ともだち

Dahlia

​​第8幕 ともだち



 無惨に打ち壊された置き時計の部品が辺りに散らばった。ダリアは荒い息を吐きながら置き時計の遺骸を闇の中に見下ろしていた。ルティはダリアの豹変ぶりに少しばかり怯えた。いくら相手がモノとはいえ、パティーの存在がかかっていたとはいえ、時計を容赦なく鉄パイプで叩き壊すダリアの姿は恐ろしいものだった。呆然として、ダリアを見つめていた。ダリアは荒れていた息を少しずつ鎮めると、右手に持っていた鉄パイプを取り落とした。固い音が耳を打った。その音をきっかけにして、パティーは意識を取り戻した。

「ルティ、ダリア。ありがとう。」

二人はパティーを振り向いた。彼の顔は疲れ切っていたが、それ以外に異常はないようで、その表情は微笑んでいた。ルティは思わずパティーに抱き付いた。彼はそれに応えた。

「よかった。ほんとうに、よかった。」

「ルティとダリアが、呼んでくれたんだね。ちゃんと聞こえたよ。」

ダリアはやりきれない顔をしていた。パティーはルティを離して、ダリアの壊した時計に目をやった。そばにはダリアが気落ちした様子でたたずんでいる。うつむき、長い白金色の髪が顔を隠してしまっていて、その表情は読み取れなかった。ルティはそんなダリアを見て心がざわついた。あんなに笑顔のまぶしいダリアが、日光をその顔いっぱいに浴びて輝く大輪のようなダリアが、まるで萎れてしまったようにうなだれている。ルティは、彼女の方へ近付いていった。

 ちょうどそのときだった。わずかな振動が地面から自分の足に伝わったかと思うと、ルティたちの立つコンクリートの床が大きく左右に揺れた。三人は一斉に悲鳴を上げてその場にうずくまった。大きな地震だった。部屋の中のガラスケースが揺れに耐えきれずに引っくり返り、その中身と割れたガラス片を辺り一面にぶちまける。部屋にはその騒々しい音が乱れ飛んだ。ようやく揺れが収まった頃には、周りは目も当てられない惨状が広がっていた。幸いにも、壁や床にはヒビ一つ入っていなかったので、倒壊するほどではなかったらしい。

「いやあああああ!」

ダリアの悲鳴が響き渡った。ルティとパティーは驚いて彼女の方を見た。ダリアは尻餅を突くようにして入り口のドア付近の壁にもたれかかっていた。右手で顔の右半分を覆い隠すようにして押さえている。

「目・・・。わたしの、目が・・・。」

ダリアは途切れ途切れ、かすれた声で泣いていた。露わにされているもう片方のエメラルドのような瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。ルティはダリアの目にガラスの破片でも刺さったのではないかと思い、大いに取り乱した。急いで立ち上がると彼女の方へ駆け寄った。だがダリアはそのルティの動きを察知すると、逃げるようにして部屋から飛び出して行った。

「待って! ダリア!」

「来ないで!」

ダリアは少しも速度を落とさずに走って行った。その後をルティが、さらにその後をパティーが追う。ダリアは一回だけ後ろを振り返った。二人が追いかけてきているのを認めると、更に速度を上げた。そしてダリアは、あるドアを開けるとその中に飛び込んで行った。勢いよくドアが閉められる。その乱暴な音が、広いエントランスに響き渡った。

 【A】の管理区域へ続くドアだった。ルティは急いでドアノブを引っ掴むと、駆けてきた勢いそのまま開け放とうとした。だが虚しくも、ドアノブはほとんど回らないうちに、内部でなにかにぶつかって止まった。鍵がかかっているようだ。パティーがふらふらとした足取りで追いついた。ルティはドアを小さな拳で何度も叩いてダリアを呼んだ。

「こっち来ないでよ! 放っておいて!」

ルティはドアを叩くことを止めた。理解ができなかった。あんなにも仲良くして、一緒に色んなものを見て回って、ともだちだって言ってくれたのに、今になってなぜ自分をダリアが拒絶するのか、ルティには理解ができなかった。そして、またともだちを失ってしまうという恐怖が、自分の背後からその視線を送ってきているのを感じた。開かないドアを目の前にして、ルティは呆然と立ち尽くした。声からして、ダリアはドアのすぐそばにいる。たった一枚の、これっぽっちの薄いドアが、自分とダリアをこんなにも引き離している。自分はいま、ドアを向いているが、ダリアはきっと、ドアに背を向けているのだろうと思った。ルティはなんと声をかけるべきか決めかねていた。パティーも、ドアを前にして立ち尽くすルティの小さな後姿を見守っていた。しばらく、膠着が続いた。

