第36話 目指せ即身仏〜③
「もご」
ぼんやりとした視界の中で宙に浮く自分の脚と床の木目が浮かび上がってきました。
眠りから目覚める度に柳は最初自分が何処に居るのかが分からなくて混乱します。
しかし、徐々に意識がハッキリしてくると共に、身体に深く叩き込まれた鎮太郎くんの独占欲と嫉妬心が激痛となって、ここがどこなのかを思い出させてくれます。
柳は顔をあげると、山小屋の窓の向こう、樹木の隙間から学校の様子を眺めました。
いつもと変わらず、登校する生徒達が校門に飲み込まれていきます。
その内の一人がちらりとこちらを向きました。
「もが、・・ふご」
柳の胸の辺りが急に熱くなります。
鎮太郎くんです。
鎮太郎くんは、直ぐに他の生徒達の群れに混じって消えていきます。
毎日こうしてこちらに視線を送ってくれる訳ではありませんでしたが、鎮太郎くんのことばかりを考えて過ごしている柳にとって、この朝は、一日の内でも最も幸せな時間帯の一つでした。
「
最近は運が良いなあ。3日も続けて鎮太郎くんがこっちを見てくれたぞ。この数日は鎮太郎くんが一日楽しく過ごせるようにということを神様にお願いして過ごしているからかも知れない。そうだ、そうに違いない。
(よし、今日も頑張るぞ)
柳はニヤニヤを抑えて瞳を閉じると心の中で両手を合わせる心持ちで強く念じました。
(鎮太郎くんが今日も一日楽しく過ごせますように。鎮太郎くんが今日も一日楽しく過ごせますように)
柳は何度も念じました。
丁度その頃、ホームルームが始まる前の教室では、生徒達が思い思いに自分の時間を過ごしていました。
生徒同士で雑談をする者、教室の床で座禅を組む者、ドストエフスキーを読む者、そして外した机の板を再び螺子で留め直す佐倉ちゃんの姿もあります。
佐倉ちゃんは最後の螺子をギュッと締めると、巾着袋の中から大きなガラス玉を取り出し、傷だらけの机の上に置いて、それをジッと眺め始めました。
「やあ、佐倉さん。佐倉さんはそうしてこのところ毎日机の板を外して持ち帰っている様だね。何故だい」
佐倉ちゃんは頭を動かさず声のした方を睨みつけました。
「どなた?」
「何・・ッ?」
「・・どなた?」
「ぼ、僕は半年以上前から君のクラスメイトをさせて頂いている、伸宏という者です。以後、お見知り置きを」
「そうですの。ところで私はこの水晶玉に念を集めなければならないの。あっちに行って下さるかしら」
「・・・」
「あら、聞こえなかったのかしら。この距離で。あなた、耳が悪いか知恵遅かのいずれかですよ」
「ち、畜生!」
伸宏くんは教室から飛び出して行きました。
「ふん、玉無しが・・」
佐倉ちゃんはガラス玉を両手に持つと、窓の向こうの黒杉山を眺めている鎮太郎くんの方へ翳して透かしました。
「あら?」
鎮太郎くんのそばに
「・・こ、これは」
見る人によってはそれはただの靄でしょう、しかし佐倉ちゃんの目にはそれは間違いなく寺地くんでした。
薄っすらとした寺地くんのシルエットは、鎮太郎くんの傍らに立ち、肩に手を付くと、鎮太郎くんが見つめる窓の外の黒杉山の方を指差しています。
佐倉ちゃんは鎮太郎くんの視線の先をガラス玉で透かして見ました。するとどうでしょう。そこに見たことの無い小さな山小屋が映り込んでいたのです。
それだけではありません。
「あれは、まさか・・?」
山小屋の窓から縄に縛られ、吊るされた女の子がこちらの方を、もっと正確に言えば、鎮太郎くんの方を一心に見つめているのです。そしてそれは——
「柳さん・・!?」
佐倉ちゃんは驚いた様子で咄嗟に直接黒杉山を見ました。しかし、同じ場所に山小屋はありません。
佐倉ちゃんは鎮太郎くんと黒杉山を交互に見て、頭の中の発想の回路を繋げました。
「これは、どういうこと。まさかとっしぃ先輩、死んでからも尚あの醜女の為に何かをしようとしているの」
佐倉ちゃんは歯をギリギリと噛みました。
「許さない、あの下痢ブスめ、私のとっしぃ先輩の魂まで独占するつもり?」
佐倉ちゃんはガラス玉の中の柳を呪う様に睨みつけました。ガラス玉の中で、柳は幸せそうに一つになった目を緩ませて鎮太郎くんを見つめています。
「自分だけ幸せになろうたってそうはいかないわよ!」
——覚悟しなさい。
ふと、“ぎぎぎぃ”と山小屋のドアが開きました。
「もが、ごごごっ!」
柳は必死で扉の方へ身体を捻ろうとしました。
(し、鎮太郎くん!)
しかし色々な方向から縄が延びているので身体が全く動きません。
「柳」
それは柳にとってそれ以上無い幸福を感じさせる響きでした。
床を踏む足音が近付いてきて柳の目の前にその人物は現れました。
柳の一つの目玉から涙が溢れ出ます。
(鎮太郎くん、本当に来てくれた・・!)
