王子と王女


Dahlia

​​第9幕 王子と王女



 ルティはダリアから黒革のノートと白い小箱を受け取った。ノートは年季が入っていて、中に綴じられている紙は茶色く変色している。長い年月を染み込ませた古紙は独特なよい匂いを放っていた。表紙の黒革はところどころ傷があったり、くたびれてしまったりしているがことのほかきれいで、大切にされているのがよくわかる。手に取ってみると見た目よりもずっしりと重く、手触りがさらさらしていた。白い小箱は金属の枠組みに白い革が張られていた。頑丈な作りをしているらしく、箱全体がピンと張り詰めている。

「こっちの箱はオルゴール。きっと、ルティの知ってる曲が流れるよ。

 こっちのノートは、わたしの手記。わたしの記憶。

あの人形がわたしの身体だとしたら、このノートは、わたしの記憶なんだ。

 だからつまり、わたしは、幽霊ってことになるのかな。」

ダリアは片目を閉じたまま、あごに手を当てて考えながら喋っていた。その様子からして、ダリアは自分がどういう存在なのかということを、明確には認識していないようだった。ルティは受け取った二つの宝物を、鞄の中に大切に仕舞った。視線を上げる。目の前にはダリアが立っている。その奥には、人形のダリアがガラスケースの中に閉じ込められていた。ルティはダリアの人形を、もっと近くで見てみたいと思った。

「ねえ、ダリア。ちょっといいかな?」

長らく二人を見守って沈黙していたパティーが口を開いた。彼の目も、充血していた。

「あの人形を、ちょっと見せてもらってもいい?」

「いいよ。右目、落ちちゃったけどね。」

ダリアがガラスケースの方へ向かった。二人も続く。

透明な壁の中に、ダリアと同じ身長の人形が立っていた。ガラスは中を透かして見せるとともに、その前に立つ三人を鏡のように映し出していた。人形は作りが精巧過ぎて、まるでダリアが二人いるかのような錯覚に陥ってしまう。まつ毛や爪に至るまで見事に再現されていた。瞳には緑色に輝く宝石がはめ込まれていた。表面が滑らかに加工されたエメラルドだった。ダリアと同じようにして、右側の瞳の部分は空洞になってしまっている。その足元には、人形からこぼれ落ちたエメラルドの瞳が光を反射していた。パティーはガラスケースの周りをうろうろとし始めた。ルティはじっと、ダリアの人形とフォルミスの人形を交互に見ていた。衣装も、髪も、肌も、瞳の色も、全てが本人たちと相違なかった。フォルミスの人形の瞳は彼と同じく、滑らかな薄い緑色だった。これも宝石の一種なのだろうが、ルティはこんな宝石は見たことがなかった。

「お兄さんと、瞳が違うんだね。」

「うん。わたしの瞳はエメラルドで、兄さんはマカライトなんだ。」

ダリアが答えた。マカライトという宝石の名を、ルティは初めて聞いた。改めて、彼の人形をよく見てみた。フォルミスの表情は穏やかな微笑みを見せるダリアとは違って凛としていた。顔の造形はほとんど妹のダリアと同じなのに、そこには兄としての凛々しさが浮かび上がっていて、彼と彼女は違う存在なのだということを如実に物語っている。自分たちの出会ったフォルミスは無表情で冷やかで恐ろしかったのに、ダリアの隣に立つ彼の人形は、絵本に出てくる勇敢な王子のようだった。

「鍵があるけど、開けられるかな?」

パティーがガラスケースの左側から言った。確かにケースの側面には鍵をかけるための金具がガラスに埋め込まれている。試しに横へ引いてみたが、いまは施錠されていてびくともしなかった。どうも、ここから中に物品を出し入れするらしい。パティーは現在持っている鍵の中からそれらしきものを探した。【A】の刻印がなされた鍵はなかった。鍵を穴に押し込んでは引き抜き、眉をひそめているパティーにダリアは言った。

「無駄だよ。そこの鍵は、兄さんが持ってるから。」

パティーは透明な壁の向こう側に落ちているエメラルドの瞳をじっと見つめていた。何事か考えているようだった。ケースを開けられたら、落ちてしまったダリアの瞳を元の通りに、あるべき場所へ返してあげられるのにと、ルティは思った。きっとパティーも同じ考えであろう。

