三つの宝石 前半
Dahlia
第2幕 三つの宝石 前半
ルティとダリアは二人で足並みを揃えて、静かな音楽の流れる真っ白な壁の館内を歩き回っていた。ダリアは本当によく笑う少女だった。話しながら一緒に歩いているだけで、不思議とルティは楽しい気分になった。こんなに楽しいのはずいぶんと久しぶりだった。歩いているとルティは真っ白の壁に、奇妙なものを見つけた。丸い灰色の壁に、人の顔が浮かび上がったような不気味な作品だった。その壁はとても大きく、大人の身長くらいはある。丸い壁の真ん中にある人の顔は年老いた男のようで、ひげもかたどられている。目と口の部分は穴が開いているのか、そこだけが真っ暗になっていた。ルティは興味を惹かれて、その不気味な顔の壁の前まで歩いていった。ダリアも、ルティに続いた。
ルティはダリアと並んでその作品を見た。ダリアは驚嘆の声を漏らしながら、顔の中央に出っ張った鼻を下から覗き込んでいる。作品の近くにはボードが立っており、そこには説明書きの紙が貼ってある。ルティは鞄からノートとペンを取り出すと、ダリアの次のページに説明書きを写し始めた。
― ボッカ・デラ・ベリタ(真実の口) ―
― 元々は下水溝のマンホールの蓋であった ー
― 顔は海神トリトンがモデルとなっている ―
― 心に虚偽のあるものが口に手を入れると噛み切られるといわれている ―
― ご自由にお試しください なお 当館は一切の責任を負いません ―
― なお こちらは複製品(レプリカ)です ―
― 本物はローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会に飾られている ―
ルティはスラスラとノートにペンを走らせる。ペン先が紙をこする乾いた音がかすかに響いた。
「あはは、鼻の穴までしっかりしてるんだね。」
ダリアはしゃがみ込んで更にじっくりと見ていた。ルティはふと書くことをやめて辺りを見回した。周囲には誰もいなかった。書く音が途絶えたのを受けて、ダリアがしゃがみながらルティを見上げた。
「書けた?」
「ううん。あと少し。」
「そっか。」
ダリアも灰色の壁を見るのをやめて立ち上がり、ルティの隣まで来ると説明書きを読み始めた。二人はしばらく並んで説明書きの前に立っていた。ダリアは少しだけ眉をひそめて説明書きのある一文をじっと見つめていた。
「なんだか、物騒な説明だね。ここ。」
ダリアは説明の一節を指さした。
― 心に虚偽のあるものが口に手を入れると噛み切られるといわれている ―
― ご自由にお試しください なお 当館は一切の責任を負いません ―
ルティはちょうど書き終えてペンとノートを仕舞いながら、ダリアの指さした文をもう一度読んでみた。改めて読んでみると、確かに引っかかる。
「ほんとだね。責任を負いませんって、本当に噛み切られたりするのかな?」
探偵のようにあごを手で撫でながら、ルティはぼんやりとその記述を眺めた。ダリアは壁の前まで行くと、顔の口をじっと見つめる。吸い込まれてしまいそうな暗い穴がぽっかりと、文字通り口を開けていた。
ルティは目を疑った。ダリアが口の部分に手を突っ込んだ。
「ダリア! だめ!」
飛びつくようにして暗い穴の中に挿し込まれたダリアの腕を掴むと、それ以上に彼女が入れないよう、制止した。
「あ、うあああ!」
その瞬間に、ダリアが端正な顔を歪ませて悶え始めた。それを受けて、ルティの精神は一気に恐慌を来たした。必死にダリアの腕を口から引き抜こうとするが、何かで固定されているかのようにびくともしなかった。ルティはどうしていいかわからなくなり、ダリアの腕から手を離した。そして、とにかく助けを呼ぼうと考えた。そう考えたとき、苦悶の表情を浮かべていたダリアがルティの方を見て、今までのことが嘘だったかのようににっこりと笑った。そしてあっけなく口の中から腕をするりと引き抜いた。ダリアの手は食いちぎられてはいなかった。それを見てルティは呆然とした。そして、ダリアの演技に一杯食わされたことを悟ると、安堵の溜息を吐き、力んでいた肩の力を抜いてうなだれた。ダリアは口に突っ込んでいた方の手をひらひらと振り、愉快そうに笑っていた。
「えへへ、ひっかかったね。」
ダリアが言った。
「もう、やめてよ。心臓が飛び出るかと思った。」
ルティは胸を撫で下ろしながら応えた。
「ごめんごめん。」
言いながら、ダリアはルティの肩をトントンと二回叩いた。ルティは周囲に誰もいないか、今一度、確認した。かなり騒いでしまったので、周りに迷惑をかけていないか、それが気になった。幸い、近くに人はいないようだった。
静かな音楽だけが流れていたが、遠くから何やら別の音が響いてきた。それは靴底が固い地面を蹴る音だった。通路にまだ人影は見えないが、こちらに近付いてきているようだった。その音にルティはドキリとした。ダリアに視線を移すと、彼女も気まずそうに頭を掻いて舌を出していた。ダリアはルティの視線に気付くと、ちらと横目で彼女を見た。
「逃げよっか。」
ルティはうなずいた。
「そうしよう。」
二人はまた並んで一目散にその場から走り去った。小さな二つの足音が館内に響いた。走りながら、ルティは両親の言いつけを思い出していた。その思いが、わずかにルティの脚を引っ張った。少しずつ、息も切れていないのに走る速度が落ちていった。ぐんぐんダリアとの距離が開いていく。ダリアはそのことに気付くと、驚いた様子でルティを振り返った。まだ先ほどの場所からそれほど離れていなかった。ダリアは、もうほとんど歩いてしまいそうなルティの元まで戻って来た。そしてルティの手を掴んで、また走り始めた。
「ルティ、はやく!」
ダリアに手を引かれて、ルティもようやく走り出した。少しの恐怖心と、軽快な楽しさを胸に満たして走り抜けていく。こうして手を引かれて走るのは、なぜだかとても楽しかった。肩にかけた鞄が足の着地に合わせて跳ねる。前を向けば、ダリアは美しい白金色の長い髪を揺らしながら、自分の手をしっかりと握っている。ルティはどうしようもなく胸が躍った。楽しくて楽しくて、思わず笑った。ダリアが振り返った。ダリアは笑っているルティを見ると、同じように笑った。彼女も楽しいようだった。
→後半へ続く
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