第16話 けじめ
樹海の入り口から歩いて徒歩5分の場所にある、民宿、「最後ノ晩餐」の引き戸がガラガラという音とともに開きました。
「ごめんください」
「いらっしゃ……、何だ、お前か。何の用だ」
脚が四本あるおじさんが金夫の顔を見て嫌そうな顔をしました。
「やあ、越後さん、お蝶の姐さんはおりますか」
「ん?」
金夫は何やら細っこい腕を掴んでいます。
「も、も、もう結構です、ふへ、ふへへ」
「だから別の仕事だっつってんだろ! それにお前さんはあっしの奴隷なんだ、逃がさねえぞ!」
「何だ、その汚ねえヘドロは」
「ここで働かせようと思って来たんでやすよ」
「ああん?」
越後さんは表情を歪ませました。
金夫は柳の腕を掴んでズルズルと引っ張り静まり返った夜道を歩きます。
「げへへ、もう、やだ、修虫くん……」
「こら、てめえ、いい加減にしねえか! シャキッとしろぃ!」
どうやらお蝶さんという人は近くの公園に散歩に行っているらしく、柳はその公園まで金夫に引きずられているのです。
「手を焼かせると、殺すでやんす。 教育的指導!!」
柳は髪の毛をひっ掴まれ、溝を流れる汚水に顔を押し込まれました。
「がぼ、がぼごぼぉッ!」
「おや」
苛々していた金夫の顔がほんのりピンク色になり、いやらしい笑顔が宿りました。
「これは気持ちが良いでやんすね」
「ぼこごぼごぼ……、ぶく」
柳の脚がピクッと震えました。
「……ぶく、……」
腐った水にボコボコと浮き上がっていた泡が無くなりました。
「そ〜れ」
“ざば〜”
幸福感いっぱいの金夫は溝から柳の頭を引き上げました。
「……」
柳の目は白目で呼吸をしていません。
「おや、死んだ? しまった! あっしの金が……」
金夫には頭の中の一万円札の束が柳の命の分目減りするのが見えました。
「おえっ! うげッ! げほげほ」
「じぇ!?」
不意に柳が口から汚水を噴き出しました。
「何を寝たフリしてるでやんすか! しかし生きてて良かった! だからもう一回……」
「あの……、ぼっ! がぼごぼごぼ」
金夫は再び柳の顔を汚水に漬け、柳は暫くの間失神と蘇生を繰り返しました。
朦朧とした意識の中、柳は織田さんにくすぐられた直後のことを思い出しました。
「も、もう、くすぐりはやめて下さいぃ、ひぃ〜!!」
「こんばががぎどげぎゃぎゃ!?」
織田さんは怒った様子でヒロポンを注射器で吸い上げると静脈に注射しました。そして「がびッ!!?」と絶叫すると地面をどたどたと踏んで闇の中へ消えていきました。
急に辺りが静かになり、ぴちゃんぴちゃんという雫が落ちる音だけが鼓膜を打ちます。音のする方を向くと、丁度妙な風が吹いて“ぎぎぃ”と闇の中の黒い影が揺れました。首を吊った修虫くんです。
その顔は人の頭の型をした風船の空気が抜けたような表情をしていました。
“ぴちゃん、ぴちゃん”
漏れた尿が死体の下で水溜りになっています。
「ふ、ふひ、やだ、やだよ。助けて、鎮太郎くん」
丁度その時後方でガサガサと音がしました。
「柳さん」
振り向くとそこには男の人を背負い提灯を持ったを女の人の姿がありました。
「あなた、自分が決めたことは邪魔されたくないのに、人の決断はそうして悲しむなんて、その子を馬鹿にしているようなものですよ」
それは寺地くんを背負った羽識さんでした。
「へあ?」
「ところで、どっちに行くとこの樹海から出れるのですか」
「あ、あっちからきたから、あっち」
