第04話 ぶストーカー②

 鍵をガチャリと閉め、鎮太郎くんはホッと胸を撫で下ろしました。


「よ、よし! 化け物女め!まんまと家の外に追い出してくれたわ! ざまあ……」


 次の瞬間のことでした。


 “ガゴォンッ!”


「ヒィッ!?」


 玄関扉の前で鎮太郎くんは跳ねあがりました。


(ひぃっ、びっくらこいたーっ! な、何事!)


 鎮太郎くんはドアスコープから外の様子を伺いました。


 “ガゴォンッ!ガゴォンッ!”


「………」


 外から柳が無理矢理玄関扉を開こうと試みているようでした。その目は血走り、歯をギリギリと擦り合わせています。

 鎮太郎くんは絶叫しかけた刹那、咄嗟に鼻をつまんで息を止め、気配を殺しました。


(反応してはならないよ、鎮太郎。今僕は岩石、或いは樹木)


 鎮太郎くんが咄嗟に気配を消したのも無理はありません。突然人の家の中に上がりこんで平気でテレビを見るような女です。何かを話したところで状況が改善されるとは到底思えません。


“ガゴォンッ! ガゴン………”


(……樹木、僕は樹木!)


“ガゴン……”


「………」


“………”


 暫くの後、周囲を静寂が包みました。

 ゴキブリが洗面台の上を這う音だけが小さく闇の中に響きます。


(急に静かになった……。もしや、居なくなったのでしょうか。しかし、苦しい。呼吸をしたい)


「……お家の中に入れて、開けて」


(うぎゃ!)


 扉越しに柳の薄気味悪い声が聞こえました。



 玄関扉の表に骨張った白い両の手がべたりと張り付きました。


 その手の間に柳の耳が頭ごと吸い付き、黒髪の隙間から広がる視線が玄関扉の内側の気配をギョロギョロと探し始めました。


「開けてよ、鎮太郎くうん。表札は山田だったよ。ねえ、開けてよ。ごめんね、私、家を間違えちゃったみたい。勘違いしてたの、ぐへ」


「………」


 そのまま暫くの間、玄関扉に耳をあてていましたが、二時間ほどの後に瞼を閉じ、柳は「はぁ」と深い溜息をつきました。


「なにもきこえない」


 それもその筈、扉の内側で鎮太郎くんは白目を剥いて失神していたのです。


「で、でも隣からなら、何か聞こえちゃう……、かも? げひひ。学校の外でお話が出来るなんて、今日は運が良いなあ。もっと……、もっと鎮太郎くんの気配を感じたいなぁ。なんて……、きゃっ! はずがぢぃ!」


 柳は立ち上がるとキョロキョロと周囲を見回しました。


「よ、よーし!」


 そう意気込むと、柳は鎮太郎くんの家の向かいのお宅の玄関のノブに手を掛けました。そして、思いっきり力を込めて引っ張りました。


“どきゃん、ずがん”


 巨大な音が団地に響き渡ります。鍵は閉まっている様子で、柳の手の皮が剥がれて血が出ました。


 柳は呼び鈴を“ピンポーン”と鳴らしました。何度も何度も鳴らしました。


 しかし、隣の家の扉は開く気配がありません。柳は馬鹿にされている気持ちになり、神経が苛々するのを感じました。


「ふへ、“ただいま”って言ったら、間違えて開けてくれるかも……。た、ただいま!! あ、開け、開けろよォ!」


 柳は扉を裸足でガツンと蹴りました。


「開けて……、くれない」


 その後、柳は涙を浮かべながら階段を降りていきました。




 ***




 処変わって深い深い地の底。


 古来より人間はその歴史で培ってきた道徳という規範から自らを解き放つ為、地中の奥深くへと潜り込ん参りました。


 此の地獄中学校の地下にも数々の悪徳が栄えた「背徳の箱」が御座います。


 ——地下第二保健室です。


 暗い闇の中にオレンジ色の灯りが“ぼうっ”と灯ります。


「おやおや。食堂で気を失っておった女学生よ。どうやら気を取り戻した様子ですね。その回復は、この私、教頭先生の介護によるものであることを、あらかじめ、ご了承下さい」


「………」


「フフフ。君、ちゃんと自分の名前が言えますか?」


 少女の視線が火の灯った紅い蝋燭を両手に持つ教頭先生を捉えました。そして「名前、あたいの名は、佐倉……、」と呟き、次の瞬間「秀美ッ!」と絶叫しながら上半身を起こしました。