「まだ、そこにいるの・・・?」

ドアの向こうから、弱々しいかすかな声が聞こえた。その声が泣いていることは、ルティにはよくわかった。

「うん。ここにいるよ。」

「わたしなんかに、かまわないでいいよ。」

「わたしには、泣いてるともだちを放っておくなんてできないよ。」

「泣いてなんかない! もうわたしの前から消えてよ!」

ダリアが叫ぶ。だが、胸に突き刺さるナイフのような言葉をぶつけられても、ルティは微動だにしなかった。涙の落ちる音は聞こえない。声は刃物のように鈍い光を放っている。それでもルティはドアに背を向けようとはしなかった。このダリアの異常が怪異によるものなのか、それとも彼女の身の内に巣食うなにかしらによるものなのか、答えはわからない。理由はどうであれ、ルティはその言葉通りダリアを放っておくことはできなかった。ダリアの叫び声のあと、またしばらくは沈黙が流れた。

 正体不明の足音が聞こえた。パティーとルティは背後を振り返った。エントランスの中央に人が一人だけいた。ダリアと同じ白金色の短い髪、マカライトのように滑らかな薄い緑色をした冷やかな瞳、胸元の淡い蒼色のリボン、白のシャツに、サスペンダーで吊った黒いズボン。ダリアの双子の兄、フォルミスだった。彼は無表情のまま二人の方へ歩み寄ってくる。表情や仕草からなに一つとして読み取れないのと、彼がまとう冷やかな雰囲気が、ルティはどうも苦手だった。特になにをされたわけでもないし、なにを言われたわけでもない。ただ、彼の摂氏零度を思わせる冷たい瞳と冷気のような言葉の温度がどうにも怖かった。自然と身体が反応して、パティーの影に隠れる。

「妹のことは、放っておいてもらっていいかな。あとはぼくが。」

「あ、あの。わたしも、ダリアのこと、放っておけなくて、その・・・。」

ルティがそう言いかけると、彼は目を細めた。わずかに口元を微笑みの形に変化させている。だがそれは、微笑みによく似てはいたが微笑みではなかった。冷笑であった。しかし、フォルミスは巧みにその冷笑を微笑みに見せていた。ルティはその笑みに違和感を覚えたが、しかしその表情は微笑みとして認識した。

「いいから、きみたちは出口へお行き。」

彼はパティーの少し前まで来ると歩みを止めた。

「でも、出られないんだ。信じられない話だけれど、入り口に通じる展示室が・・・。」

「展示室が、そのまま本当になっちゃった?」

フォルミスの言葉は静かだった。その静かな響きに、パティーの声は掻き消された。二の句が継げなくなる。ルティもなにも言えなかった。また、空間に静寂が広がった。フォルミスが非常にゆっくりと、無機質な表情を変化させた。また、冷やかな微笑みだった。

「大丈夫。いまはもうきっと、通れるようになっているから。」

彼はその恐ろしいまでにきれいに笑った顔で、【B】の管理室のドアを手で示した。それはまるでホテルマンが優雅に来客を案内するかのような身体の流れであった。ルティはしかし、ダリアを置いて行く気にはなれなかった。自分が大切に思うものは、たとえ自分が傷だらけになろうとも見捨てたりしない、裏切らない。そう固く誓っていた。

「それでも、やっぱりわたしはダリアを置いては行けない。」

ルティはついにパティーの身体の影から出て、フォルミスと向き合った。彼の瞳を直視することさえ精神を摩耗した。だが、ルティはその恐怖から決して逃げなかった。

「ダリアは、ぼくが必ず後から連れて行くから。きみたちは心配しないでお行き。」

「いいえ。わたしは、ダリア置いて自分だけ先に行ったりしません。」

ルティは瞳に力を込めた。芯を持った、はっきりとした言葉を相手にぶつけた。なおもフォルミスは表情を崩さずにルティとパティーに別館の出口へ行くよう促す。パティーはフォルミスの言葉の端々、その表情に陰が見え隠れしているのを感じ取った。なにかがおかしい。さも当然のように彼と会話しているが、なにかが決定的におかしい。自分は気付かないうちに、なにかを見落としている。そんな気に駆られた。

