05 オサキツキ

 私が言葉になってないような滅茶苦茶な悲鳴を上げたのは、その三つ叉の狐とまた会ってしまったからだけではない。それだけでも十分驚愕に値したけれど、それよりも、自分の右手のが問題だった。

 ワイシャツの袖から出てる部分全てが、狐の手になっていた。毛むくじゃらの小麦色。悲鳴を上げてのたうち回りながら、私はワイシャツを破くぐらいの勢いでまくった。まくって、ほんの少しだけ落ち着いた。小麦色の毛は、肘のところまでしか生えていなかった。その先は普段と変わらない、少したるんだ二の腕がある。それに触れて、贅肉の柔らかさを感じて、私はやっとまともにへたり込むことができた。よかった。ちゃんと人間だ。……よかった? 何もよくはない。右手が、右腕半分が、狐になってるんだ。よくなんか全然、ない。

 それに、三つ叉の狐はもはや認識してしまえば、普通に見ることができた。当然のようにコンクリートの上で、昨夜の屋上と全く同じ格好で寝そべって、私を観察していた。あの、赤い眼で。

「やあ、吾は油揚げを食したいのだが」

 ゆったりと開かれた三つ叉の狐の口から飛び出してきたのは、そんな図々しすぎる要求だった。瞬間に理解する。あの台詞はあんたか。春や諒の前で私に恥をかかせたのはあんただったのかっ!

「私の体に何をしたの!」

 どう考えても原因はこの三つ叉の狐しかいなかった。昨夜のあれは夢ではなかったんだ。残念なことに、口惜しいことに、全部現実だったんだ。右手が狐になってしまってることからも、それは明白だ。マンションの屋上から落下した時、私は三つ叉の狐にこの右手を掴まれ、引っ掻かれたんだ。そのせいで、こんなことになってしまったんだ!

「早く、元に戻して!」

 叫び訴える私に対して、三つ叉の狐は泰然としてる。細められた赤い眼からはつまらないという感情が如実に表れていた。

「あら、オサキツキがオサキに怒ったって仕方ないんだわ」

「おお、オサキよりもオサキモチを恨むべきだ恨むべきだ」

「うるさい!」

 会話に割り込んできたその声の出どこもわかってしまえば簡単だった。カーブミラーの二枚の鏡。右が女声で左が男声で喋ってる。非現実的極まりないけど、まぎれもなく声はそこから聞こえてきていた。

 なんなんだ、この鏡は。これも妖怪の類という奴なんだろうか。不快感しか沸かない。

「照魔鏡も雲外鏡も、この時分ばかりは悪ではなかろうさ」

 三つの尻尾をゆらゆら揺らしながら、呑気に私を咎める。原因は全てあんただっていうのに。

「じゃあ、あんたが悪だ。早く、元に戻して」

「できぬ相談だ。汝が死を望むのであれば、話は異なるが」

「死にたくないって、言ったでしょう?」

 きつく、赤い眼を睨みつける。昨夜、落下しながら、私は確かに言い放ったんだ。「まだ、生きていたいっ!」って。

 三つ叉の狐は、私の言い分にしっかりと頷いた。

「故に、吾は汝を生かした。それは吾が主の意向に沿うものでもあったから、異存はないさ。しかし、汝は気に入らぬようだ。人間とはかくも複雑怪奇なものさ」

「気に入らないに決まってる! 何が生かしたよっ!」

 私が足を滑らせたのは、ほとんどこの三つ叉の狐が原因と言っても違いないくらいなんだから、助けて当然だったんだ。あんたがいなきゃ、こんなことにはならなかったんだ。

「汝を助けるため、吾は汝に憑いた。照魔鏡の示すとおり、汝はオサキツキとなったのさ」

「オサキツキ? その、オサキツキがなんだっていうのよっ!」

 声を張りながら、また涙が出てきそうだった。ああ、どうしたらいいんだろう。頭がくらくらする。どこまでが現実で、どこまでが虚構なんだろう。もう、嫌だ。全部が嫌だ。

「オサキツキとは、狐憑きと言ってもほとんど相違ないさ」

「狐憑き? 私は、狐に憑かれたって言いたいわけ?」

 それくらい、もうわかってる。狐に私は化かされたんだ。愚かにも、こんな不遜な三つ叉の狐に。

「化かしたは化かしたが、少し意味合いは異なる」

 三つ叉の狐は欠伸をして、口の両端をつり上げた。笑ってるんだ、きっと。

「オサキに憑かれた人間は異様な言葉を口走り、並外れた食欲を発揮し、果ては異常行動を起こし、ついにはその体を食い破られることとなる」

 ニヤついた口元から、白く鋭い歯が覗く。

「く、食い破られるって、……まさか。つまりは全身が狐になるって言いたいわけ?」

「左様さ」

 三つ叉の狐はさも楽しそうに笑む。まるで他人事だ。いや、実際コイツにとっては他人事なんだ。どうせ、人間事なんだ……!