 パティーが二人にここで待つように言うと、走って部屋を出て行った。その後姿を呆然と二人は見送った。すぐにパティーは戻って来た。右手には、鉄パイプが握られていた。ルティは一目で彼がなにをするつもりなのか理解した。フォルミスに鍵を借りるという選択肢は、彼の自分たちに対する態度を考えればおのずと消える。ガラスを叩き割るしかないだろう。しかし、その考えを理解し、同意しながらもルティは疑問を抱いた。フォルミスの言動を思い返せば、彼が敵視しているのは自分とパティーだけだ。ダリアに対しては深い愛情を抱いているように感じられた。だから宝石強盗のようにケースを叩き割らずとも、フォルミスにダリアのことを頼んだ方がいいのではないか。ルティはそう思った。

「なにをするの。パティー。」

ダリアが不安におびえた声を出した。

「ダメだよ。やめて。おねがいだから。」

そんな彼女の嘆願を無視して、パティーは表情を変えずにガラスケースへと歩み寄っていく。様子がおかしかった。あの優しいパティーが必死のダリアの訴えに耳を貸さず、返事もしないのはどう考えても異常だった。

 異常。その単語が脳裏によぎったとたん、ルティの心の真ん中に恐怖の芽が顔を出した。ここでは人の精神に働きかけ、幻想を見せる怪異が立て続けに起きてきた。またしても、なにかしらの怪異がパティーの精神を侵し、彼を奇行に駆り立てているのだ。ルティにはそのことがすぐにわかった。怪異とは、それを怪異であると、異常なことであると認識できず、疑いも持たずに踏み込んで行ってしまう。止めなければ。ルティはそう思った。

「パティー。ダリアの言うことを聞いてあげて。いますぐ、それ元に戻してきて!」

ルティが彼の前に立った。それでようやくパティーは脚を止めた。だが、表情は変わらない。

「これしか方法がないんだよ。ルティも、わかるでしょ?」

パティーの声はどこか冷やかだった。

「ダリアの瞳のことは、お兄さんにお願いしようよ。ダリアのお願いなら聞いてくれるよ。」

「ともだちを、自分の手で助けてあげないのかい? 見捨てるのかい? 人任せかい?

 それがきみの友情、ダリアに対する心なんだね?」

やはり、パティーはおかしかった。それを確信して、ルティは怖かった。なにせパティーは自分の二倍は大きな成人の男なのだ。前に立った彼は想像以上に巨大だった。彼がその気になれば自分などひとたまりもないだろう。しかし、それでもルティは退けなかった。

「本当だよ。あんなにダリアはともだちで、見捨てないって言ったのにさ!」

嘲笑するかのような、冷やかな声が響いた。フォルミスが部屋の入口の壁に腕を組みながらもたれかかっていた。フォルミスは氷のような瞳をしていた。彼はダリアに視線を向けた。その瞬間、彼の冷たい瞳に温度がよみがえった。

「ね、言ったろう、ダリア。人間なんてものは、そんなものなんだよ。」

ダリアに対する口調は、まるで親が子供に優しく言い聞かせるようだった。ダリアはしかし、彼女もパティーの異変に気が付いたようで、静かな怒りをその端正なおもてにふつふつと露わにしていた。残されたエメラルドの瞳でフォルミスをにらみつける。その視線に、フォルミスはひるんだようだった。

「兄さん。なんで、わたしのともだちにこんなことするの? いい加減にしてよ!

 王子様ごっこも、もう終わり! さぁ、いますぐ!」

すごい剣幕だった。そのすさまじい怒気を含んだ声にルティまでもが気圧された。そのルティの一瞬の隙を突いて、パティーが彼女の隣を風のようにすり抜けた。ルティがしまったと思ったときにはもう遅かった。彼は透明なガラスの壁に、思い切り振り上げた鉄パイプを打ち付けた。一撃でガラスケースに無数の白いヒビが走った。だが、ただのガラスではないらしく、完全には割れていなかった。またパティーは大きく得物を振り上げてガラスに強く打ち付ける。ルティは急いで彼を止めようと走った。

 ひどい音を立ててケースの壁が粉々に砕けて崩れ去った。滝のしぶきのように、ガラスの細かな破片が流れ落ちて周囲一帯に散らばっていった。ルティは飛び散るガラスの破片で、右手の人差し指の先を少しだけ切ってしまった。細い筋となって、赤い血がしたたった。認識から遅れて鋭い痛みが熱を持ってやってくる。次には、用済みになった鉄パイプと鍵束が地面に打ち転がされた。パティーは素早くエメラルドの瞳を拾い上げた。手のひらに乗せたままじっと見つめて動かない。ルティは初めて感じる切り傷の苦痛に顔を歪ませながら傷口を押さえた。

 信じられないことが起こった。パティーがエメラルドをダリアの人形の瞳に返さないまま、それを持ってルティの隣を通り過ぎた。ルティは唖然とした。

「待って、パティー! かえして! かえしてよ!