「ねえ。フォルミス。なぜそんなに、ぼくらをここから出したがるんだい?」

パティーが思い切って言葉を斬りこんだ。半ば、賭けのような質問だった。これは自分が相手に対して疑念を抱き、信用していないことを意味していた。相変わらずフォルミスの冷たい笑みは顔に張り付いたままだった。一ミリも崩れはしなかった。一つ変化があったとすれば、彼がなにも答えないということだ。パティーの指摘を聞いたルティも、いきなり心の中に浮かび上がってきた疑問を、投げかけてみることにした。

「わたしも気になることがある。フォルミスは、ダリアと仲が悪いの?

 せっかく二人で来ているのに、一緒に見て回らないなんて変だと思う。

 そして、いままでいったい、どこでなにをしていたの?

 こんな怪異の真ん中にいるのに、さも当然のように平然としているなんて・・・。」

いまになって思えば、おかしいことだらけだった。ダリアとは別行動をしていたフォルミス。怪異が起こったこの別館の中を顔色一つ変えずに現れ、なんの根拠も説明せずに出口への部屋が通れるようになったから、行けと言う。彼の言動、行動には不審で不明な点が多すぎる。なぜ考えなくても感じられるであろう、彼の疑問点に気付かなかったのであろうか。その感覚は少し前にも体験したことのあるものだった。現実には有り得ない出来事や幻想の情景を何の疑いも持たずに受け入れてしまう。それが怪異というものだった。怪異の本当に怖いのは、それが怪異であると、それが異常なことであると全く疑うことなく、その中へ踏み込んで行ってしまうところだ。そこまで気付くことができれば、彼の甘言に惑わされることはない。二人は多少の恐怖は包容しながらも、彼には従わない強い意思を心の中心に据えた。

「そうか。そうか。あははは。あはははははははは!」

フォルミスが、それまで完璧だったきれいな微笑を醜く歪ませ、声を上げて笑った。その豹変に二人は肝を冷やしたが、自分たちの予測が的中したことを知ると、一つの危機を回避できた安堵で短く息を吐いた。

「それなら、好きにするといい。だが! だが、ダリアは渡さない。

ダリアは、ぼくの妹だ。おまえたちなんかに、渡さない。」

彼はそう言うと、初めて感情を露わにした。激しい憎悪の燃え盛る瞳でルティとパティーをにらみつけた。その形相は二人をにらみ殺さんばかりの激しさだった。彼は二人に背を向けると固い足音を響かせて【B】の管理区域へと姿を消していった。

 フォルミスの姿が見えなくなると、二人は張り詰めていた心の糸をゆるめた。パティーは顔色を悪くしていた。ルティも気が重かった。しかし、それでもルティの向き合う覚悟は揺るがなかった。目を閉じ、胸の内に溜まった古い空気をゆっくりと吐き出した。ダリアが閉じこもったドアを向く。

「ダリア。」

ルティは優しく語りかけた。

「わたしにかまわないで、兄さんの言う通りにすればよかったのに。」

ドアの向こう側から、湿っぽいダリアの声が応えた。

「ダリア。言ったでしょ? 一緒にここから出るんだって。なにがあったの?

 なんでこんなことをするの? わたしから逃げないで。おねがいだよ。」

長い沈黙が流れた。パティーはジーンズのポケットに両手を突っ込んで、灰色のコンクリートの地面へ斜めに視線を落としていた。この幼心の繊細な問題に口を挟む余地はなかった。大人の割り切りという名の諦め、取捨選択に慣れ切った心、人物の変化を理解し、受け入れ、関係と対応を更新していく聞き分けのいい感情、それらすべてが汚らわしいものに見えてくるほど、ルティのダリアに対する心情は純粋で、そして脆く、何人も捻じ曲げることができないほどに真っ直ぐだった。誰がなんと言ったところで、ルティは自分の心とダリアに対して嘘は吐かないだろう。その真っ直ぐな純心を打ち砕くのは唯一、ダリアだけだった。パティーは、明確な危険が迫ったときにのみ、然るべき対応を取ると決めた。それ以外の、ルティとダリアの間に生じた問題は、本人たちが答えを出すべきであろうと考えた。もちろん彼自身のダリアに対する思いというものは確かにあったが。