「うぬん?」


「あたいの名は、佐倉……、秀美ッ!」


「う、うむ。佐倉秀美ね。はい、分かりました」


 確かに名前を尋ねたのは自分でしたが、胸の前で両腕をクロスさせながら自分の名前を何度も絶叫する女学生に対し、教頭先生は少し引き気味でした。




 ——ところで教頭先生、何故そんなに耳がデカいの。


 ——ん、んん?? ああ。それは、教頭が生徒の心の叫びや、苦痛の絶叫を聞き分ける為さ。


 ——教頭先生、何故裸なの。


 ——それは、この教頭先生が変態だからさ。あらかじめ、ご了承下さい。



 佐倉ちゃんは身の危険を感じ、変態先生から視線を外すと、第二保健室の出入り口を探しました。

 保健室は横に何処までも長い作りで、同じベッドがずらりと延々、二点透視図法宜しく遥か彼方、左右の消失点へと集束していきます。


 遠くの方のベッドの上に中華帽子を被って横たわった双子の少年が居る以外は、眼前の変態教頭しかいません。


 双子少年の頭のうちの一つが佐倉ちゃんに気付き、喋りだしました。


「おい、起きてごらん。向こうに女の子がいるよ、弌郎いちろう


 兄の弍郎じろうです。

 隣で寝ているもう一つの頭、弌郎は鼻提灯を割って「ふえ?」と言って起きました。


「寝坊助め。ほら、ずっと向こうのベットだよ。珍しいから見ておきなさい、僕等は地上にに出ることは叶わないのだから」


 弍郎の提案に、弌郎は首を起こして佐倉ちゃんの方を見ました。


「本当だ。初めて見たよ。僕、女の子の身体に自由にベタベタ触ってみたいよ、弍郎」


 弌郎の無垢な反応に弍郎は「あっはっは」と笑った後、突然舌を尖らせて弌郎に接吻をしました。


「ぅえッ、ぅえッ」


 弌郎はペッペッと唾液を周辺に撒き散らしました。


「ははは。触りたいのは我慢しよう、僕らは手も足も無い達磨だるま人間じゃないか」



 ——おまけに身体一つに首二つ、本当に嫌になってしまうじゃあないの。





 ふと「あら」と佐倉ちゃんは自分のベッドの周辺に、蝋燭の炎に揺れる黄色い泡が飛び散っていることに気が付きました。


「あたい、またたくさん黄色い泡を吐き出して倒れてしまったのね。は……、恥ずかし乙女」


「如何にも。君は恥ずかし乙女です。つまり、お仕置きが必要という訳ですなあ。ぶひひひ」


 教頭先生はこうして数ヶ月に一度、生徒を誘拐してはこの第二保健室にて猟奇的な時間を楽しんでいるのです。そのことは彼の佇まいから滲み出ており、佐倉ちゃんにもそのことが伝わりました。全裸だし。


「さて。始めましょうか」


 そう教頭先生が呟いた次の瞬間、佐倉ちゃんの額に皺が寄りました。


「おうコラ。触れたら、その芋虫サイズのペニス噛み切って鼻に突っ込むぞ」


 突然の佐倉ちゃんの面子めんち切りに教頭先生は萎縮しながら微笑みあがりました。


「ひっ。予想外の豹変に教頭、戦意喪失、この場を撤退、脱出三秒前、」


 ———あらかじめ……、ご了承下さい。



 ***




 丁度その頃、地上まで階段を降り、各部屋のバルコニーがある棟の反対側へ回った柳が、団地を見上げていました。


 星一つ見えない夜闇の下、干しっぱなしの布団が干されたバルコニーが万里の長城のように延々と伸びています。


 柳は鼻をくんくんと動かし「ふひ、離れていても鎮太郎くんのニオイは分かるなぁ。あれが鎮太郎くんの部屋だね。げひひ」と言いながら外壁に手を押し付けました。


“ぬたん”という音と共に血が滲み出た手が壁に張り付きました。


「よいしょ、よいしょ」


 柳はそのまま手足を上手に使ってスベスベのコンクリートの壁面をぺたん、ぺたんとヤモリのように登っていきます。


 ———ふひ、コツはね。

 ———第1に右手が滑る前に左手を付くコト。

 ———第2に左手が滑る前に右手を付くコト。


 外壁を登っている途中、何処かの部屋からテレビの音と、それ見て談笑する家族の声が聞こえてきました。


(いいなぁ、楽しそう。仲が良さそうだなぁ)