羽識さんは「ふん」と鼻を鳴らすとそのまま寺地くんを背負って樹海の出口の方へと歩いていきました。
(じゃあ死にたがっている人は止めずに死なせてあげた方がいいのかなぁ)
柳は朦朧とした意識の中、金夫に引きずられながらそんなことを思いました。
自殺の郷の外れには大きな公園があり、森に囲まれた外周を「マッチ、マッチ」と不思議な掛け声を出しながら走っている人影があります。真ん中に一つだけ大きなブランコがあり、女の人らしき影がそれを大きく揺らしていました。傍に背の高い男の人の影があります。
ブランコを漕ぐ女の人は頭にたくさんの櫛を刺さした蝶のような派手な髪型をしており、揺れる度に派手なギラギラした振袖がふわりと舞います。
「お蝶の姐さん!」
ブランコを揺らしていたお蝶さんが金夫の方へ顔を向けました。
「ち、お前さんかい。アタシの名を気安く呼ぶんじゃあないッ! この
傍に立っていた頭に髪の毛が一本も無いジャージ姿のお兄さんが金夫を睨みつけ、上着のファスナーを下ろしました。筋肉質な体に巻かれたサラシには色々な道具が刺さっていました。お兄さんはサラシに挟んでいた
「ぎゃっ! あの、兄弟、今日も、その、闇の中でも光ってますでゲスね。あ、存在感の話でゲスよ?」
「
「……」
お蝶さんに禿と呼ばれた男の人は匕首を鞘に収めました。お蝶さんはブランコから雲がぐるぐると渦巻く夜の空に飛ぶと底の厚い花魁下駄で“ずざっ”と砂煙を巻き上げながら着地しました。
「遺言を聞いてやろう」
「またまたァ、あっしが来る時は、分かってるでしょう? こっちこっちぃ」
金夫は親指と人差し指を引っ付けてニヤニヤと笑いました。
「こいつでゲス」
柳は腕を引っ張られて立たされました。
「何だい、このヘドロは、……おや」
「ふ、ふへ」
「あ、パッと見は
「……ふざけてるとお前の親みたいにアスファルトに詰めるよ」
「ひ!? ……ひひ、その節はお世話になりました。で、ヘドロのレンタル料なんですがね……」
金夫は算盤をパチパチと弾いています。
「かね、か、金夫さん。お父さんとお母さんを殺したの?」
「ああん? 人聞きの悪いことを言わないで頂きたい! あっしはたまたま保険金の受け取り人だっただけでやんす、ケヒヒ! おっと、ヨダレが。おらっ! どきやがれ!! へへ、姐さぁん、こんなもんで如何でやんすかね、へへ」
お蝶さんは煙管の先に付けた煙草を蒸しながら算盤に提示された額を見て不快そうに目を細めました。
「9割」
「へ?」
お蝶さんは、フゥッと煙を吐きます。
「9割引け」
「ひ、ひひ、姐さぁ〜ん、金の絡む話でそういう冗談はいけませんぜ」
「あ?」
「……え」
公園に一陣の風が吹き、空気が変わりました。
「あの、何か、気に障ることでも……」
「この目が冗談に見えるんかコラ」
お蝶さんの顔の白粉の下から血管が浮き上がりました。
「あの、その、見えません」
「分かって言っとるっちゅうことは、つまり舐めてんだな?」
お蝶さんが顎をくいっと動かすと禿さんがずずいっと金夫に歩み寄りました。
「金夫さん、指を出して下さい。ケジメなので」
ボソッとそう言うと、禿さんはバッとジャージを広げ、『不思議なサラシ』に挟まっていたまな板と匕首を地面に“がちゃん”と叩きつけました。
「ほぁッ!? あっ、あの、9割、喜んで、引かせてもらいます! ご、ごめんなさい、でゲス」
金夫の大きな蝶ネクタイがガクガクと震えだしました。突然お蝶さんの目がカッと開きます。
「こんガキャァ! 指出せっちゅうとるんじゃコラァ!?」