 ルティは手をきゅっと握りしめたまま、ドアに向かい。ダリアの返答を待った。音が消えても、動く気配がなくても、時が無情に流れても、心に暗雲が垂れ込み、不安に支配されかけても、ひたすらにダリアの応えを静かに待ち続けた。その応えを受け取るまでは、決してここを動かないと、心に決めた。


​​♪♪♪


 ルティの強い心が込められた言葉が、閉ざされたドアの向こう側から確かに響いた。ダリアはドアに背中をくっつけたまま、膝を抱えて座り込んでいた。【A】の管理区域は、他の管理区域とは違っていた。ドアの先は通路ではなく、管理室のような部屋になっている。ただ、部屋を照らす電灯だけは他と変わらず冷たい色をしていた。うずくまるダリアの白いシャツワンピースにはところどころ、涙の跡が滲んでいた。右目は閉じられていた。

彼女は迷っていた。ルティが自分のことをともだちだと、何度も何度もフォルミスに対して宣言してくれていたことは、このドアを突き抜けてよく聞こえていた。おかしな態度を取り、ルティの優しい言葉を突っぱねて、そのお返しに刃物のように残忍な言葉を投げつけたにも関わらず、未だルティはすぐそこで自分のことを待っている。ダリアの心の中にはいくつか後悔があった。それは、自分の叶わない願望、夢想から生じたものだった。それはちょうど、あたたかさを知った代償として、寒さを知ったような、幸せな夢の後に訪れる、虚しい現実のようなものだった。この部屋の突き付ける真実と現実が、自分から夢を引き剥がした。

 ダリアはついに腰を上げた。そのとき、シャツのポケットからなにかがこぼれ落ちた。片方の瞳だけで、それを見下ろした。ルティからもらった、青りんご味のキャンディだった。緑色の包みが、思い返せば短いルティとパティーとの幸せな時間を思い出させてくれた。ダリアはそっとキャンディを拾い上げた。手のひらに乗せて、見つめる。またしずくがこぼれ落ちそうになった。きゅっと握りしめると、元通りにシャツのポケットに仕舞った。

「ルティ。まだそこにいるの?」

「ここにいるよ。」

すぐに、ルティの細い声が返ってきた。ダリアはこの期に及んで、また少し迷った。その迷いで、言葉が遅れる。歯がゆい思いであった。

「わかったよ。もう逃げないから。嘘も吐かないから。でも、いまのわたしを見たら、

今度はルティが逃げちゃうかもね。もうともだちじゃ、いられなくなっちゃうかも。

その覚悟があるなら、ドアを開けてもいいよ。覚悟が無いなら、二人で出て行って。」

ダリアはそう言うと、内側のドアノブだけに着けられている鍵のロックをひねって解除した。あとはもう、ルティが自らの意思でこのドアを開けるか否かにかかった。ダリアは鍵だけ開けると、ドアに背を向けて部屋の中央に歩いて行った。中央には社長が使っているようなデスクと椅子があった。ダリアはそこに座るとデスクの上に置かれた、古ぼけた黒革の日記帳のページをめくり、白い羽根のペンでなにごとか書き始めた。そして、ルティを待った。


​​♪♪♪


 ダリアの言葉が伝わって、すぐに鍵の開く音が聞こえた。ルティはダリアの脅しとも警告ともとれる言葉に、最初の一歩が踏み出せないでいた。ドアまでの一歩が、とても遠く感じた。銀のドアノブが取り付けられた無表情のドア。こんなに怖いものはない。ルティは初めて、知るということに対して恐怖を抱いた。ダリアのことをこれ以上に知ってしまうと、もう後戻りできないような、もうともだちではいられなくなってしまうような気さえして、覚悟と決断が鈍ってしまう。こんなにも心は決まっているというのに、その通りに身体は動いてくれなかった。鍵はもう、とっくに開いたというのに。

