第17話 お宿のお風呂に入るよ
どろどろのボロ布になった服、下着を脱ぎ、竹のカゴに入れた柳の身体には麻縄の跡が残っていました。
“ガラガラ”と引き戸を引くと中から湯けむりがもくもくと上がります。
「お、お風呂、ひゃひゃ」
暫くすると視界が開けました。女風呂の利用者は他にいない様子です。照明が切れかかって、浴場の壁に描かれた噴火する富士山の絵がパキパキと点いたり消えたりしていました。
柳が浴場内をベタンベタンと走って合成樹脂製の小さな椅子にぴょんと座ると、長い漆黒の髪の毛がわしゃっと水色タイルの床に広がります。
柳は頭から桶に溜めたお湯を全身に浴びて身体中に着いた汚れを流しました。排水溝に泥と血が混じったお湯が渦を巻きながら飲み込まれていきます。
柳はふとお風呂に引きこもっていたお母さんのことを思い出しました。
自分に醜女という名前を付けたお母さん、いつも自分を馬鹿にしていたお母さん、首を吊って死ねと言ったお母さん、魚屋の原宿で切り売りされていたお母さん、それでも柳にとっては大事なお母さんです。
腕はあのまま樹海の中で土に還ったのだろうか、お母さんは人魚だから、海に還した方が良かったのだろうか。
「げへ、げへへ」
柳は笑っているような声を出しながら少しだけ泣き、水掻きのついた手で涙を拭いました。
「よ、よぉ〜し、洗っちゃうぞ」
気を取り直して浴場の檸檬の形をした石鹸を使って長い髪の毛から洗い始めた時のことです、ふと柳は誰もいないと思っていた浴場に何かの気配を感じました。
「う?」
柳の正面にある鏡の向こうに湯面から鼻より上を出してこちらを眺める男の人の頭がチカチカと見えた気がしたのです。
柳は唇を尖らせながら目を細めて鏡の中のその影を眺めました。チカチカと光る照明の闇に紛れるようにしてこちらを眺める頭はパッと消えました。
「ひ、ひひ」
柳はそのことを気にしたく無かったので、気にするのをやめました。痛いこと、苦しいことと同じ、嫌なことは気にしなければ、見なければ居ないのと同じなのです。
しかし気にしないようにする、というのはなかなか難しいものです。
(何も居ない、何も居ない……、と思うのは本当は居るから……、ふへ、駄目だ。じゃあ、じゃあ反対に……、な、何か居る、何か居る、絶対何か居る)
泡の塊になった柳は瞼を薄く開けて、もう一度鏡を見てみました。お湯に真っ直ぐ直立不動で立っている巨漢がいます。
(ふへ、居た)
巨漢は血走った目をして自身を指差し「ん?」と首をかしげました。
(駅に居た人だ。や、やだ)
柳はうつむいて手をガシガシと動かし、髪の毛を桶に溜めた湯で流しました。そして顔のお湯を拭った直後のことです。血走った目をして首をかしげる巨漢は湯船の外へ出ており、つまり、柳の方へ近付いて居たのです。
「ん〜?」
巨漢は柳の僅かな心の動きを捉えると、再び自身を指差しました。私に何かご用ですか、という意味のようです。
「へ、へへ……」
柳は唇を噛み締めながら目を反らして身体を洗い始めます。
(い、厭だなぁ、これ、近づいてくるのかな、ふへふへへ)
柳は後ろを振り向いて直接見てみました。
目の前に血走った目をした巨大な顔があります。
「……げひっ」
「ん〜ん?」
柳は(まずい、声を出しちゃった)ということを思って、さっと正面に向き直りました。正面の鏡にはイスに座った柳の肩の直ぐ上に腰を曲げて突き出した巨漢の顔があり、つぶらな瞳が直ぐ横の柳の耳にきゅっと向きました。
「何か……、僕に用ですよね、駅でも僕を見ていましたね、ええ、見ていましたとも、恋しちゃったのかい? いや、恋を……、しちゃったのかい?」
「………」
浴場の照明が硬直する二人と、もくもくと漂う湯けむりを照らします。
「……おや」
巨漢は柳の髪の毛を親指と中指で丁寧に摘みました。
「枝毛……だね、きちんと労わっているかい?髪の毛は女の命だからね、分かるかい?」
巨漢は毛先をペロペロと舐めながら言いました。
「………」
柳は頭に浮かぶ色々なことをシャワーで流し、心の中を空っぽにしました。
「ところで何なんですか、僕が何をしたって言うんです? 何故お風呂の中にまでついて来るんです?」
「………」
突然巨漢は柳の両肩をがしりと背後から掴んでじとっとした声で言いました。
「ここは、女湯ですよ?」
「ふひぃ……、はい、実は、そうなんですけど……、へへ」
巨漢がにっこりと笑います。
「ん? 今何か言いましたよね。もう一度、え? ああ、そうですか、でも駄目です、はい聞きました。何ですか、何か僕に用事ですか?」
「………」
柳は桶を置いて立ち上がろうとしました。しかし、肩に何か負荷が掛かっている為に立ち上がれません。
柳はお尻の下の