「ちゃんと約束を守って戻ってきましたよ」
そう言って鎮太郎くんは唾を吐くと、学制帽を脱いで椅子の背もたれに掛けると頭をぽりぽりと掻きました。
「どうしてくれる。ここ数日お前に見られていると思うとどうにも気になって仕方が無いじゃあないか。しかしだな、妙なもので、あちらからはこちらは見えないのだよ。何故だろう、馬鹿にされている気持ちですよ、ふん」
「モガ、モゴ!」
こくこく頷いて涙をボロボロと流す柳の耳を鎮太郎くんはギュッと摘むと、横に引き千切らんばかりの強さで引っ張りました。
「ところで貴様、ちゃんと約束は守っているのでしょうね。もし指示したことを怠ったら酷い目に合わせるからな」
柳は再びこくこくと頭を頷かせました。
鎮太郎くんは「ふん」と鼻を鳴らして耳を引っ張っていた手を柳の頭の後ろに回しました。
「もご・・」
柳は髪の毛でも毟られるのかと痛みに備えて目をギュッと瞑りました。
鎮太郎くんの手が頭の後ろでガサゴソと動いています。痛みのようなものはありません。
「ふえ?」
突然の開放感に柳は目を瞬かせました。床に手拭いが落ちています。
柳の口に付いていた猿轡が外れていたのです。
「ふえ、良いの・・?」
鎮太郎くんは拗ねた子供のような表情で「何がだ」と言って柳を睨んでいます。
「えっと、あの、へへ・・、私、叫んで誰かに助けを呼んじゃうかも知れないよ」
鎮太郎くんは椅子に腰掛けて「ふん。勝手にしろ。その時には地獄の苦しみを味あわせてやるだけですよ」と言いながら窓の外を眺めました。
「・・・」
「何故だ。何故こんなに近いのに学校側からはこの山小屋が見えないのだ。柳、お前はどう思いますか」
「ふひ。う、うーんうーん。わ、分からない。ごめんなさい」
鎮太郎くんは「別に期待してませんので大丈夫です」と言って窓の外を観察しながら冷たい声で返しました。
「ねえ」
「・・・」
「鎮太郎くん」
「・・何ですか、僕は今忙しいのですがね」
「もっと前、小学校の時に一度席が隣になったことがあったのを憶えている?」
「ん・・、ああ。そんなこともあったかな」
鎮太郎くんは柳の方へ頭を向けずに言いました。
「げへ、その時にね、鎮太郎くんは私に消しゴムを貸してくれたことがあったのよ」
「・・・」
鎮太郎くんは心の中で、それが一体何なのだ、ということを思いましたが、その言葉を飲み込んで「それで?」と話の先を促しました。
「それまで誰も私に話掛けもしなかったの。ほら、私って気持ち悪いでしょう?」
「まあ、それは間違い無いな。どうやらお前はもののけの類いのようですから。特に子供はそういうことが分かるのでしょう」
「うん、そう。だからね、げへへ、私はそのことがとても嬉しかったのよ」
鎮太郎くんはまた唾をべっと床に吐きました。
「ふん、そんなことですか。何を言い出すかと思えば、下らない。聞いて損しましたよ」
「ふふ、でもね。私にとっては大事な大事な思い出」
ふいに鎮太郎くんが椅子から立ち上がり、柳の視界からいなくなりました。
「あ、待って、鎮太郎くん。もう一つ」
小屋のドアの方から鎮太郎くんの声ががイライラした様子で「何ですか、しつこいですね」と応えました。
「ふへ、私ね。鎮太郎くんに伝えたいことがあるの」
「ああん? あのね、少し会話を交わしたからといって何か大きな勘違いをしてやいませんか? 柳の癖に調子に乗って喋り過ぎです」
「ふひ、ご、ごめんなさい」
鎮太郎くんは山小屋の外に出るとわざと大きな音を立ててドアを閉めました。
「ふう、クワバラクワバラ。鎮太郎様ともあろう人間が危うく醜女と馴れ合ってしまうところでした」
そんなことを呟きながら鎮太郎くんは枯葉の積もった山の斜面を登り始めました。
——ふふ、でもね。私にとっては大事な大事な思い出。
「・・・」
明日また来て柳をあそこから降ろしてやろう。そして、もう虐めるのは止めにしよう。
そんなことを思いながら、鎮太郎くんは木の枝を掴みながら一歩一歩斜面を登って行きました。
暫く登ると斜面の先に山道脇のガードレールが見えてきました。
鎮太郎くんは「ひい、ひい」と息を切らせてそこまで辿り着き、ガードレールを乗り越えると山道に仰向けに大の字になって倒れ込みました。
「な、なかなか厳しい道程だ。ふう。明日もこれを登るのかと思うと気が重いな。うーむ、でも仕方あるまい」
「あら、鎮太郎くん。授業をサボってこんな所で昼寝をなさっているの?」
「おや、この声、さ、さささ、佐倉ちゃん・・?」
丁度その時、ドアをガンガンと打ち付ける音が山小屋の周囲に木霊していました。
「ふひ、な、何。こわい。だあれ? 鎮太郎くん?」
柳が呼びかけてもその音は止むことはありません。
ガンガン、ガンガンガンガン!
それはハンマーで扉が開かないように釘を打ち付ける音、響かせるのは宙に浮く水掻きの付いた柳のお母さんの手でした。
ガンガンガンガン!ガンガンガンガン!
「ぎひぃ、やめてぇ!」
娘の悲痛な絶叫にお母さんの腕は一層青筋を立てながらハンマーの音を黒杉山に響かせます。
「ガンガンガンガンガン!!」
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