わたしの・・・ひとみ・・・かえして・・・!」

ダリアが悲痛な声を上げた。彼はそれをも意に介さず、歩を進める。

「あは・・・あはははは! 見たかい、ダリア。これが人間なんだ。

 こんなあくどいやつらと、ともだちになるなんて・・・。」

ルティが走り出した。パティーに目掛けて一直線に走った。彼の前に回ると、めいっぱい腕を伸ばすと彼の胸ぐらを掴んだ。その腕を引きながら思い切り地面を蹴ってジャンプすると、無表情な彼の頬を情け容赦なく力いっぱい手のひらで打った。その衝撃で、さきほど切った指先の傷が痛んだ。人を叩くというのは、自分もまた痛かった。

乾いた音が狭い室内にこだました。ダリアは片目を見開いてその光景を見ていた。その表情は驚きに満ちていた。フォルミスですら、驚きを露わにしていた。パティーが表情を取り戻した。自分を泣きそうな顔でにらみつけているルティに視線を落とした。彼は自分の右手を広げてその中に握られていたものを見た。滑らかな曲線を描くエメラルドが、そこにあった。ダリアの失われた、右の瞳だった。

「くそ・・・! なんで、ぼくは・・・!」

悔しさばかりが胸に募った。

「よかった。もとに、戻った。」

「・・・ありがとう、ルティ。また助けてもらっちゃったね。

 ダリア、ごめん。この宝石を見たとたん、なぜだかこれを

自分のものにすることしか考えられなくなって。」

ダリアはパティーに近付いていった。その顔からはもう、険は取れて穏やかだった。

「いいんだよ。きっと、宝石に取り憑かれたんだよ。

 そうだよね? 兄さん!」

最後の声は鋭かった。その声を放つと同時に、ダリアはその声にも負けないほどの鋭い視線をフォルミスに向けた。

「なんで、なんでそんな目でぼくを見るんだ。ダリア・・・。

 なんで、そんな人間どもの方にいるんだ! そいつらがぼくらになにをしたか忘れたか!

 ぼくは忘れない。今度こそおまえを、ぼくが守る。ぼくは・・・。」

フォルミスは自分の胸の前で拳を強く握りしめていた。ルティとパティーには話がいまいち飲み込めなかった。彼がなぜそんなに人間に敵意を向けるのか、彼とダリアの過去になにがあったのか、そのことがなにも見えなかった。

「ダリア。なにがあったの?」

ルティが訊いた。ダリアの顔が曇った。

「そのことについては、わたしの手記を読んでみて。全部、教えてあげるから。」

「手記を渡したのか?!」

フォルミスが怒声を上げた。

「なんてことだ、そこまで・・・。くそ、殺してやる。殺してやるぞ、おまえたち!」

「パティー! わたしのひとみを人形にはめて!」

パティーはワケもわからないまま、右手に持っていたエメラルドをダリアの人形にはめるため、走った。フォルミスがどこからともなく短剣を引き抜いてたずさえ、こちらへ向かって来ていた。ダリアはルティの手を引いてパティーの後に続いた。ダリアは地に転がされた鉄パイプを素早く拾い上げると、ルティをかばうようにして前に立つ。パティーが、空洞になってしまっているダリアの人形の右目にエメラルドをはめ込んだ。緑色の宝石は、まるでその穴に吸い込まれるようにして寸分の狂い無くそこに収まった。ダリアが、閉じられていた右目を開いた。そこにはエメラルドの輝きを放つ深い緑色の瞳が爛々と輝いていた。

 パティーはフォルミスの人形本体をどうにかすれば、抜身の短剣を構えるフォルミスを止められるのではないかと思案したが、あいにくダリアの人形とフォルミスの人形はケースの中でガラスの壁によって空間を区切られていた。

