04 暴飲暴食注意報

 めんどくさい終業式もHRも終わったいつもより早い放課後、真っ先に向かった軽音部の部室で、春とばったり出くわした。薄暗く狭い部室に一人、椅子に座ってぼーっとしてたらしき春と目が合って、何を話せばいいのかわからなくて、困惑して開口一番におかしな口調で変なことを口走ってしまった。

「やはり、おかっぱとはどうなのだろうか」

「はぁ?」

 春が素っ頓狂な声を上げて、眉根を寄せるのも無理はなかった。

「ご、ごめん。なんでもない!」

 先週切ったばかりの春の髪型は、上出来とは言えないまでもまあ、悪くはなかった。ただ、見慣れないと思ってることは事実だった。それがどうも、変な形で漏れてしまったらしい。違うんだ。否定したいわけじゃない。

「え、何? そんなに似合ってない? ちょっと凹むんだけど」

 髪先をつまんで口先を尖らせる春に、私は首を振る。

「違う違う! 今のはほんとナシッ! えーと、いいじゃん。彼氏は気に入ってるんでしょ?」

「ボブカットが好きなんだって。趣向としてわかるよーな、わかんないよーなだけど。まあ、シャンプーの減りが少なくなるって意味じゃ経済的?」

「確かに」

 案外切実な問題だ。

「で、瑠依はエレキ回収しにきたの?」

「そうそう」

 渡りに船だと私は頷いてギターの元へ向かう。

「悪いね、……文化祭」

 言いながら春が目を落としてたのは、文化祭でやる予定になってた曲の楽譜だった。春らしい几帳面な字で書き込みの入ったそれを見ると、ああ、悲しんでるのは私より断然春だよなーって思う。私の思いなんてもっと軽い。ぺらっぺらだ。

「突き指したんだから、仕方ないでしょ」

 慰めの言葉にさえ微かな棘を含ませてしまってるのは、嫉妬のせいだ。普通に悲しめてることに対する理不尽な羨望。

 出しっぱなしにしてたギターの表面は、まだ艶々とオレンジに輝いてる。数を弾いてない証拠だ。その真新しいSELDERをケースに仕舞い込みながら嘆息したくなるのを堪えた。春と私が組むのって、なんか違ってたんじゃないかな、とかそんな思いが溢れてしまわないように。

「ま、そうなんだけどね」

「でしょ?」

 ジッパーが閉まっていくジーーーーって音が、まるで自分の心が閉まってく音みたいで、不快だ。背負った楽器の重さすら、私には不似合いすぎる。

「じゃあ、また」

「うん、また。自主練ガンバってね、瑠依」

「まかせといてっ」

 ひらひらと手を振って部室を出る瞬間まで、私は果たして笑顔でいられたんだろうか? なんだかもう、わからなかった。全然、わからなかった。

 でも、廊下をはしゃいで駆けてく男子の声に、すっと背筋を伸ばした。気持ち悪い微笑を顔に張りつけて、歩き出す。背負ったエレキギターが重い。なんで、私、こんなものを持ってるんだろう。春や諒みたいに部活に命を懸けてるわけでもないのに。かと言って、宿題もう一個終わらせたんだなんて言いながら楽しそうに帰っていく女子たちとも全く違う。

 私には、何もない。

 何も、できやしないんだ。

 学校にいる私は全て、嘘。きっと、どれもこれも嘘なんだ。楽しかったはずの部活だって、今は私を追い詰める。春がいなきゃ、私はどうすることもできないんだ。私のほうが、突き指をすればよかったのに。自嘲気味に笑って、階段を下りた。

「あ、やっときた」

 だからか、美術室の前で待ってた諒のほがらかな笑顔を見て、大分癒された。野花みたいな鈍さっていうのかな。諒のそういう部分が楽でよかった。下手なとこには踏み込んでこないでくれる感じ。教室にいるより、何倍も居心地がいい。同じクラスだったらよかったのにな、なんて時々思う。でも、同じクラスだったら、私は諒に話しかけることなんかできなかっただろうから、これはこれでよかったのかもしれない。

