背籠め

 町へ行った父が、新しく着物を買って帰ってきた。新しく、といっても仕立てたばかりの新品ではない。町の誰かが着古したお古にすぎなかったが、山奥の貧しい村の人間にとって、麻でなく、木綿の、それも様々な色で染めつけた着物はなかなかの贅沢品だった。父は、今年八歳になる一人娘に甘かった。

 もちろん、スイは両手を上げて喜んだ。散々はしゃいで父にじゃれついた後、着物を広げて点検する母の脇に座り、うっとりと着物に見入った。

「父(とと)さまはほんとにスイに甘いねえ」

 ごらん、生地も痛みが少ないよ、と母が笑いながら言った。半ば呆れるような口ぶりだったが、そう言う母も、娘の溺愛ぶりは父に負けるとも劣らず、なにかと心配しすぎるところがあった。

 スイはしげしげと着物を見つめた。もとは紅色だったのか、地色はちょっとぼけた桃色で、それはそれで味わいのある色味になっている。そこにさまざまな色で染めつけた四季折々の草花がにぎやかに散らされており、華やかな、幼い娘が着るのにぴったりな着物だった。大人の寸法に仕立てられているのが不思議なほどだった。

「あんたには大きすぎるから、いったん解いて仕立て直さなきゃならないね」

 母の言葉に、スイはふっと我に返った。

「……母(かか)さま」

「ん?」

「背守りも縫うの?」

 母の手が止まった。母は怪訝そうに顔を上げ、少々探るような目つきをした。

「そのつもりだけど……どうかしたのかい」

「ううん……」

 頭を振り、そのままごまかして終わらせようかとも思ったが、母は辛抱強く待っていた。スイは、昼間のことをぽつぽつと話した。


 その日は村の傍の河原で遊んだ。よく晴れていて、夏の日差しがあたり一面に降り注ぎ、河原の石の白さが目に痛いほどだった。山の川のほとりといっても、しばらく走り回るとみんな汗びっしょりになった。男の子たちは迷わず着物を脱ぎ棄てて素っ裸になると、水しぶきを高々と上げて川に飛び込んでいった。女の子でも、着物を着たまま飛び込む男勝りな子がいたが、たいていは着物の裾を上げて水打ち際を歩いたり、顔を洗ったりする程度だった。

 スイも飛びこまない側だった。泳げないのだ。キンと冷たい水の中を自在に泳ぎ回れたらどんな心地なんだろうと思いながら、はしゃぎ声を上げる男の子たちをぼんやりと眺めていた。

「ねえ、この着物ってだれの?」

 岸辺に脱ぎ捨てられた着物の一つを拾い上げ、女の子の一人が声を上げた。

「知らない」

「タロクじゃないの」

「どうかした?」

 寄ってきた友達たちに、女の子は着物の背がよく見えるよう掲げて見せた。

「見て。ここ、背守りがほとんど取れかかってる」

 あ、ほんとだ、という声がいくつも重なる中、そちらに顔を向けたスイも「あ」と小さく声をもらした。

「おおいタロク、あんたの背守り、取れちゃいそうだよ」

 着物を掲げたまま川に向かって叫ぶ女の子は、スイに背を向けていて、ちょうどスイには着物の背の裏側がよく見えた。そこには、表に縫い付けた背守りの糸がぽつぽつと見えるが、内側自体には背守りも見当たらなかった。

 女の子たちは、着物の内側など気にも留めず、表の取れかかった背守りのことばかり騒ぎ立てていた。スイは立ち上がり、その着物をのぞきに行くようなふりをして、あたりに散らかっている着物を素早く見て回った。脱ぎ捨てられ方によって確認できないものもあったが、見える限りでは、背の内側に背守りのついているものは一つもなかった。

 スイは心の内でこっそりと驚いた。着物の背の内側など普段見えるところではないから、今まで全く気付かずにいたが、自分以外の村の子どもたちは内側に背守りをつけないのが普通らしかったのだ。

