未来に続くバス

佐山千夜

第1話

 占いでは、異性とバスに乗る夢を見たら、その相手は将来の自分の恋人なのだそうだ。そんな夢を見た記憶はないが、それに似た体験ならしたことがある。年月を経て忘れてしまった部分が多くても、今の自分につながる大切な思い出だ。


 20年前の春、進学をきっかけに一人暮らしを始めた。本部は都内の大学だったが、通った学部は埼玉県の所沢市にあった。生活の利便性を考え、駅前の商店街エリアから少し離れた所に借りたワンルーム。当時タワーマンション群はなかったが、生まれ育った地元と比べて空が狭いと既に感じていた。


 キャンパス周辺はまだかなり自然の多い場所で、西武池袋線の小手指駅からバスで約15分、狭山丘陵の一角に位置する。講義のある日は駅発のバスに乗り、賑やかで人工的なエリアから次第に緑に囲まれていく風景を車窓から眺めていた。

 学内では、他人と目が合わないように下を向く。あまり社交的ではないし、会話に方言が出るのが恥ずかしくて、話しかけられたくない。周囲の洗練された様子に気後れしていたのだ。サークルには入らず、バイトもしない。しばらくは、初めての都会と一人暮らしに慣れるだけで精一杯の日々を送っていた。


 5月の連休が明ける頃から学内の雰囲気は次第に落ち着きはじめる。選択した講義ごとに各自が教室を移動するのにも慣れ、多くの新入生は学年や学科の必修でよく同じになるメンバーと顔見知りになっていく。相変わらず下を向いている自分は例外だったけれど。話しかけられそうな状況になるのを避け、周囲の談笑にも無関心を装った。1年生だけを集めた、高校までのホームルームのような特別クラスの中でも、その行動パターンは変わらない。友達はできなくてもいいと思っていた。そんな僕の日常の中にいつの間にか入り込んできたのが、彼女だった。


 最初は苦手なタイプだと思った。クラス内で何かと目立っていたからだ。活発でリーダー的な男子と仲が良いらしく、彼が企画するクラスイベントで女子のまとめ役などをしていた。社交性の高さや物怖じしない言動は、自分とは無縁で関わりたくない部類。相手の性別も人数もお構いなしに、必要があれば平気で話しかける。まだ他に人が来ていない教室内で一緒になると「おはよう」と声をかけられるのには驚いた。大抵は下を向いているし、間違っても彼女と目を合わすことなどなかったのに! 頭を軽く下げるだけの僕に対し、あまり気にしていないのか、彼女からの一方的な挨拶は続く。ただ、こちらの反応が薄いからか、それ以上話しかけてくることはない。当初の衝撃が薄れる頃には、会話が始まるかもしれない不安と引き換えに、彼女への関心が生まれていた。


 この頃から、必修で仕方なく受講していたドイツ語が楽しみになる。同じクラスの彼女が音読する声が、とても綺麗なことを知ったからだ。緊張しているからか、普段よりもやや高く、透明感のある音質になる。その声を堪能するのに、すぐに訳せない異国の文章は最適だ。彼女が指名されると全身を耳にして集中した。目を閉じて聴くそれは、緑の森の中で鳴るオルゴールのようだった。


 夏休みに入る。多くの学生は、一緒に旅行をしたり、サークル合宿などのイベントを通して関係を更に深めるのだろう。僕はずっと実家に帰省していた。広い空の下で、時々彼女のことを考える。誰と、どんな休みを過ごしているのか。…僕のことを思い出したりするのか。長い休みの間中、早くまた会いたい気持ちと、もう会うのが怖い気持ちがせめぎあっていた。


 後期が始まったが、彼女の態度は相変わらずだった。お決まりの挨拶をするだけで、それ以上は話しかけてこない。僕の態度も変わらなかったが、心境は複雑に変化していた。


 挨拶だけしてくるのはどうしてだろう?

 他の人にするように話しかけてこないのは、なぜ?

 ただの社交辞令だから?

 恥ずかしくて、気後れしているから? …あの彼女が? 僕にだけ?

 好き… だから?


 気付かれないように観察する日々が始まる。女子以外では、同じクラスの奴か、同じサークルらしい奴と一緒にいるのを見かける。友達なのか、付き合っているのかわからない。彼らのどちらかは特別なのか。それともまだ誰も選んでいないのか。もしかして、僕からのアプローチを待っている? 不安と期待の間で揺れ続ける心。確かめるために顔を上げる勇気が欲しい。もう一言、挨拶以外に彼女が話しかけてくれたなら。


 運命を変えたその日は土曜日だった。週休二日が主流になりつつあるのに1限目に入った必修講義。大学へ向かうバスの本数も少なく、遅刻を避けるには平日より早い発車の便に乗らねばならない。ほとんどの学生は、10分以上は確実に遅刻する後続の便を利用していた。真面目でもない僕が早い便に乗る理由は一つ。でも、そのバスの中で彼女と一緒になるとは思ってもいなかった。


「おはよう。バスの中で会うのは、初めてだね。」

 突然話しかけられ、驚きで硬直した。それまで何となく見ていた自分の手が、わずかに震え出す。頭が真っ白になり、想定外の状況に飲み込まれそうだ。でも、このチャンスを逃したら終わりだと思った。

 覚悟を決めた僕は、思い切って声のした方へ顔を向ける。

「おはよう。」

 初めて目が合った彼女は、驚いた様子で大きく一つ瞬きをした。その後に破顔して続ける。

「隣、座ってもいいかな?」


 どんな会話をしたのかは覚えていない。瞼に残るのは、隣に座る彼女の横顔。キラキラと木漏れ日が反射する眩しい笑顔。

 僕らを乗せたバスは、朝の光で輝く緑のトンネルへと吸い込まれていく。


 あれから20年。彼女の笑顔は今も僕の隣にある。

 あの日の僕らは、未来へと続くバスに乗っていた。

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