「おまたせ。早くカラオケ行こう。なんかすごいお腹空いちゃって」

「うん」

 そういえば、遊ぶことだけじゃなくて、一緒に下校するのも初めてだった。大抵美術部は軽音より先に終わるし、示し合わせて帰ろうなんてこともしたことがなかった。

 真っ昼間の帰路は、じりじりと暑い。帰路と言っても、向かう方向はマンションじゃなくて、駅前だ。狭い路地を抜けて駅からちょっと外れた辺りにある格安のカラオケに足を踏み入れる。諒はこんな裏道をしらなかったみたいで、不慣れな様子で張り出してる庭木やら乱雑に駐められた自転車なんかを必死に避けてて面白かった。カラオケに入っても、受付で学生証を出すのすら手間取ってた。

 個室に入ってから、野次馬精神で尋ねてみた。カラオケ来たことある?

「あるよっ! あるけど、……久しぶりかな」

 まあその返答も嘘ではないんだろうけど、慣れてないことは明白だった。曲を入れるのでさえ戸惑ってるんだから。

「僕よりも、雨沢さんから歌ったほうがいいと思うんだけどっ」

 機械と悪戦苦闘しながら、恨めしそうにこっちを見るけど、私はニヤニヤしながらドリンクバーで注いできたカルピスソーダを飲むだけだ。

「お腹空いたって言ったでしょ? しばらくは食べるのに専念するから」

 時間は正午くらいだったし、ほんとに空きっ腹だったんだ。私はちょっと奮発して、スパゲッティーやらピザやらパーティーセットやらを注文して机の上を埋め尽くした。それらを片っ端から口に入れて、歌うのを先延ばしにする。しぶしぶ流行のヒットチャートを入れたり、マイナーバンドの曲入れたりしてるのを私は楽しく眺める。

 絵から離れた諒ってのが、すごく新鮮だった。歌唱力はまあ、ほんと普通ーって感じなんだけど、結構歌うの好きなんだろうなーってわかっちゃうような感じだった。なんだかそれが同じ音楽好きとして、少し嬉しくて、……恨めしかった。

 そんな風に考え事をしてて、私は現状を全く把握してなかった。五曲目に入れたバラードを歌いながら、諒がちらちらこっちを気にしてるのはわかってたけど、お腹空いたからそろそろ交代したいのかなーなんて呑気なことしか考えてなかった。

 あとは伴奏だけになって、マイクを切った諒が眉を潜めて言ったことに、衝撃を受けずにはいられなかった。

「ねえ、まだ……食べるの?」

 その声色は、朝の両親とは比べるべくもなく深刻だった。食べ過ぎたら太るよなんて軽い忠告とは一線を画する台詞だった。

 私は閉口して、机に積み重なった空の皿を見下ろした。二ダースなんて、そんな量じゃなかった。漫画みたいって言えばいいのかな。異常としか言いようがないほどの、数える気力も沸かないくらい大量の皿が机の上に溢れてた。それらに料理が少しでも残ってれば、まだよかった。でも、まるで動物が舐め尽くしでもしたかのように全ての皿は綺麗だった。

「ふむ。油揚げも食したいものだ」

 そんな意味不明な、堅苦しい言葉が口から漏れた。反射的に口元を抑える。油揚げ? 食したい? そんなことはない。思ってない。思ってないはずなのに、油揚げという単語を思い浮かべるだけで口内に唾が湧き出てきて、ぞっとした。

「違う!」

 立ち上がって叫ぶけど、何が違うんだろう。唖然としたままの諒と目が合って、私は力なくずるずると座り込む。そりゃ、呆然とするよね。たった五曲歌ってる間にこんなに食べ物ってなくなるもの? おかしいよ。私だって、逆の立場なら今の諒みたいに絶句する。信じられないって顔をする。だって、信じられないもん。ほんとに私はこれを全部食べたの?

