほんと、バカだね」
私の中に、一体何を見てるんだか。
「バカか」
少しきょとんとした風に、首を傾げる姿にまた笑いが込み上げてくる。
「バカだよ。勉強よりも何よりも、まず元に戻ることが一番に決まってる」
「人間は、それを望むのか」
「うん。狐なんて、嫌だもん」
「ふむ。なら、獏を呼んでやろう」
「え?」
「選択するのは汝だ、人間。吾の友をいかにして説得するのか、手並みを拝見させてもらおう」
ほわっと、狐火が吐き出された。宙に漂ったそれは、公園に植わっていた一本の木を揺すった。実際に火がついて燃え上がることはなかったけど、代わりにうっすらと四つ足の妖怪が現れた。多分、コイツが獏だ。象みたいな長い鼻を天に伸ばし、牛みたいな尻尾を振りながら、枝の傍で浮遊する。その足は虎みたいで、体は熊だろうか? 目はサイみたいに小さくて、本当に見えてるんだかいないんだかよくわからない。
「昼日中に獏を呼び出すなぞ、非常識じゃないかね」
嗄れ声が空気を振るわせた。随分年を取ってるのか、それとも元からそういう存在なのか。判別はつかない。
「すまんが、人間が汝に用だ。聞き届けろ」
「相も変わらず横暴なオサキじゃ。それに人間というより、もはやオサキツキじゃないかね。わしに用のある者ではなかろう」
小さな目がちらりと私を伺ったように見えた。
「い、いや、私! 憑き物落としをしたいんです!」
これを逃せば、機会はなくなると思って、手を挙げた。気味の悪い妖怪ではあるけど、とにかく何か糸口でも教えてもらわないとっ! そう、思ったのに。
「……死にたいのか? 人間」
すっと頭が冷えた。
また、それか。それしか、ないのか。
「オサキツキの肉体を痛めつければオサキは出ていくだろう。通常のオサキならば。しかし、そこの三つ叉は三百三十三年ほど生きている。せっかく取り憑く機会を得たのだ。そう安々と主の意志の成就を諦めたりはせぬだろう」
「左様さ」
「ならば、主の願いを叶えるしかあるまい」
獏は至極めんどくさそうに、言い足した。
「言い換えれば、三つ叉の察した思いだ。たとえば、恨み、憎み、妬みの感情じゃな」
「私は誰かに恨まれてるってこと?」
そんなこと、した覚えはない。いや、誰かの足を引っ張るような真似ははしてきたから、そっちでだろうか。邪魔者と断じられたなら、まだ納得もいく。
「人間は恨み、憎み、妬みを繰り返すじゃろう。年月が過ぎゆくとも変わらぬこと。何、主のオサキモチに自覚はあるまい。そこの三つ叉が勝手に判断し、勝手に執り行ったこと。人間の気にすることじゃあるまい」
結局、慰めの言葉でも何でもなかった。まるで人間そのものを見下したかのような居丈高な態度は、近寄るなという牽制みたいだ。人間風情が。そんな意味合いを行間から感じ取れてしまう。
「つまり、私はその誰かの願いのために、恨まれて呪われろって言いたいわけ?」
そうすれば、たとえ苦しんでも死なないで済むから安いだろうと、そんなことをこの獏は言いたいのだろうか。象のような鼻をくねらせる様子からは、まともな真意は読み取れそうになかった。嫌いだ、こいつ。こいつだけじゃない。さっきの白狐だって。思考回路がおかしい。人間の尺度で物を考えてないのが、こんなに不気味だとは思わなかった。
それに対し、このオサキは何なのだろう。三つ叉の尾をうちわのように使って涼むオサキは、とっくに最初の時のような大型犬サイズに戻っていて、さっきまであった威厳のような何かはない。ペットみたいに大人しかった。なんで、白狐の元から私を連れて逃げ出したんだろう。屋上から落下する私を生かしたんだろう。それが、主の意志とやらだったという、それだけなんだろうか。じゃあその主の意志は何なんだ?