 柳は一人っ子でした。


 だから本当はお兄ちゃんが欲しいなぁ、と思っていました。

 柳はお母さんの顔を見たことがありません。お父さんはお酒ばかり呑んで、柳の顔が気に入らないと言って暴力を振るいます。しかし最近、お父さんは健康に気を遣い始め、お酒を飲むのをやめました。柳は、これで暴力が減るかも知れないと喜びました。

 しかし、それでも柳の顔が気に入らないと言って暴力を振るいます。つまり、お酒と暴力は関係が無かったのです。ただ単に醜女ぶすだから殴られていただけでした。




 真っ暗な人生です。




 ———あはははは。

 ———うふふふふ。


 柳は幸せそうな家族がどんな番組を見て笑っているのかがどうしても気になり、耳を澄ませました。


 どうやらその家族は天気予報を見ている様子でした。


 明日は闇のち闇、

 明後日も闇のち闇、

 明々後日も闇、闇、自殺日和。


 柳は、もう是から先はずっと闇なのだなぁ、と少し寂しく思いながらも「登りきったら『蟲ワアルド』の続きを見ながらたくさん鎮太郎くんの生活音を盗み聞きしよう」と自らを奮起させました。

 そして笑顔で壁面を“びちゃん、びちゃん”と登っていきます。


 そして何とか13階迄登りきり、柳は鎮太郎くんの住む部屋の隣のバルコニーに降り立ちました。山田家の隣のお宅は電気が点いておらず、人が居る様子もありません。


「よ、よし。入っちゃうぞ!」


 柳はバルコニーからサッシ窓の両端を持ってガタガタと揺らして外し、それをそーっと壁に立てかけました。

 そして部屋の中に入ると、真っ直ぐ鎮太郎くんの住む部屋がある方の壁へ歩み寄りました。そして床に両膝を付き、壁に両手と耳を付けました。


 ご、ごくり。


(この向こうに、鎮太郎くんが)


「げへへ、し、しんた、ろう……ぎゃ、ぎゃーッ!」


 名前を呼ぶだけで柳の顔は充血して紅くなってしまいます。


「しんたろう、しんたろう、しんたろう」


(駄目だ、呪文みたい。目が回ってきた)


 好きな人の名前の響きとは何と心地が良いのだろう。柳はそんなことを思いました。


「じゃあ、もし、……もし!」


 もし、彼の名前が蛆虫うじむしだったら?

 こんなに心はドキドキするのだろうか。柳は鎮太郎の顔を思い浮かべながら実際に呼んでみたりもしました。


「うじむし。うじむひ……、むひひ、うひひひ」


 しかしそれでも顔が綻んで、涎が出てしまいます。

 手は血塗れで制服はズダボロ、顔には昼間の海老の体液が未だ少しつき「蛆虫、蛆虫、蛆虫」と繰り返す。

 柳はしばらくその醜悪な容態で壁に張り付いていましたが、隣からは全く音は聞こえてきません。


(蛆虫くん、寝ているのかなぁ)


 柳はガッカリした様子で立ち上がり「じゃあ、いいよ。『蟲ワアルド』見るもんね」とリビングにあったテレビを睨みつけました。


 暫く部屋をめちゃくちゃに荒らし、何とかリモコンを見つけるとテレビの電源を入れました。


“ぶよぶーよ!!”


「わーっ!」


“ぶよぶーよ、蟲、蟲、タノシイぶよぶーよ、ぶよぶよファンノ皆サン、ゲンキデスカーッ!?”


 それは丁度『蟲ワアルド』が放送しているチャンネルでした。

 柳は“どしゃっ”と床に座り込み、瞳の奥をギラギラと光らせ、血の付いた手をパチパチと叩きました。


 ビカビカと光るテレビ画面の中を大量の芋虫が凄い勢いで暴れまわっています。


「ぶ、ぶよぶーよ、ぶよぶよぉー、わー! すてきー!!」


 芋虫たちの動きはビデオを早送りにしたようにどんどん加速していきました。そして、それは中央に集まり、ゲチャゲチャと潰れていきます。


 その映像に柳は一瞬狼狽え「可哀想」と目頭に涙を溜めましたが、直ぐに意地悪そうに歪んだ笑みを浮かべると、「……うう。でも、いいや。へへ……、死んじゃえ。き、キモいんだよ! ぶ、ぶ、ぶす!」と吐き捨てるように言いました。