 ダリアが鉄パイプを長く持って、フォルミスを牽制した。彼は獲物のリーチの差で負け、そこからは踏み込めないでいた。

「兄さん、下がって。下がらないと、このまま喉笛を突くわよ。」

非情な声だった。フォルミスはダリアの後ろにいるパティーとルティを憎しみのこもった瞳でにらむと、両手を上げて後ろに下がった。ダリアが鉄パイプの先を彼に突き付けながら、上手く壁へ埋め込むように誘導する。これで、道が開けた。

「兄さん、剣を捨てて。地面に伏せて。」

フォルミスは言う通りにした。短剣の転がる高い音が耳障りに空気をひっかいた。

「ルティ、パティー。別館の出口まで走るよ。外に出るまで絶対に振り向かないで。」

「わかった。」

ルティが不安気に答えた。

「言う通りにするよ。」

パティーも応じる。

「行くよ!」

ダリアが鉄パイプを右手に持ち、ルティの手を左手で引いて、出口へ向けて一気に走り出した。パティーもその後に続く。三人が矢のように走り出すと、フォルミスは立ち上がりながら大声で叫んだ。

「生きてここから出られると思うなよ! 人間ども!

 全員警備につけ! 誰一人としてぼくの城から出すんじゃない!

 警鐘を鳴らせ! 賊二人を討ち取るんだ!」


​​♪♪♪


 大きな鐘の音が耳を引き裂かんばかりの勢いで響き渡った。エントランスへ出てみると、目指す【B】の管理区域の両隣のドアが勢いよく開いた。抜身の剣をひっさげて、西洋騎士の甲冑が二体、鎧を鳴らして飛び出してきた。走ってくる三人を認めるや剣を構えて厳かに言い放った。

「止まれおまえたち! 王子のご命令だ! ここは通さぬ!」

このまま突っ込めばあの冷たい光を放つ長剣に斬り捨てられてしまうだろう。ルティは走る速度を落としかけた。だが、ダリアはそんなルティの手を強く引き失速を許さなかった。ルティは強い恐怖が心を蝕む中、ダリアを信じてまた強くコンクリートの地面を蹴った。

「王女の命令よ! その道を開けなさい!」

ダリアが走りながら叫んだ。その声に鎧の騎士たちは面食らった。

「王女様! し、失礼いたしました!」

騎士たちは剣を地に置くと、右手を真っ直ぐ斜めに上げてダリアに敬礼をした。ダリアは騎士たちを一瞥もすることなくただ前だけを見据えて風のように駆けていく。ルティは眼前の凛々しいダリアを見つめた。ダリアの手から、あたたかさが感じられる。少し強く自分の手を握って導く、ダリアの手。ただの一言で、道を塞ぐ屈強な鎧武者たちを屈服させる、ダリアの凛とした声。ルティは、いま自分の置かれている状況は非常に危険で、そしてそれを自分が怖いと思っていることは理解していた。だが、それと同時に、こうしてダリアに手を引かれて走るということを楽しんでいた。楽しいと感じる自分が、確かに存在した。こんなに怖くて、危険な状況だというのに、不思議なものだった。不思議と、笑みがこぼれた。

「こんなこと、前にもあったよね。」

ルティが微笑みながら言った。ダリアがちらとルティを振り返った。ダリアも楽しいようで、その表情はこんな危険なときだというのに、笑っていた。

「あったね。しかもさっきみたいに、ルティ、走るのやめかけたよね。」

ルティはそのことも思い出した。笑えた。

「そうだったね。またダリアに手を引いてもらっちゃった。」

「ちょっと! 二人とも! 談笑してる場合じゃないってば! ひぃあ!」

パティーがつまずいた。転びはしなかった。その様子を見て、ルティとダリアはまた笑った。声を揃えて、あの文句を口にした。

「おっちょこちょいパティー!」

パティーは顔を真っ赤にして、それきり苦笑いを浮かべたまま黙り込んでしまった。それがまたおかしくて、二人は笑った。

 三人は騎士が守っていた【B】の管理区域に駆け込んだ。隠し通路の階段がある正面のドアへ向かう。そのままドアを開ける。中へ激流のように突入する。隠し階段への蓋は開けっ放しになっていた。勢いを殺さず、後ろも振り返らず、開けたドアも閉めず、三人はダリアを先頭にして、階段へなだれ込んだ。

