昔の純文学
竜田揚げ
第1話私が感じた現代文学との違い
私は現代小説をよく読む。だが、最近になって視野を広げようと昔の作品を読んでみた。
例えば太宰治や夏目漱石などの有名人が書いた作品だ。有名すぎて読んでいない人も多いのではないだろうか、私が言いたいのは、その昔の文豪が書いた作品のことである。
簡潔に言わせてもらうと、内容が薄かった。そんなわけないだろうと思う人もいると思うが現代の有名作品と比べると退屈な内容だと言わざるを得ない。具体的に言うと、夏目漱石の「我輩は猫である」では親を失った猫が、今の主人に拾われて生活をする。その生活を猫視点で書かれている。、、たったそれだけである。
まあ、表現は多種多用な感じを用い語彙力の高さは伺えるが、今で言うところの日常系のようなものにあたることには変わりない。
他には同作者の「坊っちゃん」は教師の生活を描いたものだ。これには、生徒や教員同士の衝突や事件があり起伏があったのだが、やはりわざわざ時間を使って読むには退屈な作品だった。これだったら漫画で読破シリーズを読んだ方が、時間を使わなくて良かったと思っている。
それでも昔の作品で面白い作品はある。その中でも私が紹介したいのはアーサーCクラークの「幼年期の終わり」は面白いと感じた、では、何故主観的ではあるものの、1900年代の本で違いが生じるのかというと、私の個人的な意見ではあるが、私は2つの要因があると考える一つは考え方の違い、もう一つは経験の違いにあるのだと考えた。
日本と海外との違いの一つは、学問と娯楽の考え方の違いと私は考えている。日本では本は文学、豊かな感情表現、多くの漢字を使った、勉学としての一面がある。それに引き換え、海外、特にイギリスでは、難しい表現を使わずに内容を重視している傾向が1900年代にあった。
もう一つの考え方の経験は、積み上げてきた時間の違いだろう。今でこそ日本は最先端の情報化社会の国としての地位を確立してるが、閉鎖的な島国で他国の情報を積極的に取り入れずにいたせいで物語の技術が独特に育ってしまった。このことにより、学問重視の本が量産された事は言うまでもない。私は物語とはパクリ、imitateだと考えている。過去の物語を模倣してどんどん進化していくものだと。話はそれるが私は昨今の漫画に多いエロチックでグロテスクなものは、万人受けするものでなくても娯楽としての進化の中で避けては通れないものだと考えている。そして、一番難しい題材とも思う。
さて、この話を通して私が言いたいことは、私はストーリー性を重視しているが人それぞれだから、万人受けするものは作れないと言うことだ。
昔の純文学 竜田揚げ @tatsuta-fried
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