第18話 大人になりたくないなあ

 ふと気がつくと柳は水の中をすいすいと泳いでいました。

(ぐへ、ぐへへ、気持ちいいなあ)

 水の中は仄暗く、底に行けば行くほど闇が深まっていきます。


 柳にとっては生きていることの何もかもが嫌なことの連続でした。何よりも皆に馬鹿にされる自分自身のことが一番嫌でした。だからこの気持ちが良い心地のまま、何もかもを忘れて闇の中に消えていってしまおうか、そんなことを思いました。

「ん?」

 ふと、視界を何かの影が通りました。一つ、二つ、いや、両手でも足りない位の多くの影です。

 見ると周囲にはお腹から下が鱗に覆われた女の人がたくさん泳いでいたのです。柳と同じように手には水掻きが付いているようにも見えました。人魚達は歌を歌うように何かを話しています。

「ふへ、何を話してるの、あの、ぐへ、わたしも仲間にいれて」

 柳の胸に未来に対する希望のようなものが芽吹きました。もしかしかしたら、友達になってくれるかも知れない、そんなことを思ったのです。

 人魚達は柳の周りをすいすいと泳いで取りかこみました。


 どぼん!

 突然頭のずっと上のはるか水面が割れ、何か黒い塊がゆっくりと沈んできます。周囲の人魚達は一斉にその方を見ました。目を凝らした柳はぎょっとしました。なぜならそれはあの巨漢だったからです。額には禿さんの持っていた匕首が刺さっています。


「うひいぃいぃ!!」


 柳は絶叫して跳ね起きました。藁の香りが周囲に舞い上がります。

「ふへ、夢」

 柳は昨晩、お蝶さんの指示で自殺の郷の旅館、“最後ノ晩餐”の馬小屋で藁を布団にして寝ました。

 柳はのそのそと立ち上がり、小屋の扉を開けました。外に出ると分厚い雲に削られた薄ぼんやりとした僅かな朝光が宿の庭の池に浮かぶ骨を照らしていました。

 ふと、宿の庭を給仕人らしき若い女の子に追われ走り回る鶏が視界に飛び込んできました。

「こら、待ちなさい!待つですぅ!」

「こけ、こけぇェえエ!?」

 女の子の甘ったるい声に対して、鶏の慌てようには何処か鬼気迫るものがありました。女の子はやっとの思いで鶏の脚をむんずと掴みました。

「やっと捕まえた!」

 そして次の瞬間「死ね!!」と叫ぶとそれを思いっきり庭の岩に叩きつけました。鶏は風船を針で突いたように弾け、内側から内臓が飛び散りました。

 少女はその肉片を手箕に拾い上げています。女の子はごくりと唾を飲み込んだ後鶏の頭に噛り付きました。

「あの、おは、お早う。ぐへ、おいしい?」

 給仕の女の子が声の方を見ると、肌の白い黒髪のげっそりした女が立っています。柳です。

 口からトサカをはみ出させた女の子は頬をぽっと赤らめました。

「み、見てたの??ほんの少し摘み食いしただけですよぅ!食いしん坊みたい、恥ずかしい!」

「ふへ、えっと、お蝶さん、どこにいるか知ってるですか」

「女将さんですね、私がご案内しますですぅ」


「ふへへ、お蝶さん、お早、お早う」

 柳が部屋の引き戸を引くと丁度廊下をゆくお蝶さんの姿が見えました。お蝶さんは朝から蝶のような大きな派手な髪型をして着物を着ていました。

「あー、お前か」

 お蝶さんは浴衣を着た柳の足先から、頭の天辺までを見るとニヤリと笑いました。

「お前の仕事は夜の客の下の世話だ、今は取り敢えず各部屋を回ってゴミの片付けを手伝え。私はこれから一眠りするからね。そいつに色々教えて貰いな」

「申し遅れましたぁ、私、福蛇和子なのですよ」

 和子さんは、小さな身長の女の子で、頭の後ろの高い左右の位置で髪をリボンでまとめた目の大きな女の子です。服が廊下を行き交う他の給仕の子に比べて少しヒラヒラが多い印象を受けます。


