エメラルドの瞳 後半


Dahlia

第1幕 エメラルドの瞳

後半





 ルティはぬいぐるみが大好きだった。彼女のベッドには、所狭しとぬいぐるみが置かれている。くじら、うさぎ、ねこ、いぬ、イルカなど、いろんな動物のぬいぐるみがある。彼女はそれら一つ一つに名前を付けて大切にしていた。一番のお気に入りは、誕生日に買ってもらった大きなウミガメのぬいぐるみだ。眠るときはいつも、大好きなぬいぐるみたちに囲まれて寝る。いやなことがあっても、風邪を引いて寝込んだときも、ぬいぐるみを抱き締めるだけで幸せな気分になれた。ルティにとってぬいぐるみは特別だった。博物館に展示されている人形とはどんなものなのであろうか。彼女はそればかりを夢想しながら、それでも静かにお行儀よく廊下を歩いていった。周りにいた大人たちは、年端もいかぬ少女がただ一人で真っ直ぐ歩いていくので怪訝な視線をルティに向けていたが、彼女はそれに気付いていなかった。ルティは目的の展示室の前まで来ると部屋の上の札を確認した。ここで間違いないようだった。ルティは鞄の中にパンフレットを仕舞うと、軽快にその一歩を踏み出した。

 部屋の中に入ってその光景を見た瞬間に、ルティは気落ちした。そこに展示されていたのは、自分の思い描いていたふわふわのぬいぐるみではなく、陶器のように滑らかな、まさしく人形たちだった。フランス人形を初め、世界各国の様々な人形が、壁際のガラスケースの中に閉じ込められていた。少々不気味だった。その部屋に入ったとたん、吸い込む空気がどことなく変わったような気もする。部屋の中央にまで進むと、部屋中の人形たちが自分を見据えているような錯覚に陥り、次第に恐怖が芽生えてきた。ルティはもう、部屋を出ようと思った。その時だった。耳元でまた、あの少女の声がした。

「バア!」

「きゃあ!」

ルティは思わず悲鳴を上げてしまった。

「あはははは!」

エメラルドのような瞳をした少女はルティの反応を見て笑った。ルティは最初こそ心を恐怖に支配されてすくんでしまっていたが、相手があの少女だとわかるとキッと目を怒らせて、愉快そうに笑う相手をにらんだ。

「ああ、おっかしい。」

少女はようやく笑いがおさまったようで、ルティに向き直った。

「なんなのよ、さっきから。」

「あなた、一人で来たの?」

白金色の長い髪を指ですきながら、少女は訊ねた。ルティは首を横に振った。

「いいえ、パパとママも一緒。」

「ふうん。いいなあ。」

相手はルティから視線を外した。心なしか薄紅色のくちびるを尖らせている。どこを見るでもなく瞳をルティからただ背けていた。ルティは彼女の振舞いと言葉に、なにやら複雑な響きを感じた。緑の瞳をした少女は腕を組むと、視線をルティに戻した。

「ここに来るのは、初めて?」

ルティは少しずつ平静を取り戻してきていた。比較的やわらかな声色で答える。

「うん。初めて。あなたは?」

相手は腕組みをやめて、両腕をうしろに回すとにっこりと笑った。

「わたしはここをよく知ってるよ。案内してあげようか?」

「あ、えっと・・・。」

ルティは答えを渋った。彼女はこういった場所に来ると必ずノートを取り、一つ一つ時間をかけてじっくりと見る。だから誰かと一緒に見て回ると、必ず相手を待たせることになる。そのことが心配だった。スカートのすそを無意識に指先でつまむ。うなりながら、先ほどの少女のようにどこを見るでもなく視線を空間に泳がせた。そんなルティを見ても相手は変わらず、にこにこしていた。