 着物に群がる輪の一番端に突っ立って、スイはそっと自分の着物の背守りに触れた。表のざっくりした背守り、その裏側、今も背中をこすってこそばゆい、丹念に縫いこまれた内側の背守りを、はじめて強く意識した。


 スイが話し終えても、母は黙ったままだった。両手を膝の上に置いて、宙を見つめたまま動かない。

「……母さま?」

 不安げにスイが声をかけると、ようやく母は視線をあげ、スイに小さな声で尋ねた。

「そのこと……内側の背守りのこと、誰かに話したかい」

「ううん。変なのって言われるの、嫌だったから、しゃべってない」

 スイが首を横に振るのを見て、母はあからさまにほっとした表情になった。

「母さま、どうしてわたしだけ、内側も背守りがあるの? どうしてみんなはないの?」

 スイが問うと、母はちらりと父のいる寝間の方へ目をやった。それからスイを手招きして膝に乗せると、ひそひそ声で話した。

「スイ、背守りが何か、知っているかい」

「お守りでしょう?」

「そうだよ」

 ぎゅっとスイを抱きしめ、母はうなずいた。母の頬がスイの頬に触れ、心地よい母の香りがふわっと鼻をさすった。

「背中というのはね、とても危うい部分なんだ。人間には背中に目がないだろう? だから、危険なことがあっても、気づくことができないんだ」

 そう言うと、母はスイから身を離した。そして、スイが振り返るよりはやく、いきなりスイの背中をくすぐり始めた。スイはびっくりしたのと、こそばゆいのとで、危うく叫び声を上げてしまうところだった。

「こんなふうに、背中は無防備なんだよ。特に、お前たち子どもは、走り回ることばかりに夢中になって、後ろなんて振り返らないだろう。後ろはどうせでも危険だらけだっていうのに」

 だからね、と、母は優しい手つきでスイの背の一点を押さえた。襟から指三本ほど下、ちょうど背骨の上にある、糸で縫いつけた背守り。

「背守りが必要なんだよ。我が子を危険から守ってくれますように、無事に健やかに育ちますようにって、おまじないをしながら、親は背守りをしっかりと縫い付けるんだよ」

「……内側の背守りも?」

「そうさ。表に一つ、裏にも一つ。二つあれば、うんとよく効きそうだろう? 確かに、よそではしていないかもしれないけどね。お前には何があっても元気に育ってほしいんだよ。大事な大事な、一人っきりの、うちの娘だからね」

 そう言って、母は再びスイを抱きしめた。そうやって母に抱かれるのは心地が良かった。父もよく膝にのせてくれるが、母の柔らかな膝に座り、こうやって優しくくるまれるのが、スイは一等好きだった。

「スイ、内側の背守りのことは、誰にも言っちゃいけないよ。母さまとスイ、二人っきりの秘密だ」

 スイは目を丸くして母を見上げた。

「父さまにも?」

「そう、父さまにもだ。そんなことをしていると聞いたら、また心配しすぎるって小言を言われるだろう?」

 父は娘に甘いが楽天家で、子どもは失敗を繰り返して育つもの、多少の無茶をするくらいがちょうどよいと考える人だった。母の心配性とは正反対だった。

「ね、だから、内緒にしておくれ」

 母に目配せされて、スイは一生懸命真面目な顔でうなずいた。

 力をこめないと、頬が緩んでしまいそうだった。父へのちょっとした後ろめたさと相まって、母と二人だけの秘密をもつということが、なんだか楽しくてたまらなかった。


 それからひと月もたつと、スイの新しい着物が仕上がった。母が柄の位置まで考えて丁寧に仕立ててくれたため、まったくスイが見惚れる出来栄えだった。

 本当は祭りや正月など特別な日のための衣装と決められたのだが、あまりにスイが駄々をこねたので、完成した日の翌日だけ、普段着として着せてもらうことになった。クチナシで染めた濃い黄の、やわらかくてたっぷりした幅の帯を締め、スイはご機嫌で遊びに行った。