「ひいいッ!!?」
「ふへ、岩下志麻」
「金夫さん、失礼します」
“ずざああ”
「あびょえ!?」
禿さんは金夫の腕を引っ掴むと何かのプロレス技の要領で金夫の指がまな板の上に乗るように倒れ込みました。
「ちょっ、ちょっと! 何でそうなるんですかぁッ!? 私の指なんて1円にもなりませんよォ!!」
「金夫さん、ケジメです」
そう言って金夫を剛腕で抑え込む禿さんの目には心の動きのようなものは一切ありません。
「へへ、あの、やめてあげて、下さい」
柳がしゃがんで禿さんのジャージを摘んで引っ張りました。禿さんは柳の方へ頭を向け「ケジメなので問題ありません」と言って顔を戻しました。
柳は(問題無いのか、じゃあ安心)と胸を撫で下ろしました。一方お蝶さんは花魁下駄に“ゴン”と飛んできた匕首を拾いあげると、刃をぬらりと引き抜き、鞘を捨てました。そして裾を持ち上げ膝を地に付け、振袖をわしっと捲り、匕首をまな板の上に“がつん”と突き立てました。煙管が抜かれた唇から煙がフゥッと吹かれます。
「歯ァ喰いしばらんかぃ!」
「あああああああァッ!! やめてぇ、父ちゃん、母ちゃん! 助けてェ!!」
「金夫さん、男らしくして下さい。ケジメです」
「ふへ、ケジメってどういう、意味だっけ……」
柳はケジメという言葉の意味が分からなくなってきました。
「チェストォォ!!」
匕首の刃がテコの原理の要領で金夫の肉と骨をめりめりという音と共に押しつぶしていきます。
「あぎゃあああ!!?」
まな板の上に血がどばどばと噴き出します。禿さんの匕首は不思議な切れ味があり、金夫の手首をそのまま切断してしまいました。
「へひゃ」
柳は思わず顔を覆いました。金夫の絶叫が木霊す中、お蝶さんは立ち上がると「2000万だ」と言いました。
「あの、指じゃなくて、これ、手、手えエぇえェぇ……モガッ」
手首の断面から噴き出した血に塗れた禿さんが「手ですね」と絶叫する金夫さんの口の中に切断した手を突っ込みました。
「姐さんが喋っとります、聞いてくれませんか」
「モガモゴモゴ!」
「2000万持ってこい、繊細なアタシの心を愚弄した慰謝料だ」
「聞いてます? 金夫さん、ケジメつけて下さいよ?」
「モゴモゴォーッ!」
「ケジメって、な、何ぃ〜……、ふへへ」
もう滅茶苦茶でした。
「三日以内だぞ、良いな?」
「オボオオオオ!!」
禿さんから解放された金夫は自分の手首を咥えたまま、あっという間にその場から逃げ去りました。
「禿、追い込みかけとけ」
「はい、姐さん」
「へ 、へへ」
柳は(また厭な人達かなぁ、何でかなぁ)と思いました。お蝶さんは柳の方を眺めながら煙管を咥え、フゥッと煙を吐きました。
「へへ、あ、あの、柳
柳は取り敢えず自己紹介をしてみました。お蝶さんは柳の足先から頭の天辺迄を観察して、ニヤリと笑いました。柳は早く鎮太郎くんに会いたいなぁ、と思いました。
「モガモガ!!」
その頃、夜道を走る金夫の頭の中は、もしもの時の為に自分にかけていた保険金の受け取りことで一杯でした。
(手首が落ちたから、保険金下りるかも〜、ぎししし)
すると不思議、自分の手が美味しく感じてきたのです。
「ふごん、ふごん♪」
金夫は自分の手をペロペロと舐めながらスキップして帰りました。
何も見えない真っ暗な闇がとても美しく見えました。
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