エメラルドの瞳 前半

Dahlia

第1幕 エメラルドの瞳


前半




 よく晴れていた。夏の空には燦々と太陽が輝いていた。町は観光客でにぎわい、ツアーで各地を巡るバスも多く走っていた。世間は長い夏季休暇に突入しており、親子連れもよく見られた。その中に、ルティ親子も溶け込んでいた。ルティとその父母は各国の博物館を巡るツアーに参加していた。長いバス移動に辟易としていたルティは、肩からかわいらしい鞄の革紐をたすき掛けにして下げると、いち早くバスからコンクリートの地面に降り立った。思い切り伸びをした。博物館の駐車場は広かったが、その広さを感じさせないほどに観光客の車がひしめきあっていた。ルティは伸びをし終えると、目を細めて太陽を見上げた。夏のまばゆい陽射しを受けて彼女の着ている真っ白なシャツは輝き、朱色のスカートが風に揺れる。その隣を、次々に他のツアー客たちが通り過ぎていった。ルティはスカートのポケットから紅いリボンを取り出すと、風になびく濃い金色の髪を後ろでくくった。気温が非常に高かった。コンクリートからの熱が陽炎となって揺らめく駐車場で、ツアー客たちはガイドから諸注意を受けると、それぞれ散って博物館へと歩き出した。ルティも父母に手を引かれて博物館へと歩いて行った。

「ルティ、お父さんたちと一緒に

 見て回るか? どうしたい?」

父親がルティの手を引きながら言った。ルティはすぐに答えた。

「一人でお勉強する。パパとママは

 すぐ次に行っちゃうんだもん。」

父と母は苦笑していた。今度は母親が言った。

「わかったわ。ルティ、

 パパとママの言いつけは覚えてる?」

ルティは父親の手を握っていた右手を離すと、指を折りながら言いつけを並べ始めた。

「知らない人について行かない。

 迷子になったらお店の人に言う。

 走らない。騒がない。

 置いてあるものには触らない。」

父母は『よしよし。』と言って満足そうに笑った。父親は彼女の頭を優しくポンポンと手で叩いてやった。ルティは母親とも手を離して、肩から下げた小さな鞄の中を探り始めた。ノート、ペン、少しばかりのお金とキャンディの入った小袋。いつも持ち歩いているものは全てあった。スカートのポケットには白いハンカチが入っている。冒険の準備は整っていた。そんなルティの様子を見た両親は、嬉しそうに微笑んでいた。

 博物館までは少々歩かなければならなかった。比較的大きな白い建物だった。敷地内に入ると、清浄な音を奏でる噴水が出迎えてくれた。あちこちに植えられた木々が緑色の手を蒼い空にめいっぱい広げては、葉のこすれる音を鳴らしている。ルティと両親は受付を済ませると博物館の中に入っていった。

 博物館の中は冷房がよく効いていて涼しかった。ルティはほっと息を吐いた。気持ちを落ち着かせるような、ゆったりとした音楽がかすかに流れている。

「ルティ、チケットとパンフレットは

 失くしたらだめだぞ。」

父親が言った。ルティはうなずいてチケットを大切そうに鞄の中に仕舞った。

「それじゃあルティ、六時までには

 ここの受付のところにいるんだよ。」

両親はルティを置いて人ごみに紛れ、どこかへ消えてしまった。ルティは別段、恐怖も寂しさも心細さも感じなかった。落ち着いた様子で右に進み、壁際まで歩いて行くと、パンフレットを開いた。建物の案内を見てみると、実に多種多様な展示物がある。美術品はもちろん、古書などが展示されている図書館、化石を専門に展示している特別展示室など、とても一日では回れなさそうだった。さらには舞台演劇や映画の世界観をそのまま内装に用いたという凝った別館まである。いまいるのは広いロビーだった。入り口の正面はガラス張りになっていて、芝生の絨毯が青々とまぶしい中庭がよく見えた。そこには木のテーブルと椅子、そして日除けのパラソルがあって、歩き疲れた大人たちが食事をしたり、コーヒーを飲んだりしていた。自分の目の前を次から次に、ツアー客たちが通り過ぎていく。人の波が入っていく通路の先には、古い絵の回廊があるとパンフレットには書いてあった。人の往来が激しいので、落ち着いて考えたりノートを取ったりはできないだろうとルティは思い、パンフレットを鞄に押し込むと、とりあえず、人の流れに逆らわずにそのまま進むことにした。