 村の子どもたちは皆、スイの期待通り口々に着物を褒めてくれた。「お人形さんみたい」と言ってくれる子もいた。

 スイは普段おとなしい子で、子どもたちの間でもそうそう目立つことはなかった。人の輪の中心で注目を浴びることが、こんなに気持ちの良いことなのかと噛みしめる時間は、しかし、思ったほど長くは続かなかった。

「なんだよ。スイも新しいの着てきたのか」

 遅れてやって来たタロクが大きな地声でぼやき、頭を掻きながら輪に入ってきた。

「タロクも新しい着物だ」

「あ、背守りがない!」

 わっと、子どもたちがタロクに群がった。タロクは、いいだろう、と浅黒い顔に得意げな笑みを浮かべ、大きく胸を張った。

「こないだ、背守りが取れかけてただろ。ちょうど丈も短くなってたから、新しく作り直したんだ」

「大人とおんなじ仕立てだ」

「背守りなくて平気なの?」

「あったりめえだ」

 問うてきた幼い子に鼻を鳴らして答え、タロクは年上ぶった態度でその子の顔を覗き込んだ。

「お前、背守りがどうして子どもにだけつけられるか、知ってるか?」

「知らない」

「お守りでしょう。悪いものが近寄りませんようにって」

 横から口をはさんだ子に、そうだ、と指を突きつけ、タロクは詳しく説明した。

「背中にはな、目がないだろ。だから、背中ってのは魔物が入ってきやすい、弱いところなんだ」

 それくらいなら自分も知っている、と思いながら、スイはちょっと拗ねた顔で、あっさりみんなの目を奪っていったタロクを睨んだ。

「大人の背中ってのは、真ん中に縫い目があるだろ。布と布を縫い合わせた。その縫い目が、大人を魔物から守ってくれるんだ。でもガキの着物には縫い目がない。着物が小さいから、縫い合わせないんだ。だから背守りがいる」

 タロクはいったん言葉を切り、目を丸くして聞き入る年少の子どもたちをぐるりと見回した。

「背守りが見張ってるんだ。悪い魔物が入ってこないよう、着物の上でじーっとな」

 そこでにやりと意地の悪い笑みを浮かべ、タロクは続けた。

「だからな、お前ら、夜中にしょんべん行くときはよーく気をつけろよ。寝間着にゃ背守りつけてないやつも多いだろ。……ぼんやりしてると魔物が後ろから寄ってきて、お前らを食っちまうぞ!」

 小さい子らが悲鳴を上げて散り散りに走り出した。

「やめなさいよ、タロク。年下をからかったりして。大人になったのは着物だけじゃないの」

 タロクのいたずらには動じない年頃の女の子たちが白い目で睨んだが、タロクはあっけらかんと笑って気にしなかった。

「からかってなんかないぜ。俺は大真面目に忠告してやっただけだよ」

 それからその笑った顔をスイに向け、タロクは軽い調子で尋ねた。

「お前のはまだ背守りがついてるのか?」

 スイは思わず顔を赤くした。スイの新しい着物には、華やかな布地に負けぬようにと、いつもより凝った背守りが入念に縫い付けられているのだ。

「いいじゃないの。スイはまだ八つなんだから。あんたはもう十二でしょう」

「背が全然違うじゃない」

 口ごもったスイをかばうように、女の子たちが次々とタロクに言い返した。ありがたくはあったが、思い切り子ども扱いされているようで、スイはますますみじめな気分になった。

 ひとしきり言い合って飽きると、子どもたちはさっさと遊びに戻った。スイも背守りの一件は頭の隅に追いやって、皆と遊ぶことに専念した。

 思い返したのは、かくれんぼの最中、繁みの陰で息をひそめ、じっと鬼から隠れているときだった。

 タロクが語った背守りの話は、以前母が話してくれたものよりも少しだけ詳しかった。あの時、母は大まかに危険から身を守るためと言ったが、その危険の中には、今日タロクが語ったような魔物も含まれているのだろう。