 蒼白い蛍光灯が照らす地下通路の壁には、相変わらずダリアの細い字で書かれた文言が染み付いていた。その横を駆け抜け、別館へ続く短い階段を駆け上がる。すぐにハートのクイーンの城、玉座の間の玉座の裏に出る。その、玉座の両側にはトランプの兵士たちが横一列に並んでいた。みな一様に背筋をピンと伸ばして槍を持ち、気を付けの姿勢を取っていた。

「じゃまよ! しつれい!」

ダリアはトランプの兵士を迂回することなく、そのうちの一人を後ろから思い切り蹴り飛ばした。予期せぬ背後からの奇襲に、背中を蹴られたトランプの兵士は、まるで紙切れのようにひらひらと地面に倒れ込んだ。その上を遠慮のかけらもなくダリアが踏んで通る。続いてルティが、最後にパティーが連続して駆け抜けていった。その都度、トランプの兵士は苦しそうなむめき声を上げた。

 突然の乱入に城内は騒然となった。

「あの者たちの首を刎ねろ!」

後方でハートのクイーンが叫んだ。それを号令にして、背後からも前方からも槍をたずさえたトランプの兵士たちが怒涛の如く詰め寄ってくる。ダリアも鉄パイプでは分が悪く、しかもここの支配者はハートのクイーンなので成す術無く、ついに脚を止めた。もはやこれまでかとルティが諦めかけたそのとき、ダリアが鋭く叫んだ。

「パティー! こいつらは紙なの! ライターだよ!」

「そうか!」

パティーは合点がいった。

「おまえたち、紙だよな! 火は怖くないのかい?! 燃やしちゃうぞ!」

パティーがジーンズのポケットからライターを取り出した。ホイールをこすってライターに火を灯す。

「う、うわあ! 火だ! 火を持っているぞ!」

トランプの兵士たちから蒼ざめた声が上がる。ここでさらにダメ押しとばかりに、パティーはジーンズのポケットに押し込んでおいた、ルティのメモを取り出した。ルティが隠し通路を見つけた時に、パティーに残したメモだった。

「ま、まさか!」

トランプの兵士たちから、さらに絶望にも似た声が上がった。パティーは容赦なく紙の先端を火であぶった。それを見た兵士たちから悲鳴が上がる。

「やめてやってくれ! 頼む!」

「やめてほしかったら道を開けるんだ! 早く! 灰になっちまうぞ!」

パティーの強い声が、兵士たちの恐慌に陥った心を打ち砕いた。

「道を開けろ! 開けろ!」

一斉にトランプの兵士たちがエントランスへの道を開けた。槍を地面に置き、降伏といわんばかりに地に膝を着いている。三人はまた走り始めた。

「パティー、かっこいい!」

ルティが叫んだ。

「たまにはやるじゃない!」

ダリアも続ける。

「そうだよ! ぼくだってやるときはやるんだ!」

パティーがむきになって、笑いながら叫んだ。

「この役立たず!」

後ろでハートのクイーンが叫んだ。

「なんだと?!」

その声にパティーが反応する。だが、ダリアの言いつけの通りに、後ろを振り向きそうな心をぎりぎりのところで抑える。ルティとダリアがまた笑った。

「パティーのことじゃないと思うよ。」

ダリアが言った。その通りで、ハートのクイーンは三人の脅しに屈して道を開けてしまったトランプの兵士たちを罵っていた。

「ジャック! あの者たちを捕らえよ!」

三人に緊張が走った。ハートのクイーンのそばに控えていた甲冑姿で長剣を腰に吊った騎士がクイーンに礼をすると、三人の方へ駆けだした。クイーンの命令を背後で聞きながら、自分たちを追跡する足音が増えたことを察知し、三人はさらに速度を上げた。

 展示室を飛び出すと、扉を閉める時間も惜しんで三人は一目散に駆け抜けていく。やはりこの別館には誰一人として人はいなかった。この別館そのものが、怪異に支配されているようだった。慌ただしく、桜の園の部屋へと突入する。

 中では若い男女がくちづけを交わしていた。桜の園の所有者であるラネーフスカヤの従僕であるヤーシャと、この家の召使い、ドゥニャーシャだった。ルティは顔を真っ赤にした。パティーは気まずそうにその横を通りすぎた。

