03 黄昏れる町角

 眼が覚めると、見慣れた天井がそこにはあった。蓄光の星が散りばめられた壁紙が私を迎えてくれる。

 起き上がって二段ベッドの上から部屋を見回してみたけれど、学習机二つもスピーカーもカラーボックスも特に変わったところはなかった。兄の靖がいないのは、バレー部の朝練があるからだろう。心配はいらないはずだ。

 差し込む朝の光も、のどかで心地がいい。雀の鳴き声も聞こえた。七月二十日、平日の午前七時。いつもと、全く変わらない光景だ。

 昨夜のことは、もしかして夢だったんだろうか? あの三つ叉の狐も、屋上から落下したことも、奇妙な夢だった。あり得ない話じゃない。ただ、こんなにも鮮明に思い出せるものだろうか? いや、あんまりにも真に迫ってたからそう思うんだろう。夢占いの本でも図書室でぱらぱら捲ってみよう。何か面白いことが書いてあるかもしれない。狐と落下。どんな深層心理を示してるんだろう。そう思うと、なんだかちょっと学校へ行こうという気力が沸いてくる気がした。

「よしっ」

 せっかくの気持ちが萎える前に、制服に身を通し学校の支度を調えて、リビングの扉を開けた。そこには、のんびりカシスを塗った食パンを食べるお父さんと、慌ただしく化粧をするお母さんの姿がある。

「おはよー」

「おはよう。食パンそこだ」

 お父さんに顎で示された食パンの袋を食卓の上からさらって、トースターに一枚放り込んだ。大抵朝は、八枚切りの食パン一枚程度しか食べない。食欲が沸いてこないんだ。冷蔵庫に入ってるいくつかのジャムから苺をセレクトして、食パンが焼き上がるのを待つ。片手間に麦茶を飲みつつ、流しっぱなしのラジオに耳を傾けた。天気は晴れ。気温は高めらしい。もう夏休みも目前だから、暑くなってくるのは仕方ないか。ため息を吐いてる間に、トースターから音がした。取り出して苺のジャムを塗った食パンを、お父さんの向かいに座って食べる。やっぱり、いつもと何にも変わらない。さっきまでのは全部取り越し苦労だったんだろう。なんだか、気分が楽になった。今日はバナナも食べよう。食卓に放置されたまま黒く熟れてきたバナナをデザートとして味わう。なかなかいい。

「あ、あたしにもバナナ頂戴」

 化粧を終えたらしきお母さんが背後から手を伸ばしたので、一本渡してあげる。うなじでまとめた髪からいつもの甘い香料の匂いが漂ってきた。なんだか、お腹が空くな。昨日、あんまり食べてなかったっけ?

 疑問に思いつつも、バナナを剥く手は止めない。

「瑠依?」

「ん?」

 気づけば、お父さんが訝しそうにこっちを見ていた。次のバナナに手を伸ばしながら、私は首を傾げる。

「いつまで、食べる気だ……?」

「へ?」

 問われて、自分の皿を見下ろす。そこには、バナナの皮の山が皿から落ちそうなほどこんもりと積み上がっていた。普段だったら絶対に考えられない量だ。

「え、嘘。私何本食べてた!?」

「二ダースくらい?」

「二ダース!?」

 お母さんの片手間の返事に、私は慌ててバナナの皮を数え始める。全部で、二十三あった。二ダースにはギリギリ足りなかったけど、そんなことは余裕で誤差の範囲だ。いつの間に私、こんなに食べたんだろう? 美味しいとは思ったけど、いつもなら食パン一枚で十分すぎるくらいなのに。変だな……。これじゃあ太っちゃうよ。今夜、体重計には乗りたくないなあ。

「これ美味しいから、どんどん食べたっていいけど、太らない程度にね」

「わかってるっ」

 なんだかまだ食べたりない気持ちがしないわけでもなかったけど、これ以上は本当にまずい。制服のスカートが入らなくなったりしたら洒落にならない。私は立ち上がって、手早く洗面台で身支度を済ませると、家を飛び出していった。いってらしゃいーと背後で重なる二つの声に、手を振ることで答えてエレベーターに乗り込む。そこには、よく見知った男子の姿があった。

「あ、雨沢さん、おはよう」

「おはよ、諒。今日は身軽なんだね」

 行儀よく手を挙げる諒への挨拶もそこそこに、私は全身にざっと目を走らせる。シャツのボタンをきっちり止めて、ネクタイまで締めてるのは、いつものことだからいいとして、スクバしか持ってないのはなんでなんだろう。

「画材? 今日はスクバに入る量しか持ってきてないよ」

「え、どうして?」

 いっつも、でっかい画板を抱えてるっていうのに。何かあったっけ?