巨漢も付いてきて湯船のお湯に浸かりました。
直ぐ隣に巨漢の顔があります。
「お耳、洗ったかい?」
そう言うと巨漢はペロペロと舌を出して柳の耳を舐めました。
「あばばばば」
お湯はあったかい筈なのに柳は全身に鳥肌が出ました。
“ガラガラ”
ふと、浴場の出入り口の扉が開きました。柳が涙目で見ると地獄中学校の“焼却炉の木偶の坊”こと用務員の佐藤さんの姿がそこにありました。
佐藤さんは作務衣を着たまま入って来ると「マッチ、マッチ」と不思議な掛け声をあげながら浴場内を走り始めました。
“ガラガラ”
「祝ってやる〜、祝ってやる〜」
浴衣姿で網笠を深く被り、手甲を付けた手をぬるぬると振り回しながら湯けむりを掻き分けるように阿波踊りをする女の人の集団がゆっくり入って来ました。
「何か騒がしくなって来たから、……あ、あがろうかなぁ」
柳は耳を舐められながら厭そうに巨漢と反対の側へと斜めに身をよじらせて言いました。
「お嬢さん」
ふと柳は佐藤さんが湯船の前に立ってこちらを見ていることに気が付きました。
「初めまして、私はとある紳士です。“焼却炉の木偶の坊”では決してないのだ。ところでお嬢さんは何をしているんだい」
「お、お風呂に入っています」
「お風呂? おや、ここは……」
佐藤さんは周囲を見回しました。
「だはっは!!君ぃっ、ここ、お風呂じゃないか。お風呂じゃないか、ここ、だはっは!!」
佐藤さんは慌てた様子でズボンに丸めて挟んでいた猥褻な本を取り出すと自分の顔をそれで思いっきり“バシィッ!!”と殴りつけ、歯が一本タイルの上に落ちました。
「うひぃっ!」
「郷に入れば郷に従え、風呂場に入ったら湯船に浸かれ……、ってね」
歯抜けになった佐藤さんはニコッと微笑むと作務衣のまま柳の隣に座って湯に浸かりました。
「うげば、あばば」
柳の身体は勝手にプルプルと震えだしました。
「ところでお嬢さん」
「は、はいぃ」
「この辺りでマッチを見なかったかね、どうしても燃やしたい女の子がいるのだよ。人の話を全く聞かない子でね。腹が立ったので殺してやろうと思っているのさ」
「ふひ、多分、ここには無いです」
「そうかい、だはっは!?」
女湯の浴場に絶叫するような笑い声が響き渡るなか、柳は佐藤さんの反対側にいる巨漢に首筋をベロベロと舐められています。
柳の頭はガクガクと震えながら正面を向きました。右も左も厭な感じがするからでした。
正面には噴火した富士山の絵を背景に、自殺の郷の阿波踊りシスタァズが「祝ってやる〜、祝ってやる〜」という掛け声と共に舞う阿波踊りが、コマ送りのように点滅する照明に光っています。
「パン、食べるかい?パンが何から出来ているか知っているかい?」
柳は固まった首の筋肉を何とか動かして声の方を向くと、佐藤さんがお湯に浸かってビショビショになって曲がった食パンを柳の方へ差し出しています。
「………」
「ん? 心配しなくても大丈夫だよ私の分は別にあるから」
佐藤さんはズボンに手を突っ込んで食パンをもう一枚取り出しました。
「あの、あがる、ふへへ、へ、いらない」
柳が立ち上がると、巨漢も立ち上がりました。佐藤さんは柳そっちのけで両手の食パンに喰らいついています。
「美味しいですなぁ! 食パンって。ところで何でバターって溶かすと甘くなるんですかねぇ」
「祝ってやる〜、祝ってやる〜」
「ふへ、あの、どど、どいて、どいてよぉ」
「どきなさい、この気違いども」
柳と巨漢は阿波踊りシスタァズを押しのけ、何とか脱衣所に出ました。
巨漢は肩についた埃を払うような仕草をしました。贅肉がぷるんと波打ちます。
「ふう、何なんだ、あの人達は。踊っていたよ、しかも服を着たまま! 頭がおかしいのかな」
「………」
柳は巨漢を無視してお蝶さんに渡されていた浴衣をカゴから取り出しました。浴衣の背には“私は宿専属の
(売女って、な、何だろう。うへへ)
浴衣に痩せ細った腕を通すと柳はびしょびしょのまま女湯の
「あ」
通路に長身の人影があります、禿さんです。
「あの、い、いいお湯でした」
「ケジメ。……つきましたか」
「あの、それは、よく分かりません、ふへへ」
柳は背中を丸めて禿さんの前をパタパタと通り、次に裸の巨漢が通りました。
その時のことです。禿さんが巨漢の頭をガシリと掴みました。
そして匕首の鞘を口で抜くと、ドンっと巨漢の顔面に突き刺したのです。
めりめり、っと刃が額の真ん中へ沈んでいきます。
「あびょびょびょびょ〜」
禿さんは、両目が上下にぎょりんと回った巨漢を中庭の人食い魚がいる池の方へと引きずって行きました。
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