「なあに? どうしたの?」

少女は首をかしげた。

「その。わたし、見るのにすごく時間がかかるの。それでも、いい?」

「いいよ。」

相手はまた笑った。ルティは彼女を見て、よく笑う子だなと思った。

「わたし、ルティ・ベクアールっていうの。あなたは?」

「ダリア。ダリア・プペアンビスキュイ。えへへ、おかしな名前でしょ。」

ダリアはおどけて笑った。

「そんなことないよ。でもちょっと待って。」

ルティは鞄の中からノートとペンを取り出した。ノートを広げると、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの次のページにペン先を擦りつけようとした。だが、ふとルティの手は止まった。一呼吸置いてDahliaと彼女の名前を真っ白なページに書いた。

「ごめん。えっと、プ・・・プ・・・?」

彼女はその先を言えなかった。首をかしげながらルティはダリアに視線を送る。その様子に不思議そうな顔をしていたダリアは、また声を上げて笑った。

「プペアンビスキュイだよ。Poupee en biscuitって書くの。」

慣れ親しまない言語の綴りにルティは苦戦しているようだった。何度も手を止めてスペルをダリアに訊いた。その都度、ダリアは明るく答えた。不思議なことに、ダリアの名前は上と下で、違う言語だった。だがそれはルティには特に気にならないことだった。ようやくダリアのフルネームをノートに書き終えると、ルティはノートに書かれた彼女の名前をもう一度眺めた。

「これでもう忘れないね。」

ダリアは嬉しそうに言った。

「うん。大丈夫。」

ルティはそう応えると、ノートとペンを鞄の中に仕舞った。

「かわいい鞄とノートだね。」

ダリアはルティの持ち物を見つめて言った。自分のお気に入りを誉めてもらえて、ルティは素直に喜んだ。ようやくルティはダリアに笑顔を向けた。

「ありがとう。」

「あはは、やっと笑った!」

相変わらず、ダリアはにこにこしている。ルティはこんなによく笑顔を見せる人を見たことがなかった。その笑顔は無垢で、純粋だった。混じりっ気のない、透き通った水のような笑顔だった。その笑顔にルティもつられて笑う。

「あ、そうだ。」

ルティは鞄を開けて中を探った。小袋を見つけ出すと、その中から両端がねじられて封をされたキャンディの包みを取り出す。包みは赤と黄色と緑の三種類あった。ルティはそれを手のひらに一つずつ乗せるとダリアの方へ差し出した。

「赤がいちご、黄色がレモン、緑が青りんご。どれがいい?」

「緑!」

ダリアはルティの手のひらから緑色の包みを取った。ルティは残りのキャンディを元通りに、小袋の中に入れた。ダリアは緑色の包みをつまんで嬉しそうに見ている。

「えへへ。わたしの瞳と同じ色。ありがと、ルティ。」

ダリアはキャンディを大事そうに服のポケットに仕舞った。それからダリアは室内をぐるりと見回した。ガラスケースの中で、人形たちが一様にこちらを見据えている。ダリアはうなりながら一番近くにあった人形のもとへと歩いて行った。東洋の小さな人形が飾ってあった。ダリアはお辞儀をするようにして上半身を折り、ガラスケースの中の人形を覗き込んだ。ルティもダリアの隣まで行って、同じようにして人形を見てみた。人形の目はやたらと細く、ただの線のように見える。あまり可愛いとは思えなかった。

「これ、かわいいと思う?」

ダリアが緑色の瞳をルティに向けて訊いた。

「あんまり。」

ルティは人形を見つめながら答えた。ダリアは身体を起こした。その瞳は人形を見ていた。ルティも姿勢を元に戻すとダリアに向き直った。

「ここ、ちょっとだけ怖いのよね。ほかのものを見に行きたいのだけど、いいかな?」

「いいよ、行こう。」

元気いっぱいでダリアは応える。エメラルドのような、透明な緑色の瞳がキラキラと煌めいた。二人は仲良く並んで人形が展示されている部屋から出て行った。



→ 第2幕へつづく

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