生クリームの足跡

桜枝 巧

生クリームの足跡

 ケーキが、落ちていた。


 ワンホールサイズの、大きな生クリームのケーキだ。箱は見当たらず、底からぐちゃりと潰れ、クリームは崩れ、中のスポンジが見えていた。真っ赤に売れたイチゴは最早現芸をとどめていない。

 死体みたいだ、だなんて思う。


「……まあ、アパートの前にケーキの死体が落ちていても困るわけですが」


 ぼそりと呟く。

 私が住んでいる二階建てアパートの、階段の手前。ちょうど会談へ一歩足を踏み出そうか、というちょうどいい地点に、ケーキはあった。まだ落ちてから間もないらしく、クリームの白自体はさほど汚れていなかった。

 ただ、落としてしまった主が慌てたのだろうか、大きな足音が一つ、中忍にくっきりとついている。運動靴の滑り止めの模様が、やけにはっきりと見えた。


 そんな風に探偵まがいの事をしてみたって、バイト帰りの女子大生にできることなんて少ない。これ以上白いそれを傷つけないよう、そうっと回り込む。


「……こいつもちゃんと食べられたかったのか、ねえ」


 随分と大きなケーキだ、相当値段も張るんだろう。自分が持っているコンビニの袋をちらりと見て、少し大袈裟に溜息をついた。中に入っている小さなロールケーキは、何も言わずにいてくれる。


 ……とそこで、アパートの二階から誰かがこちらに向かってくる音がする。カンカンカンカン、とテンポの速い金属音。


「――曽良、さん?」


 私は階段の上から姿を現した人に向かって、声をかけた。一階に住む同学部の人だ。こちらも仕事帰りらしく、Yシャツ姿。塾講師のバイト、とか言ってたっけ。

 ふわり、と秋にしては暖かい風が吹いて、彼の柔らかな黒髪を揺らす。


「ああ、黒村さんでしたか。お帰りなさい」

「た、ただいまです……? そちらも、お帰りなさい」

「え、ああ」


 大学では会えども、こうしてアパートですれ違うことはめったにない。不自然な会話が二人の間を流れていく。今から晩御飯ですか。ええ、今日は秋刀魚でも焼こうかなって。よいですね。

 白い死体の間を、英会話みたいな文が飛び交う。

 二人とも、目の前にあるケーキそのものには触れなかった。話題にしてはいけない、謎めいた空気がそこにあった。


「……じゃ、じゃあ、僕はこれで」

「あ、はい。……では」


 私はコンビニの袋の位置を少しだけ気にしながら、ケーキをまたいだ。明日、片づけられていなかったら大家さんに連絡しよう。そんなことを考えつつ、曽良さんとすれ違う。

 カン、カン、カン、カン、と音を立てながら、階段を上っていく。


「――黒村さん」

 下の方から声が聞こえた。はい? と振り返る。


「……あんなもので、すみません」


 そういうや否や、曽良さんは私の視界から消えた。走る音に続いて、大きくドアを閉めた音が一階から聞こえてくる。


「……?」


 首をかしげながら、自分の部屋の玄関に近づいて――


「あ」


 ドアノブを、見た。

 そこに引っ掛けられている白いビニール袋。中に入っていたのは、まだほのかに湯気を立てる肉まんだった。同じように入っていた、小さなメモ帳の切れ端を見つける。


「お誕生日、おめでとうございます」


 手に持ったロールケーキの袋が、カサリ、と音を立てた。

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生クリームの足跡 桜枝 巧 @ouetakumi

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