 苦心するうちにルティは、後ろで一つくくりにされて馬の尾のように垂れる髪が痛くなっていることに気が付いた。長いこと頭皮が引っ張られ続けたので、気だるい痛みがあった。ルティは無意識に髪を束ねるリボンをほどいた。解放された濃い金色の髪が下りてくる。短く薄い息を吐くと、手に持ったリボンに視線を落とした。薄桃色のシルクのように滑らかなリボン。ダリアの首元を飾っていたものだ。うっすらと開いていたくちびるをきゅっと一文字に閉じて、萎えてしまった決意を呼び起こす。再びダリアへの想いを心の真ん中にしっかりと据えるように、広がった髪をリボンでくくった。

 一歩、強く踏み出す。脚を揃え、ドアノブにそっと手をかける。温度を持たない金属の感触が手に食い込んだ。パティーがルティに寄り添うようにして、その斜め後ろに立つ。ルティはノブの手をかけたままで彼を見上げた。パティーは今までに見せたことのない凛々しい表情でドアを見つめていた。彼はルティの視線に気付くと顔を彼女に向け、一つ小さくうなずいた。身体の中にある、一番大きな歯車が力強く回り始めた。ルティは、ドアを開けた。

 ルティとパティーはその部屋に入ったとたん、自分たちの目に飛び込んできた光景を受け、脚を止めた。部屋の中央では社長が仕事をするようなデスクにダリアが着き、ノートにペンを走らせていた。その更に奥には、パティーの身長と同じくらいの高さを持つガラスケースが冷たい光を反射している。ルティとパティーは、そのガラスケースの中に安置されていたものを見て、身体が石のようになってしまった。

「ダリアと、フォルミス?!」

パティーが張り詰めた声を漏らした。ガラスケースの中に入っていたのは、ダリアとフォルミスだった。向かって左側にダリアが、右側にフォルミスが並んで立っている。だが、ダリアは目の前にいる。二人は状況が全く把握できなかった。

「来たんだね。来て、くれたんだね。」

ダリアが執筆を止めて顔を上げた。

「・・・?!」

ルティが声にならない悲鳴を上げて、両手で口を覆った。ダリアの悲しそうなその顔から、瞳が一つ無くなっていた。右の瞳だった。そこだけ虚ろな空洞になっていた。ダリアはペンを置いて古ぼけた黒革の日記帳を閉じた。彼女はルティの反応を見てうつむいた。

「ルティ。パティー。ごめんね。わたし、生きてる人間じゃないんだ。

 後ろのあれが、いまのわたしの身体。さっきの地震で、瞳が落ちちゃった。

 時計を壊した、罰が当たったみたい。ごめんね。こんなことになるなんて・・・。」

うつむいたまま、ダリアは続ける。

「少しだけ、少しだけ一緒にいられたら、それでよかったんだ。

 でも、途中からお別れするのが怖くなって。」

ダリアは黒革の日記帳と、白い小箱を手に取ると椅子から立ち上がった。そのままルティの方へと真っ直ぐに歩く。ルティは片方の空虚な穴に目を奪われたまま、呼吸も忘れてしまうほどに心も身体も硬直していた。

「ルティ。」

ダリアの声に、ようやく我に返る。エメラルドのような美しい瞳と、輝きを失った黒い視線が自分を見つめていた。心臓がいきなり握りしめられたかのように、驚いて鼓動を強く打った。口元を覆った手を下ろす。ダリアは空洞になってしまった方の目を閉じた。

「ごめんね。こうしてればよかったね。」

ダリアは悲しそうに笑った。その笑顔は、とてもあたたかだった。

「ルティ。ごめんね。わたし、ルティに一つだけ嘘ついちゃったんだ。

 わたしね、ともだち、いなかったんだ。嘘吐いて、ごめんね。

 いつもいつも、楽しそうな子たちを遠くから、ただ見てるだけで。

 ルティがともだちになってくれて、わたし、すごくうれしかった。

 だけど・・・。もう、ともだちじゃないのかな・・・。

 さよなら、かな・・・。」

ダリアは残った片方の目に涙を湛えていた。その涙は、溢れる瀬戸際のところで留まっていた。ルティの身体の中で自身の心が出口を探し求め始めた。懸命に口をつぐんで瞳に力を込め、それが表へ出ないよう懸命に抑え込む。先に、ダリアの両方の目から宝石のようにきらきらと煌めくしずくがぽろりと、ピアノの優しい音にも似てこぼれ落ちた。