 それでも、背守りが見張っている、というタロクの言い方はちょっと意外だった。お守りというのは、身に着けていればご利益がある、くらいにしか考えたことがなかったのだ。

 ふっと、タロクの言葉が耳によみがえった。

――背守りが見張ってるんだ。悪い魔物が入ってこないよう、着物の上でじーっとな――

 スイは無意識のうちに、背中へ手を伸ばした。表裏両方に、しっかりと縫い付けられた背守り。

 表の背守りは、危険を退け魔物を見張る……。

 スイはじっと宙を見つめた。

「スイ見ーつけたっ」

 後ろから鬼の声が降ってきて、スイは素っ頓狂な声を上げた。



 スイが十二の春、着物は二つ身仕立て、大人と同じになった。表の背守りも取れ、見た目には大人たちの仲間入りだったが、裏の背守りは変わらずにひっそりと縫い付けられていた。出来立ての着物の内側に背守りがついていても、スイは何も言わなかった。それが母の愛情の証であり、母を安心させるには黙っているのが一番だとわかっていた。

 ただ一つ、問題があった。長年背守りに直に触れ、擦れ続けていた背中の一点は、すでに皮膚が厚くなっているのだが、ここ最近妙に痒くてしかたなくなっていた。日中、背中に絶えず痒みがあり、スイは半分無意識にかきむしってしまうことが多かった。特につらいのは夜だった。かきむしったところが刺すように痛むのだ。背守りを引き千切ってしまいたい衝動に駆られることも少なくなかった。

「また痛むのかい?」

 夜遅く、うめき声を漏らすまいと顎に力を入れてなんとか寝返りを打ったとき、隣から母が心配そうに声をかけてきた。

「たいしたことないの。ちょっとピリピリするだけ」

 スイはひそめた声でそう答えたが、本当はそんな程度ではなかった。ここ数日はまともに眠れず、明け方にうつらうつらするのがやっとのことも多かった。

 娘の下手な嘘にごまかされるはずがなく、母は表情を曇らせたままじっとスイを見つめた。横になったまま、スイはちょっと肩をすくめた。

 ちらっと母の向こう側に目をやったが、父はぐっすり眠っていた。いびきまでかいており、たとえ蹴られたとしても目を覚ましそうにない。寝つきと寝起きに関しては村の誰よりもいい、というのが父の自慢で、寝ている間はたとえ地震が起ころうともびくともしない。なんともうらやましい性質である。

「さすってやろうか」

 母が言ったが、熱をもった背は、触れられるだけでも呻かずにはいられないだろう。

「ううん、平気。もう眠たくてしょうがないから、すぐに寝つけると思う」

 おやすみと早口に言って、スイは夜具を頭からかぶった。今夜も寝つけそうになかった。だるい体とは正反対に、眠ろう眠ろうと思うたび、頭はどんどん冴えていった。忘れようとしても、絶え間ない背中の痛みがスイを楽にさせてくれない。ぎゅっと目をつぶり、まぶたの裏の闇を睨みつけた。

 眠りたいのに。ゆっくり休みたいのに。

 どれぐらい経ったか、息苦しさに耐え切れなくなって、スイは夜具を跳ねのけた。火照った頬に夜気が心地いい。大胆に襟をはだけると、甘く滑らかな夜気が滑り込み、脈打つ背を冷やしてくれた。すうっと、急に体が楽になった。

 母もすでに寝入っていた。規則的な寝息が聞こえる。

 スイはやっと眠気が来たのを感じた。手足が温かく、体が泥沼にはまったように重たく動かなくなった。視界だけが、ゆらゆらと揺れている。

 父は相変わらず高らかにいびきをかいている。どこかでぼんやりとその音を聞きながら、夜明けも近くなったころ、スイはようやく夢のふちへ落ちて行った。


 明け方、母の起き出す物音でスイはぱっちりと目を覚ました。暗い家の中に白い朝日が漏れ入り、すでに鳥が鳴いている。一日よく晴れそうだった。

「おはよう。眠れたかい?」

 むっくりと起き上がり、おはよう、と母に返しながら、スイは久々のすがすがしさに驚いていた。

「……よく眠ったみたい。なんだか、体がすごく軽いの」

 さっぱりした表情の娘を見て、母も安心したように笑った。

「そりゃよかった」

 二人がごそごそと動き出しても、父は眠ったままだった。少しばかり妙には思った。いつもなら父は真っ先に眠り、真っ先に起き出して、朝餉の前に一仕事こなして戻ってくるものだった。今はいびきこそかいていないものの、深く寝入っているようでぴくりともしない。珍しいこともあるものだと言って、二人は朝餉ができるまでしばらく寝かせておくことにした。