「ご、ごめん……」

 それしか、言葉が出てこなかった。諒に何か言わなきゃと思うんだけど、頭が混乱して、何にも言えなかった。それに、また変なことを口走ってしまうのが恐かった。下唇に歯を突き立てて、自分を律する。でも、一向に思考はまとまらなかった。テレビから流れ続けるCMの空虚さに吐き気がした。このままじゃいられない。このままじゃ、ダメだ。それだけは確かだ。私は、震える手で鞄を漁って、財布から一万円札を取り出した。夏休み遊び倒す用にって必死に我慢してとっておいたお年玉の一部だった。それを無理矢理、諒の手に握らせる。

「こ、これで会計しといて。足りなかったら、言って? ……払うから。大丈夫」

 一体全体、何が大丈夫だと言うんだろう? 痙攣する足を叱咤して立ちながら、薄ら笑いを浮かべる。他にどんな表情をすればよかったんだろう? わからない。わかるはずがない。

「好きなだけ、歌ってっていいから。久しぶりなんでしょ? 私は……私はそう、ギターの練習があるから」

 なんて空々しい言い訳だろうと思った。けれど、諒は一切追求してこなかった。じゃあねと手さえ振ってくれた。その優しさがありがたくて涙が出そうだった。実際、個室のドアを閉めた途端、涙は溢れ出して止まらなくなっていた。廊下を走り、雑居ビルの冷たく無機質な階段を駆け下りながら、諒でよかったと安堵してた。これがクラスメイトだったりなんかしたら、学校に行く気力なんてもう絶対に沸いてこなかったことだろう。よかった。ほんとよかった。そう言い聞かせるのに、涙は溢れて溢れて止まらない。異常な食欲は未だ収まっていなかったのが、涙を増長させた。おかしい。狂ってる。明らかに変だ。お腹が空いてたなんて言い分が通らないだけの量だったのに、なんで私はこんなに油揚げが食べたいなんて、バカなことを思ってしまうんだろう。できるだけ人気のないところに行きたかった。雑居ビルを飛び出して、駅と逆方向に必死で走った。道行く人の視線を感じてしまうのが屈辱で仕方なかった。もう嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。嫌だ嫌だ!!

 そうやって、一体どこまで来ただろう。ふと立ち止まった十字路には、人っ子一人いなかった。私を見下ろしてるのは電柱のまだ明かりのついてない街灯と、二枚のカーブミラーくらいのものだ。角にある建物はどこもコンクリートの高い塀やレッドロビンの生け垣がある上、物音一つ聞こえてこなかった。その閑静な雰囲気が、この時だけは嬉しかった。

「もう、大丈夫」

 ひとりごちてみたけど、あまりにも欺瞞に満ちていた。だってどこらへんも大丈夫じゃない。どうしよう。どうしよう。焦りは後から後からいくらでも沸いて出てくる。

「あら、オサキツキだわ」

「おお、マジだマジだ」

 そんな男女の会話が聞こえてこなきゃ、もうしばらく俯いて泣いてたことだろう。でも、頭上から振ってきた声に思わず顔を上げる。でも、誰もいない。いるはずがない。空が青々と広がっていて、くっきりとした雲が浮かんでるだけだ。

「あら、オサキも見えてない成り立てだわ」

「おお、こっちだこっちだ」

 ふざけきったような口調に、苛立ってくる。

「誰よ!」

「あら、照魔鏡だわ」

「おお、雲外鏡だ雲外鏡だ」

 ショウマキョウにウンガイキョウ? 名前もふざけきってる。

「からかうのも大概にしてっ!」

 私がどんな気持ちでいるかもしらないで! そんな怒りを私はそいつらにぶつけてやるつもりでいた。胸の内にたまった鬱憤を晴らしてやろうと、自棄になっていた。私だって、何も気づいてないわけではなかったし、思い至ってないわけではなかったんだ。でも、だからこそ、認めたくなかったんだ。自分が非現実に足を踏み入れてしまったことなんて。

「あら、からかってなどいないんだわ」

「おお、そうともそうとも」

 「鏡」と二つの声は口を揃えた。気持ち悪いぐらいにぴったりと息が合っていて、鳥肌が立つ。

「鏡、鏡、鏡、鏡、鏡、鏡、鏡、鏡」

 木霊するように反響していく鏡という三音が鼓膜を揺らして、私は耳を塞ぎたくなった。けど、その奇怪な声に導かれるようにして、鏡を見てしまった。

 オレンジの柱に据えつけられた二つのカーブミラーのうち、右に映った自分の姿をみとめてしまった。

 そこにいたのはまぎれもなく、私と、あの三つ叉の狐だった。



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