「えへへ。最後に、一個だけ。これ、あげるね。忘れないでくれたら、うれしいな。

 楽しかったよ、ルティ。ありがとう。パティーもね。ありがとう。」

ダリアはきれいに泣きながら、古びた黒革の日記帳と白い小箱をルティに差し出した。涙は拭おうともしなかった。細い雨の降る蒼空のような表情だった。ルティは、ダリアの差し出す品を受け取ろうと手を伸ばした。しなやかな指先がしっとりとした黒革に触れた瞬間、ルティはふと顔を上げた。ダリアのきれいな泣き顔がそこにあった。そこに、確かにダリアはいた。咽ぶような呼吸の音、紅潮したほお、エメラルドの瞳、白金色の髪、わずかな淡い香り。ダリアの全てを、いま、自分は受け止めていた。ダリアは確かに自分の目の前に存在していた。夢ではない。幻想でもない。ましてや幻覚でもない。ダリアは確かに、ここにいた。

 身体の中を駆け巡る衝動は、もうどうにも止まらなかった。必死に蓋をした出口を激しく叩き、ついに勢いに任せて突き破り、外に出てきてしまった。感情の貯水量が臨界点を超えてしまえば、あとはもう流れ出すしかなかった。ルティは蒼穹のような瞳から、まるで雨を降らせるように涙を溢れさせた。飛び出した感情の勢いそのままに、ダリアの細い身体を思い切り抱き締めた。涙は次から次へと溢れて止まらない。喉の奥にも言葉が沸き上がってくる。一度ルティはダリアを離して、しっかりと相手の顔を見て言った。

「ダリア。わたしは絶対にともだちを裏切ったり、見捨てたりしないよ。

 わたしは、ダリアのこと、ともだちだと思ってるよ?

 ダリアは、わたしのこと、どう思う?」

声が震える。引っくり返る。上手にお話しできない。涙がいじわるする。もっと、ちゃんと話したいのに。もっと、しっかり伝えたいのに。いまは、これがせいいっぱい。

「ともだち、だったら、いいなって、そう、思うよ・・・!」

ルティは泣きながら、懸命に、きれいに笑った。

「だったら・・・ともだち、だね・・・!」

「・・・ルティ!」

二人はもう一度、強く抱き締めあった。互いの温度、感触、香り、鼓動、息遣い、涙までもが、全てが感じられた。ダリアは大声を上げて泣いた。泣いて、泣いて、また、泣いて、泣いても、泣いても、涙は際限なく溢れてくる。ダリアのほおを伝い落ちたその数の分だけ、ルティはダリアの孤独を知った。そしてその流れ落ちた涙の分だけ、ダリアの中に満ちていた孤独は枯れていった。

 不思議な気分だった。涙が落ちるのはいつだって悲しいとき、寂しいとき、苦しいときだった。いまは悲しくも、寂しくも、苦しくもない。胸に満ちるのは、それらとは真逆のあたたかい気持ちだというのに、もっともっと涙が出てくる。

「やっと、やっとわたしを、見つけてくれた・・・。」

ダリアが囁くように言った。

「ダリア、だったの? あの通路に助けてって、見つけてって書いたの。」

「うん。わたし。」

二人はお互いを離すと、泣き腫らした瞳で見つめあった。

「ありがとう。」

ダリアが涙を流しながら、きれいに微笑んだ。ルティは、こんなにきれいな表情を見たことがなかった。ルティはダリアの頭を撫でてやった。

「ねぇ、ルティ。わがまま、聞いてもらってもいいかな?」

「なあに?」

ダリアは少しだけ、後ろに下がった。

「わたし、この博物館からは出られないから、また、会いに来てほしいな。」

ルティは微笑んだ。

「うん。必ず会いに来る。約束するよ。ずっと、ずっと、ともだちだよ。」

「ルティ、約束だよ。ずっと、ずっと、ともだちでいてね。」

「うん。約束する。わたしは、ともだちを裏切らないんだ。」

二人は微笑みあった。





→第9幕へ続く

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