幻実と現想 後半

Dahlia

​​最終幕後半 幻実と現想



 病室には、あの日にも似たやわらかな雨の音が漂っていた。ルティの小さな手のひらには、白いオルゴールの小箱が乗っていた。ぽろん、ぽろんと、弾力の強い音がきれいに旋律を奏でていた。その音は、雨に混じっては消え、また現れ、また消える。それを繰り返していた。時々、外からはクラクションの音が聞こえてくる。安らぎを引き裂くようなそんな耳障りな音が乱入してきても、ルティはまったく動じなかった。それは無関心に近かった。オルゴールの奏でる旋律を、ルティはよく知っていた。たいせつなともだちが、心を込めて唄った歌。


​――― Amazing Grace ―――


その大きな喜びに打ち震える彼女の歌声が聴こえてくるようだった。

 あれから四カ月。あの不思議な一日から、もうかなりの時が流れた。もう、両親以外の人間がここを訪れなくなってずいぶんと長い。最初の方こそ、この奇妙な事件は世間を騒がせ、様々な人間が来訪したものである。だが、それも次第になくなった。やがてその事件に関する一切は終息し、また世間は先へと進み始めた。滞りなく、時は流れ続けた。それを速いと感じるか、遅いと感じるかは問題にならなかった。川の水が一方向へひたすら流れ続けるように、時計の針がひたすら一方向へ進み続けるように、時は流れた。ただ、ルティの心だけを、置き去りにして。

 病室にただ一つだけあるドアが乾いた音を二回鳴らした。誰かがドアをノックしたようだった。その音に続き。看護師がドアを開けて入室した。黒い髪の、痩せた看護師だった。

「ルティちゃん。気分はどう?」

看護師は微笑みながらルティの方へ少しだけ歩み寄った。ルティは濡れた蒼い瞳で看護師をちらと一瞥した。しかしそれきり視線を手の中のオルゴールへ落として、なにも応じなかった。

「あら。アメイジング・グレイスね。その曲、いいわよね。」

看護師はなんとか、ルティと会話をしようと努めていた。そのことは、幼いルティにもよくわかった。だが、応える気にはならなかった。看護師もルティのそんな心情を察したのか、苦笑して次の話題に切り替えた。

「実はね。ルティちゃんにお客さんが来ているのよ。」

「だれ?」

ルティは降りしきる雨にも似た声をこぼした。

「パティー・ティエンスさん。」

ルティが顔を上げた。その名を聞いて、鉛のように重かった心が、跳び上がりそうなほど高揚した。そんなルティの活き活きとした表情をこれまで見たことがなかった看護師は驚いたようだった。

「案内してきてもいい?」

「おねがいします。」

看護師は安心したように微笑むと、病室から出て行った。

 パティーはあのとき、警察官にその場で取り押さえられた。誘拐などの罪を疑われ、ずいぶんと長いこと取り調べを受けた。さらにルティの両親にも訴えられそうになった。ルティはことあるごとにパティーの無罪を主張し、あの不可思議な別館での出来事も包み隠さず打ち明けた。それによって、パティーへの誤解はなくなった。だが今度はルティが、現実的、科学的には有り得ない体験談を語ったことによって、彼女自身が精神疾患、妄想癖などの疑いをかけられてしまった。その結果、ルティはいま、ここにいる。

 パティーが自由を取り戻したのは、ここ最近のことだった。ルティは両親によって彼と会うことを徹底的に否定され、また遠ざけられた。結局あれからただの一度も会えなかった。そんな彼が、四カ月ぶりに現れた。そのことにルティは、四カ月ぶりに微笑んでいた。

 またドアが二回鳴った。

「はい。」

ルティが心を弾ませて返事をした。ドアが静かに開き、よく知った顔が瞳に映った。紫色の瞳に、黒い髪、背は高く、すらりと痩せていた。紫色のダッフルコートをはおり、白いパンツを穿いていた。焦げ茶色のインナーのV字に開いた首元には、やはり銀色に輝く三日月のネックレスが揺れていた。パティーだった。

「久しぶり。」

パティーが入りながら言った。

「久しぶり。」

ルティも返した。

「少し、痩せたね。」

パティーがベッドの近くの壁際に押し付けてあった椅子を取りながら言った。オルゴールがゆっくりと音を鳴らすのを止めた。ルティはまたネジを巻いた。パティーが椅子をベッドに近付けて腰を下ろした。また、オルゴールが音を奏で始めた。

「アメイジング・グレイス。いい曲だよね。」

「うん。これを聴いてると、あの子の歌声、思い出すんだ。パティーのギターも。」

パティーはルティから視線を外すと斜め上の宙を見上げた。

「ぼく、ギターなんて弾いたっけ?」

「え? 弾いたじゃない。それで、ダリアが歌を・・・。」

そこまで言って、ルティは思い出した。あれは、自分が怪異に見せられた、しあわせなゆめの中での出来事だったのだ。だから現実のパティーはギターを弾いていない。

「あ、ごめん。あれはわたしの夢の中のできごとだったんだ。」

ルティは音を奏で続けるオルゴールに視線を落とした。納得した。だが、心がどうにもすっきりとしなかった。不思議な感覚だった。それは以前から知っている感覚だった。もやのかかった視界のような感覚の中を、もがきながら進んでみる。なにかが手に引っかかった。四カ月も前のことなので正確に思い出せない。たしか、あのとき、あの子は。


