第05話 寺地敏雅の憂鬱

 皆さん、ご覧になって、我が地獄中学校のナルキッソス、敏雅様が御登校なさるわ。


 愛の瘴気しょうきをまとう混血の美少年、寺地敏雅てらち としまさの憂鬱は、朝が彼に至ることに端を発します。


「嗚呼、今日も、来てしまった」


 寺地家の家政婦の羽識ぱしりさんが運転する黒塗りの高級車の後部座席に愛猫を残し、その長い脚を“カッ”と地に付け、立ち上がり様に搔き上げられた巻き毛の長髪は、黄金色に輝く羊毛の様相を呈します。


「———朝が、ね」


 今日も彼の元に来てしまったのです。


 ———そう、朝が。



 寺地くんは血眼の女生徒達の“とっしぃ、とっしぃ”という絶叫を全身に受けながら車のルーフを中指でトントンと叩くと、羽識さん、りりゐを宜しく頼んだよ、と微笑みました。


「“イエス・マイ・坊ちゃん”」


 羽識さんは何やら二人の間だけで通じる訳の分からない返事をすると、りりゐを乗せた車を出しました。


 とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ、とっしぃ。


 寺地の周囲を取り囲む女生徒達の黄色い慟哭に、その少年らしからぬ幽玄な声は、ベッドの上の扇情的な遊戯の際の様な調子、すなわち、性的ないやらしさを意識的、或いは無意識的に感じ取れるようなニュアンスを醸し出しながら言いました。


荘厳そうごんなる僕の蜂蜜ハニー達よ、今朝もその渇望を掬い取らん」


 は、はぅん。


 そうして今日も寺地の微笑に気を見失い、既に校門にばたばたと重ねられた愛の殉教者達の屍の丘を尻目に、彼は昇降口へと歩を進めるのです。


 へろへろ。

 がくっ。


 ばたん。


「この檻の中で情炎に燃え果てし君に至る運命さだめへと問う」


 捕らえた少女の背を校舎の壁へと横たえ、その首筋の傍らにするりとしなやかでありながらも逞しい腕を伸ばします。


「今、僕以外が見えないのかい」


 そう尋問する熱い吐息は、強く、そして深く、その脚の谷間を突き上げる様にして差し出した膝へと少女を追いやってしまうのです。


「あ」


 少女は自らの腰から抜け出る力を最後の理性で留め、責め立てるような寺地の膝を両手で押さえました。


「あ、あなた。そんな軽口を、誰彼構わず申しておるのではなくて」


「しっ」と指先でその上気した唇の先端に触れ、寺地の視線は少女の瞳の奥を射抜きました。


「その前提に於いて、君、逃れることあたわず。世界にいて、この接吻、唯一の永遠の意味と等価なるが故のこと也」


 額から全身に広がる不治の熱病は、突如少女に眠っていた詩人としての才能を花開かせた一つの接吻で発症しました。


「 ひぃッ、ひ、“額に添える接吻と、指ながく顎を持ち上げし天上の息吹……、よ”………」

 ——————3年1組 神宮寺 保子


 ずだん。


 校門から昇降口に至る間に在った最後の少女を失神させ、寺地くんは再び憂鬱そうに髪を掻き上げると、ほうっと溜息をつきました。


 ——憂鬱なり。嗚呼、女、女。この僕を以ってして喩えるなら、正にその一切が既に歩かれた、丘の如し。


 その時のことです。


 肩の後ろからぼそりと「ぐへ、通して」と呟く声がありました。


 それは彼の眼差しが卑しいものでも見るようなものになるには充分でした。何故ならば、その震える声はです。


「それを許可することもまた、能わず、さ」


 しかし、これはどうしたことだろう。振り向いたその先には誰もいなかったのです。


「こ、古文。へ、へへ、と、と、通して」


 ふと、地から響く亡霊のような声。寺地がその声の元を辿ろうと、足元に視線を落とすと、そこには他の少女とは明らかに異質な薄気味悪さを湛えた女生徒の姿ありました。


 頭の上下が逆なのです。


 手と足を地に付け、反り返り、背を浮かせた少女は「と、と、通してよォ〜!」と絶叫すると、寺地を押し退け、長い黒髪を引き摺り、のまま、ぬたんぬたんと蜘蛛のように歩き、昇降口の奥へと姿を消しました。


 エロスに白目を剥いて失神した女生徒の重なる丘を背に、産まれて初めて女に拒絶された寺地くんは「何、だと? そんな」と震え、立ち尽くしました。



 ——ゆ、ゆるさん!



 これが寺地敏雅と柳の出会いでした。

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