 周囲に誰もいないことを良いことに、この醜女ぶすは何を言って居るのでしょう。

 醜女ぶす醜女ぶす呼ばわりされた可哀想な芋虫たちの塊は“ぐびゅぐびゅ”と音を出しながらうねり、縦に伸び、横に伸びました。


「う?」


 そしてどんどんと形を変えていきます。


「あれれ?」


 そして、やがてそれは一つの大きなさなぎになりました。


 柳はビクッと震えるとテレビの左右をガシリと両手で掴みました。


「海老だ。芋虫が、海老になった!」


 柳にはその蛹が海老に見えたのです。


 “アー、残念デスネ。ぶよぶよノ時期ハ過ギ、彼ラハ退屈デ無能ナ大人ニナッテシマウノデアリマス!”


 ナレーターの説明と共に、再び変化が生じました。蛹は薄ぼんやりと光を放ち始め、その光が柳の鼻っ面を優しく照らしました。


「ほ、ほああああ!」


 その光は徐々に増していき、テレビのブラウン管全体が強く光を放ち始めました。


「くんくん」


 光にニオイがあるなんていう話は聞いたことがありませんでしたが、柳はその光に何とも言えない瑞々しい香りを感じた気がしました。


「いいニオイ。知ってるニオイだ。何だったっけ、これは」


 そんなことを柳が呟いていると、蛹の背中に“ぱきっ”と割れ目が入り、亀裂は内側から一層眩い光を溢れ洩らしながら広がっていきます。それはテレビから溢れた光で部屋の中が明るく成る程でした。


「ひ、ひぃッ! 綺麗過ぎて、恐い! 何か、出てくる!」


 蛹の中から巨大な真っ白い鳥の翼のようなものがブワッと青空に広がり、強烈な光で柳の肌や髪の毛がチリチリと音を立て始めました。


「ご、ごめんなさい! 醜女でごめんなさい! 生きててごめんなさい!! ひぃい!」


 そして、その翼の付け根にはきめ細やかな人間の肌のようなものが見えたと思った——その時でした。


「ああ、何か声がします。薄気味悪い声。こんな声を出すのは醜女ぶすに違いないわね。そこにいるのは醜女ぶすですか?」


 部屋の奥から聞き覚えのある女の人の声がしました。

 柳はビクッと震えて、慌ててテレビを消しました。画面の中の青い空は消え、部屋は元の真っ暗に戻りました。

 柳は立ち上がると、声のする方へ小走りに向かいました。


 脱衣所の前の引き戸の下から光が漏れています。誰かがお風呂に入っているのです。


「お、お母さん。醜女ぶすが帰りました」


 それは柳のお母さんでした。


 つまり、そこは柳の家でした。柳は実は鎮太郎くんの家の隣に住んでおり、先程は入る部屋を間違えてしまっていたのです。


「変な名前、あさましい」


 柳のお母さんはとても綺麗好きで、ずっとお風呂に入っています。


 朝にも、昼にも、夜にも入っています。ご飯を食べる時も、寝る時も湯船の中です。柳はお母さんがお風呂から出てきたのを産まれてから一度も見たことがありません。一度も顔を見たこともありません。話す時はいつもこうして扉越しです。


醜女ぶす、あなた、また壁を登って家に上がったでしょう。目立つからおよしなさい。人間でないことが分かったら偏執的な大人達に身体を弄られますよ。解体されて実験されてしまいますよ」


「だ、だって、玄関扉に鍵がかかっていたの」


「言い訳するのではありません。それに鍵をかけたのは誰でもないこのお母さんなのですよ。弱い者苛めは心地好いのです」


「そ、そんな。じゃあ私は、どうすれば良いの」


 ——扉はいつか開かれる。私達は準備してそれを待つことしかできないの。


「わ、分かりました」




 ——でも、お母さん、私もお家のお風呂に入りたいわ。もっといつも清潔にして、可愛くしていたいの。


 ——扉はいつか開かれる。私達は準備してそれを待つことしかできないの。


 ——分かりました。諦めます。





 その夜、焼却炉の中から誰もいなくなった校舎を眺める苑子さんの顔は、少し寂しそうに「可哀想な柳さん」とポツリと呟いたのだという。

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