02 夏の大三角形

 私は、八階建てマンションの屋上に来ていた。

 そのマンションの七階に住んでる私が屋上に上がるのは、容易い。たとえ、それが真夜中だって。セキュリティはゆるゆるなんだ。

 風の吹き抜ける屋上に一人立って、伸びをする。夏の大三角形がよく見えた。都会と言えど、ペガ、アルタイル、デネブくらいは観測できる。小学生の時に宿題で眺めさせられたそれらを、高校生になった今見ると、何だかまた違った気分になる。綺麗だとか、そういう感想以外に、どうしようもなく遠さを感じさせられる。星は、きっと私よりずっと自由だ。宇宙の彼方で光り輝けるってだけで、羨ましいことこの上ない。

 私は、そんな風な光を放つことなんて一生できないだろう。街明かりのせいで見えない星々よりも、私のほうが儚く霞んでる。それに、絶望はしない。身のほどは弁えてるつもりだ。あんな遠い空に、願いをかけることなんかしない。それでもここに来たのは、多分息を吸うためだった。明日を生き抜くための力がほしかった。自分の惨めさを癒すようなものがほしかった。人前で泣いてしまわないだけの強さがほしかった。

 けど、毎夜屋上のフェンスに寄りかかって、ただ星空を眺めるだけじゃ、どれも手に入らない。虚しいだけだ。

「空でも飛べたらいいのに」

 そしたら、きっとあの星のもとまで行ってみせた。ああ、本当に星を捕まえられたらいいのに。私は馬鹿みたいにフェンスに足をかけて、腕を伸ばしてみる。到底届くはずもないけれど、そんなことに縋ってみなきゃ、やってられなかった。フェンスにそのままよじ登って、夜景を眺める。すぐそこの大通りを走る車やコンビニの目映い明かりがよく見えた。走行音だけが響き渡る面白くも何ともない光景だけれど、昼間の喧噪よりはずっとずっとマシだった。

「人間、死ぬ気か?」

 くぐもったような掠れ声が聞こえてきて、慌てて振り返った。警備員でも来たかと思ったからだ。今は自由に入れてるけど、危険な行為をしてたから出禁なんて言われたらやってられない。たとえ他の居住者だったとしても、私の息抜きの場所を奪われるのは堪らない。けど、そのどちらでもなかった。

 人ですら、なかった。

 三つ叉の狐が、悠々とその体を丸めていた。大きさは、普通の狐よりも二回りほど大きい。下手な大型犬くらいはある。三つに分かれた尾の一本一本がゆらりゆらりと風に揺らめいている。尾の先っぽだけは赤く、他は小麦色の体毛をしている。

「どうした、人間」

 今度は、はっきりと口を開くところが見えてしまった。

「い、嫌あああああっ!!」

 なんだ、あれ。逃げなきゃ。逃げなきゃ!

 混乱する頭で、とにかく少しでも距離を取ることを選んだ私は、フェンスを乗り越えて向こう側に降り立つ。足を滑らせれば真っ逆さまな危険な場所だけど、あんな変な狐と一緒にいるよりは安全だ。今も、何やら首をもたげるようにして、赤い眼を闇夜に光らせている。妖怪だ。あれは、そういう類だ。そうとしか見えない。それとも、私がおかしくなっただろうか。わからない。わからないけど、見てはいけないものを見ていることだけは、確かだ。

「誠に、死ぬ気か?」

 低く落ち着いた物言いに、体が震えた。どこに逃げればいいんだろう。普段だったら涼しく感じられる風が、恐怖をかき立てていく。ここから落ちるか、あの三つ叉の狐に殺されるか。二つに一つな気がした。

「死ぬつもりなんか、ないよっ」

 ないけれど、でも、どうしたらいい? 三つ叉の狐なんか聞いたことがない。何をされるかわかったもんじゃない。油揚げでも渡せばいい? どうすれば、生きて帰れるんだろう。背筋がすっと寒くなった。喉がからからに渇いて仕方がない。

「吾は、汝が死のうとしているようにしか見えないが。ほら」

 三つ叉の狐が大口を開けると、青白く燃える狐火が現れて、ふらふらと私の眼前にまで迫ってくる。

「いや、いや、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 止めてっ!!」

 反射的に、狐火を追い払うように両手を動かして、私はあっさりとバランスを崩した。ふわりと、体が宙に浮く。足場を求めた左足が空を切る感覚が伝わってきたと思うと同時に、そのまま真下へと落ちていく。セミロングの黒髪が、空へ舞い上がるのがスローモーションみたいによく見えた。

 あ、死ぬんだ。

 と、そう思った。続けて、怒濤のように恐怖の波が押し寄せてくる。それが全て意味のない悲鳴となって口から漏れていく。やだやだ。助けて、死にたくない。痛いのは嫌だ。こんな、こんな終わりなんて、嫌だっ!

 無我夢中で右手を伸ばした。そんなことをしたって、あの星空に手が届くわけがないのに。私は夏の大三角形に縋ったんだ。

 その愚かな手を、掴むものがあった。ほとんど引っ掻くように、右手の甲に爪を立てて、三つ叉の狐が赤い眼で私を見定めていた。救う価値のある人間か、問われている。本能的に、そう悟った。

「まだ、生きてたいっ!」

 腹の底から決死の思いで捻り出した叫び声は、三つ叉の狐に届いたのだろうか。ふっと緩められたその眼差しを、どうしてかその瞬間だけは美しいと思ったのを最後に、私の意識は夜の闇に葬られた。



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