――― きっと ルティの知ってる曲が流れるよ ―――


彼女は確かにそう言ってこのオルゴールと手記を渡してくれた。

 なぜ、自分がこの曲を知っているとわかったのであろうか。確かに有名な曲ではある。このオルゴールを聴いた人間のほとんどが知っているようだった。だが、見舞いにやってきた学校の子供たちは聞いたことすらないというのが大半だった。もちろん自分も、あの夢の中で聴かなければ知らなかった。ただの偶然なのだろうか。

「どうしたの?」

思案にふけるルティを訝しんで、パティーが声をかけた。ルティは疑問に思っていることをパティーに打ち明けた。彼も疑問に思ったようで、ルティの言うことを否定も肯定もしなかった。ルティと同じように、腕を組んで考え始めた。

 答えは出なかった。彼女までもがルティの夢の中にまでついてきて、唄って、そのことを知っていたのか、それは推測の域を出なかった。夢を複数の意識が共有する。それは現実的には有り得ないことだが、あの怪異の真っただ中では有り得ないことが有り得る。そんな状態の中での出来事を推測するというのは、公式がわからない式の解を求めることと同義だった。その場における決まりごとがなにもわからない状態で、答えを探すことは至難だ。不可能に近いと言ってもいいだろう。

「そうだ。その手記はもう読んでみたの?」

パティーはベッドの隣に備え付けられた棚に置かれた、黒革の表紙の日記帳を指さして言った。ルティはまだ読んでいなかった。一人でその表紙を開く勇気がなかった。だが、一緒に開けられる人もまたいなかった。

「ううん。まだ。一緒に見てくれる? 一人じゃ、なんだか怖くて。」

「いいけど、怒られないかな。」

「もし怒られたら、わたしも謝るから。」

「わ、わかったよ。」

パティーが承諾すると、ルティは日記帳を手に取った。オルゴールを鳴らしたまま棚に置いて深呼吸を一つした。表紙の端っこをつまんで、静かにめくった。

 二人は、彼女の歩んできた歴史に言葉を失った。彼女と、その兄の孤独を想った。彼女はこの手記が、自分の記憶だと言っていた。だからだろうか。手記にしては、ところどころ曖昧な記述があったり、時間がやけに飛んだりしている。手記とは、書き手のその時の記憶や感情、想い、思考などを書いたものを指す。

彼女はこうも言った。人形が身体で、手記が記憶。つまりこの手記は彼女の記憶そのもの。脳の中の記憶を司る海馬そのものということなのだろうか。彼女の中の記憶がぼやければ、ここの記述もまたぼやけ、記憶が失われれば、記述も失われる。そういうことなのだろうか。

 曖昧な過去の記憶を読む限り、彼女とその兄は生身の人間だった。それに始まり、非常に曖昧な喋り言葉だが、彼女の歴史をうかがい知ることができた。そして、あるときを境に、曖昧だった記述が鮮明になった。喋り言葉も急に活発になった。そこからは、紙は真っ白の真新しいものになった。それは、ルティと彼女が出逢う少し前の記憶だった。彼女の想いや心の動きが包み隠さず記してあるページを二人は読み進めていった。

 そして、さきほどの疑問の答えが記されていた。彼女は、ルティの夢の中にまでついてきていた。あの社長が座るような座り心地の良い椅子に座ったまま、眠ってしまったらしかった。初めから怪異だとわかっていたらしかったが、ルティと二人でこのしあわせなゆめの中にいるのも悪くないなとも思ったようだった。しかし怪異に、王女様はお部屋にお戻りくださいと、至極丁寧に追い返されたとも記してあった。

 ルティとパティーは驚きながらも、純粋で少し毒舌な彼女の記述に時折、笑みをこぼした。最後の方には直筆で、二人をあの場所の王子であり、支配者でもある兄とその手下たちから守り、必ず元の世界へ送り届けるという寂しくも強い決意が記されていた。それだけは、インクの濃さと字が他とは違っていた。そして、二人と別れて胸を引き裂かれたように苦しく、辛いと彼女は言っていた。

 まだ先があった。


――― ルティとパティー まだ来ないのかなぁ ―――

――― はやく会いたいなぁ ―――

――― お兄さんが泣きながら謝ってきた 仕方ないから許してやる ―――

――― お兄さんが最近ようやく昔みたいにやわらかくなった ―――

――― お兄さんが二人はもう来ないのかなと心配そうにしている 自業自得 ―――

――― 今日も本館ロビーで待ってみたけど やっぱり来ない ―――

――― お兄さんが新しいリボンをくれた ルティのリボンにそっくり ―――


ルティとパティーを待ちわびる記述。実の兄との日常をぼやいた記述。彼女と離れてしまったいまでも、この手記と彼女は同調していた。彼女はいまも、仲直りした兄と共に、あそこで自分たちを心待ちにしている。

「はは。ずいぶん、待たせちゃってるね。」

「そうだね。よし。わたし、元気になった! 退院したら、行こうね!」

「うん! 今度はお兄さんも一緒にランチだね!」

二人は笑い合った。

「あ、そうそう。これを返さないとね。」

パティーはコートのポケットから紅いリボンと真っ白なハンカチを取り出した。ルティの手を取り、それをしっかりと返した。

「ありがとうね。」

いつの間にか、雨の音が止んでいた。




→第0幕へ続く

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