「わ、私は、絶対に狐になんかなってやらないっ! あんたなんか、蹴っ飛ばしてやる」

 後退りそうになる足で何とか地を踏みしめて、私は赤い眼を睨みつける。こんなバカげた狐になんか、負けたりしない。

「せいぜい頑張れ、人間」

 吐き出された狐火は、私を煽るように青白く燃え上がった。ふらふらと辺りを漂って、幻のように消えた狐火に吐き気がする。こいつは、私を弄んで楽しんでるんだ。許せない。絶対に許してなんかやらないっ!

「で、あんたを蹴飛ばす方法は?」

「吾に問うのか」

 三つ叉の狐はくつくつと笑うが、そんなことは気にしていられない。手段なんて選んでられる場合じゃないんだ。

「吾の口から言うのもおかしかろうさ。それに吾も、そのような苦痛を味わいたくはない。当然さ。少しは自ら学ぶがよい。それだけの力を汝は有しているのだから」

「有してないし。……じゃあそこの鏡、知らないわけ?」

「あら、憑き物落としだわ」

「おお、憑き物落としだ憑き物落としだ」

 声を揃える鏡たちはしかし、使い物にならなかった。じゃあ憑き物落としはなんだと重ねて尋ねても知らず存ぜぬの態度。所詮、ただの鏡ってとこなんだろう。役立たず。

「あら、物知りは八咫烏だわ」

「おお、獏もだ獏もだ」

「ふむ。八咫烏なら憑き物落としの作法などよく心得ていようさ。獏と吾は仲がよい。このオサキの弱点など知り尽くしているであろう。他者を介してでも学びに励むのはよいことさ」

「うるさい。……それよりもあんた、オサキっていうの?」

「汝が人間であるように、吾はオサキであるのさ」

 種族名だと言いたいらしい。いいよ、それで。あんたも私のことを人間などとしか言わないんだから、私もオサキと呼んでやる。

「オサキ、ここで待ってなよ。その八咫烏だか獏だが連れてきてすぐに、憑き物落としってやつをやってやるから」

「それはできぬ相談だ。吾は汝に憑いた。離れることはできぬのさ」

「はあ!? これからずっと一緒ってこと?」

 何それ、耐えられない。絶対に無理っ!

「左様さ。まあ、よろしく頼む」

 オサキはすくりと立つと、思いの外身軽に回転してみせ、鼠くらいの小ささになってみせた。

「失礼」

 とそのまま、私の肩に乗る始末である。引っぺがしてやろうとしたけど、服にがっつりと爪を立てて、離れようとしない。なんて意地の悪い奴! しばらく格闘してたけど、どうにもこうにも離れる気はないらしい。私は諦めて、走り出した。八咫烏も獏も知らないけど、とりあえず向かってみるべき場所がある。

 狐と言えば、やっぱりあそこしかないだろう。

 そう意気込んで辿り着いた場所に、肩のオサキは不満そうだった。

「やれやれ。稲荷神社とはまた、芸のない」

 真っ赤な鳥居の前にため息を吐き出すオサキを、取り敢えず軽くつねってから、私は境内へ足を踏み入れた。

 地元の土地神様として崇められてる稲荷神社は、歩道橋のある交通量の多い通りに面してる。敷地は案外広くて、手入れも行き届いてる。年末年始や夏祭りの時は、近隣の人みんなが来たんじゃないかってくらい活気づく賑やかな場所だ。まあ、今は平日の昼過ぎだから、参拝客は年寄りが一人、二人といった程度で、境内はがらがらだった。

 と、今までの私だったら言えただろうけど、今回ばかりは口が裂けてもそんなことを言えやしない。

「オサキツキだ。オサキツキ」

「ひょえー。三つ叉のオサキが、あんな女子高生をなー」

「オサキの主はあの家だろ? なかなかやるなーほー」

「いやいや、これはまたまた」

「へーへー」

「キョハーッ!」

「オサキが憑いたぁ。オサキが憑いてるぅ」

 騒がしく仕方ない。どれも、所謂妖怪の類のようだった。私でも知ってるような一本足の傘みたいのから、石畳を這いずり回る帯とか燃える車輪とか、不気味なのが勢揃いって感じだ。この夏の晴れやかな日差しの元にこんなのがいるなんて、知りたくなかった。

「どうした、人間?」

 怖じ気づく私を、オサキが鼻で笑った。奥歯を噛み締めて、オサキをもうひとつねりしてから、私はその妖怪どもに言い放った。

「憑き物落としってやつをしたいの。お稲荷様って狐の神様でしょ? どうにかならない?」

 すると、妖怪みながぱったりと口を噤んで、お互いの顔を見合わせてる。なんだ、人間には教えられないってのか?