 がらがらっとお宿の引き戸の一つが開きます。

「さあ柳さん、この部屋から片付けちゃうのですよ」

 抱き合ったままの男女が静かに寝ています。

「ふへへ、人が寝てる」

「いいえ、あれは死んでいるのですよ。呼吸が聞こえないもの。多分睡眠薬か何かで心中したのです。折角郷まで来たんだから樹海に行けばいいと思うんですけどねぇ」

「へ、へへ」

 柳が見回すと客室の中は拭いても落ちなさそうな積年の染みがたくさんあります。梁には縄の跡がありました。

(あそこでも誰か海老になったのかなぁ)

 和子さんは掛け布団を引っ張ると、繋いだ手が露わになりました。布団の中で二人は手を繋いだまま息絶えた様子でした。

「うーん、もう、重いなぁ。困っちゃう」

 和子さんが敷布団を引っ張ると上に乗っている二人がズルズルと畳の上に滑りました。その後柳も手伝って二人の下に合成樹脂のシートが敷かれました。

「へへ、あの、これは今から何、する、ですか?」

「持って行き易いように細くするんです。中庭でお魚を飼っているから、後でその子達にあげるんですぅ」

 そう言うと和子さんはバケツからノコギリを取り出し死体のカップルの指にノコギリの刃を当てました。

 ギリギリ、ギコギコ。

「死後硬直で硬くなっている筈ですので、ひ弱な私は敢えて二人の指を切断することにしたのです。きっとこっちの方が作業時間としては短くなる筈、先輩の勘です。ふっふっふ」

「ふ、ふぅん。先輩って凄いんだなぁ」

 指がボトっとビニールシートの上に落ち、続けて血がぼたぼたと落ちました。和子さんは腰に手を当てて得意そうに鼻を啜ります。

「本当は首の切断からやるのです。しかしその場その場で状況が違いますからね。こうして例外的なことも判断することがあるんです」

 柳はビニールシートに溜まっていく血の様子に何となく元気が無くなっていきました。すると部屋の中のかびが一気に成長し、妙な形のキノコがたくさん、天井からも生えました。

「あら?」

 和子さんはキノコまみれになった部屋を見回しました。

「うーん、突然キノコが生え出したわ、食べられるのかしらねえ。さあてと」

 和子さんの中でよく分からないキノコは存在しない扱いにされ、全く見えなくなりました。今和子さんに見えているのは血塗れのノコギリと魚の餌だけです。

「さあ柳さん、服を脱いでください!」

「ふへ?」

 和子さんは服を脱ぎだし、全裸のすっぽんぽんにノコギリという出で立ちになりました。和子さんに促されるままに柳は浴衣も脱いで裸になりました。

「さあ始めますよ、じゃあ私が手本を見せますです。最初に頭を切断するのは、腕を切った後で生きていたりしたら問題でしょう? 何で腕を切ったの! 訴えてやる! となります。だから本来は最初に首を切るのです」

 そう言うと和子さんはカップルの女の人の首にノコギリを当てました。


「さあ、行きますよ。ギーコギーコ、あ、覚えておいて下さい。ノコギリは引くときに切れますので・・」

「ぎゃ、ぎゃああ!? 何を、や、やめて!」

 突然首を切られていたお姉さんが絶叫しました。和子さんは肩で溜息をつきました。兎の耳のような髪型が元気が無くなったかのように萎れます。

「柳さん、少しこのお姉さんの頭を押さえておいて欲しいですぅ」

「へ、へへ、あの、生きてる、ので、厭です」

「そう、生きてましたね。そういう時は強引さも必要なのです、間違いは認めてはいけないのです。これがクレーマーに対する最も重要な姿勢なのですよ。ギーコギーコと」

「た、助け助け!! ぎょおお!!」

 裸の和子さんは噴き出す血を浴びながら女の人の顔を足で踏んづけノコギリを引きます。

「ぎーこぎーこ、なんまんだぶなんまんだぶ」

「あぎょぎょ、ぶぶ、ぶひょ〜、びょー」

 喉の肉が切れて喉笛から直接空気漏れのような音が響きます。すぐそこに血が流れ込んでお姉さんの肺の中は血でいっぱいになりました。

「びょーッ、ビュ、びょー、ごぱごぱ、ごぼぼ」

 お姉さんの足はしばらくビニールに溜まった血液を踵でびちゃびちゃと蹴っていましたが、しばらくするとプルプルと痙攣をして、その後静かになりました。


“かこぉーん”