 少し奥へ進むと人はまばらになった。黄色いあたたかな照明が、古い絵画たちをぼんやりと浮かび上がらせていた。ルティは絵画の一つ一つをよく見て、その下に書いてある解説にもよく目を通した。

「あ。」

ルティはある絵の前に立ったとき、小さな声を漏らした。金色の額縁の中で木漏れ日が揺れていた。その中で、たくさんの人たちが手を取り合って踊っている。その絵は、彼女の通う学学校の廊下にも飾ってあった。ルティは自分の知っている絵画を発見してひそかに喜んでいた。【ムーラン・ド・ラ・ギャレット】という題名だった。ルティは鞄からノートとペンを取り出すと、その絵の下に書かれた解説を、丁寧に書き写していった。


― ムーラン・ド・ラ・ギャレット ―

― 一八七六年 ピエール=オーギュスト・ルノワール 作 ―――

― 絵に描かれている人物は作者の友人たちである ―

― なお こちらは複製画(ジグレー)です ―


 ルティには複製画(ジグレー)がどういうものなのか、わからなかった。それがまた、ルティにとっては嬉しいことであった。そうやって知らないこと、わからないことをノートに書き留めておき、それを両親なり先生なりに教えてもらうことが大好きだったのである。ルティは書き終えてペンを鞄に仕舞った。それからノートを眺める。自分の書いた文字を読み終えると、ノートを閉じて元の通りに鞄に仕舞った。視線を上げて絵画をもう一度よく見る。動いているようなのに、そこにいる人たちは止まったままだった。ルティはしばらくその絵を見つめていた。こうして見る場所が変われば、不思議と見え方も変わってくる。不思議な気分だった。ルティは絵画から視線を外すと、反対の壁に飾られた絵も見ながら、ゆっくりと奥へ進んで行った。他は見たことのない絵ばかりだった。取り立てて、気に入る絵はなかった。それでもルティは一つ一つ、丁寧に見ていく。

「バア!」

突然、耳元でおばけがよく口にしている言葉が響いた。それは少女の声だった。ルティは驚いて、ねこのように身体を丸めて声から距離を取った。目を丸くして声のした方を振り返った。そこには白金色の長い髪を揺らした、自分と同じくらいの歳の少女がいた。少女もなぜか驚いたような顔をしていた。エメラルドのように美しい緑色の瞳を見開いてこちらを見ている。その少女は真っ白のシャツワンピースを着て、首元には薄桃色のリボンを着けていた。周囲に他に人はいないようだった。

「もう、びっくりさせないでよ。」

ルティは少々腹を立てて、その少女に向かって言った。

「こういう場所では、しずかにしてないといけないのよ?」

 いつかに、母親に言われたことをそのまま目の前の少女に言った。驚いた表情でルティを見つめていた少女は、今度はなにやら嬉しそうに笑うと、鼻歌を歌いながら軽やかにスキップをして、奥の方へと消えていった。

「走っちゃだめなのに。もう。」

ルティは少女の後姿を見送るとプリプリしながらつぶやいた。

 回廊の最後の絵を見終わると、ルティは鞄からパンフレットを取り出した。人の通行を邪魔しないように、壁際に寄るとパンフレットを開いて視線を落とす。絵の回廊を抜けると、照明は元の白さに戻り、明るくなった。ここから先は展示室がたくさんあるようだった。古い絵や彫刻だけではなく、近年の作品も展示されていると記述がある。ルティはパンフレットの地図を眺めていた。その中に人形という文字を発見した。この博物館は人形の展示も行っているようだ。ルティはその人形が展示されている場所から、いま自分がいる場所へ視線を移動させた。少しばかり歩かなければならなかった。ルティはパンフレットを片手に持ったまま、迷うことなく歩いて行った。




 →後半へ続く

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