「この白狐がお話ししましょう。眼には眼を、歯には歯を。狐には——狐がよろしいでしょうから」

 そうして、本殿のほうからしゃなりしゃなりとやってきたのは、その名の通り白く美しい毛並みを持つ白狐だった。尾は一本だけれど、赤いスカーフを上品に首元に巻きつけてるその姿は明らかにオサキとは格が違った。その証拠か、オサキは口をむっと引き結んでいる。

「そのオサキは、単なる野狐。松葉か唐辛子でも燻せば忽ち消えていきましょう」

「ほんとに!?」

 こんなにあっさり、対処法が見つかるとは思いもしなかった。よかった、こんな異形の右手ともすぐに別れられるんだ!

「代償にあなたが死ぬかもしれませんが、その程度些末ですからね」

 けど、にっこりと微笑んで眼を細めた白狐に私は固まることしかできなかった。なんて、言った? 今、なんて?

「誠に、どちらが妖孤か善狐か、わかったものではない」

 嫌みが込められた耳元での台詞さえ、満足に耳に入ってこなかったほどだ。

「この白狐が善狐に決まっているではありませんか。たかがオサキが何を申すかと思えば…………下らぬ。早々に消え去ればいい。いい機会だ、人間諸共殺してやろうぞ」

 そうして、大口を開けた白狐は気づけば大きく大きく膨らんで、背後の本殿が見えなくなるくらいにまで巨大化していた。足が竦む。何、これ。何なの、一体。抑えようもない憎悪が境内中に撒き散らされていた。気づけば、野次馬のように辺りを囲っていた妖怪たちは、一匹残らずどこかへ身を隠してしまっていた。目標となるのはもはや、私だけ。

「人間、走るぞ」

 叱咤されても、その場を動くことができない。

「人間!」

 何、これ。

「人間!」

 どういうこと?

「こちらを向け!」

 死ねと、神までもが私に言うの?

「喰われたいのか!」

 大きく開かれた口を、私はただ呆然と見上げ、立ち尽くしていた。もう嫌だ。生きていたいはずなのに、なんでこんなに苦しくならなきゃいけない。どうして、死ぬなんて言われなきゃならない。わけがわからない。

 もう、何も、考えていたくない。

 涙が、零れ落ちていきそうだった。けれど、左頬に鋭い痛みが走って、たたらを踏んだ。オサキが、爪を立てていた。赤い眼で、まっすぐ私を見てる。焦燥の浮かんだ目に、吐き出されるはずだった文句は霧散した。

 なんで、なんであんたはそんな必死になってんの?

 代わりに浮かび上がってきたその疑問を、問うことはできなかった。

「逃げるぞ!」

 くるりと回転したオサキは虎ほどの大きさになって、三つ叉の尾を使って私の体を絡め取ると、背に張りつかせるようにして走り出した。風がびゅんびゅんと吹きつけてきて、咄嗟に目を閉じて小麦色の毛を掴むと、スピードは更に上がった。電車くらい速いんじゃないかって思うほど、風が脇をすり抜けていく。セミロングの黒髪が、弄ばれて顔に張りつき、口の中に入ってくる。それでも、なかなかオサキは止まろうとはしなかった。頭の片隅で、周りにはどう見えているんだろうなんて考えた。でもきっと、見えないんだろうな。私にオサキが見えなかったように。私はもう、非日常の住人なんだ。

 なんだかそれが堪らなく悲しくて切なくて、耐えたはずの涙が溢れ出してきてしまった。落ちた涙は小麦色の毛並みに埋もれてわからなくなっていく。ちょうどいいや。泣いてしまおう。泣けるだけ、泣いてしまおう。喉から絞り出すような、それでいてどこか抑えつけるような泣き声を私は上げる。思っていたよりずっとふさふさしていた小麦色の毛は、それすらもくぐもらせてくれる。三つ叉の尾は、私の体を包んでくれる。憎いことだけど、それが温かくて、私は余計涙を零したのだった。



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