「終業式だし……その、たまには休もうかなあ〜なんて」

 居心地悪そうに目を逸らす諒。

「ふーん。そんな日もあるんだ」

「ところでなんだけど、雨沢さんは今日も部活?」

「え? う、うーん。しばらくはない、かなあ……」

 エレベーターを下りて学校に向かいながら、念のため友達の春から連絡が回ってきてないか確認するけど、まあ、来てるわけがない。

「文化祭の練習で夏は忙しくなるんだーって、言ってなかったっけ?」

「そうなんけどさ……」

 まるで何かを見るものがあるかのように、スマホをいじくりながら私は言葉を探す。なんて、言ったらいいんだろう。悩んだけど、ストレートな言い方しか思いつかない。

「春が、突き指しちゃって」

「森山さんが?」

「そう。キーボード弾くのはしばらく無理なんだって。しょうがないよね。だから、文化祭のライブは不参加ってことになるかなー」

 今から、軽音部内の他のグループに混ぜてもらうっていう手がないわけじゃない。でも、なんていうかそれは違う。私は春の声とキーボードがあるからギターを弾きたいって思えるんだ。他のグループが嫌いなわけじゃないんだけど。

「歌だけ歌ってもらうのは?」

「それも、ありなんだけど……」

 気乗りしないというのが本音だった。そもそもやろうとしてた曲的には、キーボードなしはちょっとキツイ。私のギターは高校に入ってから始めたばっかで、まだ三ヶ月ちょっとくらいだし、それと声だけでやる自信は春も私もなかった。

「だからー、休養期間? いや、私にとっては練習期間か。今日は部室からギター持ってすぐ帰るつもり」

 少し前までテスト期間で、部屋に置いてあるとつい弾いちゃうからって理由で部室の隅に立てかけておいたけど、流石に夏休みに入るんだ。回収しないわけにもいかない。

「そうなんだ。だったら、……一緒に遊ぼうよ」

「遊ぶ? 諒と?」

 意外な誘いだった。諒は、美術室で一人籠もって絵を描いてるってイメージしかない。高校入学と同時に私のとこのマンションの八階に引っ越してきたばっかりだから、それは勝手なイメージだったと言えば、そうなんだろうけど。

「気分転換って感じかな。どう?」

「もしかして、なんかつまってる?」

「……バレた? 取りかかってる油絵がいまひとつ、筆が進まないんだ」

 眉尻を下げて苦笑する諒の背中を、勢いつけて叩いてやった。なかなかいい音が響いて、諒は短く悲鳴を上げる。情けないなあもう。

「ガンバレッ! 絵なんか全然わかんないけど、私結構諒のは好きだなーって思ってるから」

 クラスも違う諒と仲良くなったのは、同じマンションに住んでるからってわけじゃない。三階の美術室に立てかけられてた絵を、美術の授業中にずっと私が盗み見てたんだ。美術部員が描いてるんだろうなって感じの本格的な絵で、毎週毎週塗り進められてく様子を伺うのは楽しかった。だから、私から話しかけにいったんだ。放課後、バンドの練習の合間を縫って。

 そしたら、広い美術室の隅っこで、黙々と筆を走らせてる男子がいたんだ。はためく淡い暖色のカーテンを背景に、ブレザーを脇の机に畳んでおいて、シャツ一枚で木の椅子に座って真剣に絵と睨めっこしてる姿を見つけて、角度からどんな絵を描いてるかも見えなかったのに、あの絵の作者だって、私は勝手に確信したんだ。なんだか、あの絵に雰囲気がすっごくそっくりだったから。橙色の夕焼けに染まる町角が描かれた、言ってしまえば何の変哲もない絵。それなのに、まるでそこから優しい音色が聞こえてくるみたいで、ほんと、わくわくしたんだ。

「ねえ!」

 声を掛けた途端、肩をびくっと跳ね上がらせてこっちを見た諒の目が真ん丸になってった様をよく覚えてる。まるで小動物か何かみたいだった。私に驚いて、口をぽかんとあけて惚けてるんだもん。

「あの、黄昏れる町角を描いてたのあんただったんだね。ずっと会ってみたかったんだ」

「会って、みたかった……? 君が、僕に?」

「うん。私、A組の雨沢瑠依」

「僕は、……大崎諒」

「仲良くしようよ」

 それからだ。同じマンションだって知ったのは。今日みたいにエレベーターで会ったり道で会ったりすると、一緒に登校するくらいには仲がいい。それでも、遊ぶってのは初めてだ。

「うん、いいよ。遊ぼっか」

 せっかくの終業式だ。馬鹿騒ぎするのも悪くない。怪我人の春には彼氏がいるから、しばらくはそっちに任せとけばいいだろう。

「カラオケとか? それともどっかでダベる?」

「ええっと、どうしよっか?」

「誘ったくせに考えてないの? そんなんじゃモテないよ〜?」

「わ、わかってるよ! じゃ、じゃあ、……カラオケで」

「オッケー。じゃあ、放課後、美術室でいい?」

「うん!」

 そうやって他愛のない会話をしてる内に、学校はもう目前だった。私たちは高校では珍しい徒歩通学だ。マンションから二十分くらいは歩かないといけないけど、その近さだとチャリは禁止っていうのが校則だ。学校ってわけわかんないとこで厳しいと思う。こうやってのんびり諒と話すのは、悪くないけど。

 ……なんて、私はちょっと上機嫌だった。落ち込んでた気分がむくむくと明るく膨らんでる。調子がいいって自分でも思う。それでも、楽しいからこれでよかった。——いつもなら。

 いつもならほんとにこれでよかったんだ。

 でも、おかげで私は狐に化かされたことなんかすっかり忘れてしまったんだ。まるで、夢だったかみたいに。

 この時はまだ、夢なんかじゃ、なかったのに。



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