 続いて、十二人の怒れる男の部屋だ。パティーが一度訪れたときはドアは閉ざされており、しかも屈強なガードマンが警護に当たっており、通行不可だった。だが、いまやそのドアは開け放たれており、行く手を阻んだ守衛もいない。三人はそのまま室内に飛び込んだ。

 中では真っ白なシャツを着てネクタイを締めた大柄な男が、同じような格好をした男に、特殊なデザインの飛び出しナイフを突き付けていた。慌ただしい乱入者に動じることなく、物語は進行していく。

「ノット、ギルティー。」

ナイフを突き付けられている男が、先に言った。

「・・・ノット、ギルティー。」

ナイフを突き付けていた大柄な男も、彼に続いて言った。その会話を聞きながら、ダリアが

一旦ルティの手を離してドアを開ける。そしてすぐにまたルティの手を取って先へと走り出した。次は別館ロビー。もう間もなく出口だ。

 ここまで来て、お別れの時が近付くのを感じて、ルティは楽しい気分が一気に薄れた。その代わりに、さみしさばかりが胸に満ちる。聞き分けられない、どう願っても叶わない、心にゆっくり滲み込んでいって、徐々に息苦しくなっていくような、そんな理不尽な納得できない思いが、次第に強くなっていった。

 ついにロビーに着いた。外へのガラス戸は開け放たれている。外はもう日が暮れて真っ暗になってしまっていた。

 突然、ルティの手をダリアが強く引いた。その力に、ルティの身体は勢いよく倒れ込むようにしてダリアの方へ引き寄せられる。ダリアはくるりと振り向いた。ルティの身体を受け止めると、強く、強く抱き締めた。









​​「楽しかったよ。」




​​「ルティ。」
























​​​​​​「さよなら。」






 ほんの一瞬だった。耳元でダリアが優しく囁いた。ルティがなにも言わないうちに、ダリアはルティの腕をまた強く引いてドアの方へ引き寄せると、ルティの後ろへ回り、その背中を押した。ルティはその勢いを制御できないまま、自分の身体が向かう方へと倒れ込むようにして進んだ。

 その一瞬は、永遠のようにも思われた。まだ、ダリアになにも言えていない。あんなことがあった、こんなこともあった、自分はこう思った、きみはどうだったか、次はいつにしようか、それまではさようなら、そんな言いたいことたちが何一つとして伝えられなかった。それはあまりにも突然な別れだった。

 パティーも外へ飛び出してきた。その瞬間に、ダリアとルティを引き裂くように、別館のガラス戸が悲痛な音を立てて無慈悲にも閉まった。

透明な壁の向こう側では、鉄パイプを片手に持ったダリアが泣きそうに微笑んでこちらを見ていた。彼女はおもむろに、シャツワンピースのポケットから、緑色をしたキャンディを取り出してそれを指でつまんでルティに示した。袋を開け、中に納めてあったエメラルドのような光沢を持つ緑色のキャンディを取り出すと、口の中に入れてころころと転がした。

 そして、最後は瞳から雨を降らせながら、きれいに笑ってみせた。

 そのきれいな姿は、黒く曇っていくガラスが掻き消していった。

「ダリア!」

ルティは大声で叫んだ。その声は虚しくも宵闇の静寂に吸われて消えた。

「ダリア!」

ルティがまた叫んだ。

 その声は、もう届かなかった。

 やがて、赤い光と共に、サイレンが鳴り響いた。大柄な警察官たちが二人の元に押し寄せた。パティーは警察官たちに取り押さえられてしまった。ルティはなにも考えられなかった。なにも聞こえなかった。ひたすら、たいせつなともだちの、その名前を、かすれた声で呼び続けた。それは誰かと訊く警察官の声も、自分の名を訊く声もルティには届かなかった。

 ルティは泣き続けた。ダリアの名を呼び続けた。

 やがてその悲痛な叫びと、涙に咽ぶ鳴き声を吸い込み続けた黒い空はついに耐えかねて、ルティと同じようにして涙をこぼし始めた。

 悲しみが降りしきる中、ルティのたいせつなともだちを呼ぶ声だけが絶えず上がった。

 空からこぼれた悲しみが、もう、いいよと、ルティに囁きかけていた。




​――― ダリア・・・ ―――







→​​最終幕後半へ続く

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