訝しんだ私が、答えない獏と無関心を決め込むオサキに言い募ろうとした時、おーいという間延びした呼びかけが聞こえてきた。
「え、靖?」
兄だった。学校帰りらしく、エナメルを引っ提げて走ってくる。ヤ、ヤバイ。漠とオサキを見られたら困るっ! と思ったけど、靖がいつも通り過ぎる。大手を振ってにこにこと走ってくるのは何でだ? あ、そうか。私はオサキツキになったから妖怪が見えているだけで、普通は見えないのか。だから、この妖怪二匹は警戒してないのか。言ってくれればいいのに。ケチ。
「あれ? 友達は?」
しかし、辿り着いて真っ先の問い掛けに、私は冷や汗をかくことになる。
「え!?」
み、見えないんじゃないの!?
「だって、喋ってただろ。誰かと」
「い、いや、喋ってない。喋るわけないじゃん! っていうか、その、ひ、独り言? みたいなー感じ、うん」
まずい。私だけ見えてるってそれはそれで不審者だ! 獏とオサキのことはとりあえず放っておいて、靖をどうにかしなきゃ。とりあえず話題を変えよう。
「えっと、それよりどうしたの? 帰るの早くない? 部活は?」
「インハイのための合宿がそろそろ始まるから、今日は休養日。三年は受験勉強やっとけーだって。つれえもんだぜ」
愚痴を零しながらも、表情は晴れやかだ。合宿が楽しみなんだろう。去年も一昨年もしごかれたけど、くっっっっそ楽しかった! って満面の笑みで言ってたから。
「引退前のラストだからな。死ぬ気だぜ死ぬ気」
「はいはい、怪我しない程度にね」
「当たり前だろ。んで、なんで瑠依はここにいたわけ?」
「え!? ふ、深い意味はないよ。あー、す、砂遊びとか懐かしいなーみたいな」
「は? ほとんどそんなんやってねーだろ」
「う、うん。そうだったねー……。と、とにかくさっさと家帰ってアイスでも食べよ!」
急かすように、右手でマンションを指差して、固まった。ヤバイ。狐の手のことをすっかり忘れてた。これは流石に誤魔化せない。こんな小麦色の毛が生えてる手はおかしいに決まってる。どんな言い訳をしよう。冷や汗が背を伝う。
「その右手、どうした?」
当然、靖は眉を寄せる。
「えっと、ええっと、その……」
言葉が出てこない。狐の手になってしまったことをどうしたら誤魔化せる? どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「ふむ。狐の手の手袋さ」
気づけば、口が勝手に動いていた。オサキが乗っ取ってるんだって変な口調のせいですぐにわかった。あいつ、こうやってたのか! 睨みつけて文句を言いたいところだけど、それよりもバカな発言をどうにかしなきゃ! 手袋なんてあり得ない。夏だよ!? 夏にこんなモコモコの手袋は流石にない!
「はあ?」
靖が更に顔をしかめるのも仕方がない。
「精巧だろう? 文化祭用だ」
いやいや、ドヤってもダメでしょ! ああもう、勝手に喋らないでっ!
「あー……なるほど」
なるほど!?
「お化け屋敷でもやるんだな? お前のクラス。へえー、準備の早いことで。その芝居がかった口調はいまいちだけど、出来はいいんじゃねえか?」
へー、ほーとか言いながら、私の右手を矯めつ眇めつする兄は単純すぎて、バレなくて安心するっていうよりも妹であることに悲しみを覚えそうだった。いや、知ってたけど……脳みそ筋肉タイプだけどさ……。もうちょっとこう、ね? あるでしょうよ……。
「おい、褒めてんだからありがとうぐらい言えよ」
「あ、ありがと……」
「どいたま。ほらさあ、ギター弾けなくなっちまったんだろ? その代わりにこんだけクラスの頑張ってれば十分だと俺は思うぜ」
慰めるように私の頭を撫でる手は優しい。単純でお気楽で、色々とズレてる兄だけど、優しいことは優しかった。なんだかさっきまでの疲れが少し抜けていくみたいな気がした。
「ありがと。さ! 行こ。ほんとお腹空いた! 暑いしアイス食べよ!」
「賛成っ!」
二人してマンションに向かって駆け出すと、肩に柔らかな重みを感じた。視線を向けなくても、小さくなったオサキだってことはわかる。オーケー。しばらく一緒にいることは許してあげる。
途中、つと立ち止まって公園を振り返ったけど、もう獏はいなかった。
「獏と再び語らいたいのなら、あのユズリハを揺らせ」
そうする、と周りに聞こえないくらいの小ささで答えて、私は手招きする兄の元へまっすぐ走っていった。
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