 中庭から鹿威ししおどしの音が響きました。


「厭がってた、よ」

「私はマニュアルに従っているだけなのですよ、ぎーこぎーこっと」

“ぼとん”

 切断されたお姉さんの首が落ちてゴロンと柳の方まで転がります。お姉さんの目と柳の目が合いました。

「後でマニュアルを渡しますので、読んでおいて下さいね。そこには、もし解体中の餌が生きていた場合に対する対処の仕方、人を殺しても良いという理由も納得できる形で書いてありますので。あ、次は柳さんの番なのです」

 そういうと和子さんは柳にノコギリを渡しました。

「ふぇ」

「隣のお兄さんの首を切ってみましょう。そっちのお兄さんは確実に死んでますので、初心者でも安全なのですよ」

 和子さんはウインクをしました。そして寝ているお兄さんの首に指を押し込んで脈を取ると「うん、大丈夫、ちゃんと死んでる」と言いました。

「へへへ、あの、何かこれ、変、なので厭です」

 和子さんは顔に飛び散った血を腕で拭ってふふ、と笑いました。

「私も最初は戸惑ったので気持ちはよく分かります、しかぁし、大人になるということは、厭なことをやってお金を貰うっていうことなのですっ。慣れてきたら街で歩いてる人間が魚の餌に見えてきますわ」

「あの、じゃ、じゃあ。お金いらない、大人に、ならない、ぽい」

 柳はノコギリをぽいっと捨てました。

「あ、だめ!」

 和子さんは血塗れの兎の耳のような髪型をぴょこぴょこと揺らしながら慌ててノコギリを拾いました。そしてもう一度柳に差し出します。

「やって下さいなのです。こんなに早く仕事を投げ出されたら責任問題になって私が怒られちゃいますよぅ、うう」

「いや」

 和子さんは呆れた様子で柳を見ました。

「あなた、生きることに向いていないんじゃないかなあ。もっと世間と足並みを揃えないと、最終的に精神病院か刑務所に行くことになりますよ」

 和子さんはそう言いながら隣の男の人の首にノコギリの刃を当てました。

「ぎーこぎーこ」

「ふへ、そんな足並み、し、知らないもん。テレビでもやってないもん」

「表面と実際が違うということも含めて、飲み込む、それも世間と足並みを揃えるということなのです。ぎーこぎーこ」

「ぎゃ、ぎぃやああァあアぁッ!!?」

 ノコギリで首を曳かれていたお兄さんが眠りから覚めました。

「あ、また生きてた、えーい、面倒ですわっ」

 喉の肉がノコギリの歯の一つ一つに引っかかるとギリギリと切れていきます。

「あぎゃぎゃぎゃあぎゃあああああ!!」

「必殺、証拠隠滅! ぎーこぎーこ」

 お兄さんは生きたまま声が出せなくなりました。しかし意識はあり、自分の喉にノコギリの刃がギリギリ深く入っていくのがハッキリと分かります。

“かこぉーん”

 中庭から鹿威しの音が響きました。

「!・・、。!・!!、・・」

 その数分後、お兄さんは自分が誰かも思い出せなくなりました。


 ぼちゃん。


 柳がお宿の中庭にある池に餌を投げました。

「はあ」

 柳は裸でしゃがみ込んだまま鹿威しの隣で溜息をつきました。傍らの大きなバケツには腕や脚が刺さっています。

 柳は脚を一本手に取ると池にぽーいと投げました。


 ぼちゃん。


 柳は池に映った自分の姿を見ました。波打つ自分の姿が泣いているかのように見えます。


「し、鎮太郎くぅん・・、お金を稼ぐのはもうやだなぁ。大人になりたくない、ふひ」


 そう呟くと中庭の池の周囲には気味が悪い植物がにょろにょろと伸びました。柳はしゃがみ込んだまま、身を前に屈めて池の中に飛び込みました。


 ぼちゃん。


 バケツからはみ出ていた腕は手を柳にさよならと手を振っているかのようでした。

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