最終話 即身醜女
それは柳にとっては或る意味で至極当然のことのように思いました。
「ここの窓からは学校が見える。お前は毎日僕のことを見つめ続けるんだ。他の誰にも目をくれてはいけないぞ。分かったか。絶対だ、絶対だぞ」
何故ならこうして黒杉山の山小屋で縛って吊るされるより前から、柳はずっとそうしてきたからです。
故に寧ろそのこと以外をする必要も、周囲に何かを駆り立てられる訳でもない日々に彼女なりの幸福を感じながら、柳は次の日も、その次の日も、次の週も、そして次の月も鎮太郎くんだけを見つめて愛を囁き続けました。
朝、鎮太郎くんが校門の前に来ると、ちらりとこちらに視線を飛ばして合図をしてくれます。
「ふへ、し、鎮太郎くん、おはよう」
それはいつも長くてほんの数秒、鎮太郎くんは生徒の波に飲まれて直ぐに昇降口へ姿を消します。
柳は消えた鎮太郎くんの姿が見えなくなると瞼を閉じ、心をその傍らに飛ばして一緒に教室に向かうことを想像します。
想像の中で、鎮太郎くんは何かの不満や自分が如何に凄いのかを柳に力説しながら歩き、柳は「うん、うん、そうだねえ」と笑顔で頷きます。
そして瞼を開くと、いつも丁度鎮太郎くんが教室に入ってくるところが見えます。
このタイミングがばっちりだったりすると、柳は嬉しくなりました。
「ふへへ、今日も、ちゃんと一緒に歩けた」
そしてそのまま授業中の鎮太郎くんの寝顔を見つめる。
そんなことがずっと続きました。
しかし、どうしたことでしょう。
「ぶへ。ど、どうしたんだろう。鎮太郎くん、何かあったのかな」
ある日を境に校門の前辺りに差し掛かると鎮太郎くんの視線は足元に落ちるようになりました。
どんよりとしたドドメ色の空の渦巻きがぐるぐるぐると回っています。
そんな空でも何となく幸せな日々の中にあっては、見応えがあって綺麗とも言えるのかも、なんていうことを思ったりもしたこともあったのですが、今はただ汚いだけの陰鬱な空です。
そんな印象が延々と続きした。
ずっと、ずっと、ずっと。
やがて次の年になりました。
毎日鎮太郎くんの姿は見かけます。
柳はじっと耐え続け、鎮太郎くんを見つめ続けました。
積もった雪が溶けて、奇形の桜の花が咲き乱れました。
しかし、未だにこちらの方を見てくれません。
それでも柳は、鎮太郎くんは不器用だから、また少しの間意地悪をしているのだ、と自分に言い聞かせて、言い付けを守って過ごしました。
目が覚めて、夢に落ちて、また目が覚めて、そのどちらの世界に放り出されても、柳は鎮太郎くんを想い続けました。
「鎮太郎くん、私は何があっても絶対に鎮太郎くんを想い続けるよ。鎮太郎くん、鎮太郎くん」
どれだけ長い間かかろうとそうあり続けられると、柳は信じて疑いませんでした。
そんなある日の朝のことです。
「ぶへ、し、鎮太郎くん!」
鎮太郎くんが山小屋の方へ意識を向けたことを柳は彼が振り向く前に敏感に感じ取りました。
校門から昇降口へ向かう生徒の流れの中で、立ち止まりこちらを眺めるその二人は周囲から浮いて見えます。
「ふへ?」
鎮太郎くんと、佐倉ちゃんです。
二人は手を繋いで山小屋の方をじっと見つめていました。
「・・・」
ふと鎮太郎くんは何か少し後ろめたそうに俯き、佐倉ちゃんはこちらを見たままニヤリと笑って鎮太郎くんに抱きつきました。
「・・・」
二人はくるりと踵を返し、そのまま生徒の流れに溶けて、昇降口へ消えていきました。
「柳よ。僕はいつかここへ必ず戻ってくる」
「ホントウ?」
柳の頬に涙がつうっと伝いました。
「今日はこれまでの人生で一番嬉しかったことを作文に書いてください」
ふへ。
「おい、お前。消しゴム無いの? 僕が貸したげようか」
柳は作文の名前をゴシゴシと消しました。
ありがとう、鎮太郎くん。
綺麗な思い出の中で時間だけがどんどんと過ぎていきます。
“このおおぞらに、つばさをひろげ”
卒業の季節になって、学校の体育館から生徒達の歌声が聞こえてきました。
1年、2年、5年、10年。
“かなしみのない、じゆうなそらへ”
とっくの昔に知る顔は学校から居なくなっていきました。
20年、30年、40年。
やがて学校は寂れ、取り壊されました。
自分の姿がどんどんと消えていく。頭が真っ白になっていく。
「つばさ、はためぇーかぁーせぇ〜・・」
どこからが世界で、どこまでが自分なのか、それを判断する自分すらも消え去っていく心地がしました。
鎮太郎くん、今あなたはどこにいるの。
幸せにしているのかなあ。
「な、何か居る?・・・柳?」
ふと、柳はすぐ近くで鎮太郎くんの声がした気がしました。
シン、タロウ・・?
「し、しんたろうくん!」
窓の外に鎮太郎くんと、腕に“生徒指導部”の腕章を付けた見知らぬ女子生徒の姿がありました。
「う、ぅあん!」
苑子さんに背後から肩に触れられた鎮太郎くんは全身に鳥肌を浮き上がらせて叫びました。
「な、何ですか!何か御用ー!?」
「ウ」
ガクガクと震えながら咆哮する鎮太郎くんの眼前で苑子さんは両手を伸ばしたままグラリと揺れると、そのままうつ伏せに腐った枯葉の上に倒れました。
「し、鎮太郎くん、私は、私はここだよーっ!」
柳は縄でぐるぐる巻きの身体をギシギシと震わせて叫びました。
しかし、外の鎮太郎くんに声が届いている様子はありません。
「し、死んだ?硬い」
鎮太郎くんは周辺に落ちていた棒で苑子さんを突っついています。
「死んだならそれも結構!僕は関与していませんからね。清々しました!かか、か、帰りますっ!」
そう言うと鎮太郎くんは窓から見えない方へと去っていってしまいました。
「う、うああああッ!! 待って、降ろして! ここから降ろして! 助けて、助けて神様!!」
その時でした。
蛹のように硬く丸まっていた苑子さんの背中に亀裂が入ると、そこから強烈な光が溢れ出したのです。
柳の瞳には巨大な蝶の翅が映り込んでいました。
やなぎ・・、やなぎ・・、
光を放つその女神は優しい表情で柳を見つめています。
「・・・」
女神は微笑むと柳にたずねました。
「もうやめる? それとも、つづける?」
了
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