 しかし、二人が朝餉を済ませても、父は一向に起きてくる気配がなかった。さすがにおかしいと思い、なんとか起こそうとしたが、いくらゆすっても、叩いても、耳元で叫んでみても、固く閉じられた父の瞼は微動だにしなかった。

 体温はあった。呼吸も、眠っているとき独特の緩やかさだったがしっかりしている。胸に耳を当てれば心の臓の音も聞こえた。怪我も発疹も、異常は何ひとつなかった。けれど、まるで死人のように動かない。

「母さま、どうしよう」

 怖くなり、半分泣きそうになりながらスイは母の袖をつかんだ。母の顔も血の気がまったくなかった。よくさらした木綿のように白い顔で、呆然と父の寝顔を見つめている。

「……大丈夫。大丈夫だよ」

 母はスイの頭を引き寄せて、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。そのうちきっと目覚めるさ。ちょっとばかり疲れがたまっていたんだろう。存分に寝て満足したら、のんきに起き上がってくるに違いない……。

 しかし、日が暮れても、二日たっても、三日たっても、父は目を覚まさなかった。目に見える変化はほとんどなかった。ただ少し骨ばって、血色が悪くなっていく程度だった。そして、八日たった日の朝、父は文字通り、眠るように死んでしまった。


 周囲には、風邪をこじらせてそのまま死んだと言っておいた。伝染病の類ではないかと疑いの目で見る人もいたが、それはごく一部で、父の亡骸を土の下に埋め終えたころには、みな元通りの生活をしていた。

 元通りにならなかったのはスイの家だけだった。家父を失い、周囲に助けを乞いながら女二人で生きねばならないこと、婿を取るにしても嫁に行くにしても、少々やっかいになってきたことなど、問題は山積みだったが、スイの胸をふさぐのはそういうことではなかった。父が死んだ。それが、うすぼんやりとした寂しさとなってどことなくスイを憂鬱にさせた。

 自分は薄情な娘かもしれない、とも思い始めていた。スイは嘆かなかったのだ。朝起きて、父が冷たくなっているのを見たときはさすがに涙を流したが、それも束の間の、音もなく木々を濡らす霧雨のようなもので、身を裂くような悲しみ方は、最後までしてやれなかった。あれだけかわいがられておきながら。

 別れ方が違っていたらもっと変わったかもしれない、緩やかに死が迫って来たから、あらかじめ心の準備をしてしまっていたせいかもしれない、そんなことを考えながら、ため息の多い日々を過ごしているとき、ふらりと、家の裏にタロクたちが現れた。

「よう」

 今では十六になったタロクが、腕白坊主だったころそのままの笑みを浮かべて歩み寄ってきた。子分をつれているところも変わらなかった。

「なあに、突然」

 純粋にびっくりして、スイは洗濯物を取り込む手を止めてしまった。タロクたちの顔がひどく懐かしく感じられた。父が目覚めなくなってからおよそ半年、スイは子どもと遊ばなくなっていた。母の手伝いで忙しく、それどころではなかったのだ。もっとも、十六にもなって、いまだにちょくちょく子どもたちの遊びに首を突っ込んでいるタロクの方が、奇特というものではあったが。

「お前が遊びにも来ないで、辛気くせえ顔でひきこもってるっていうからよ、わざわざ来てやったんだ」

 恩着せがましい口調でタロクが言った。

「ひきこもってなんかないよ。家の仕事が忙しいだけだもの」

「似たようなもんだろ」

 タロクはにやっと笑って、周囲にスイの母がいないのを確かめると、ぐっと顔を近づけてささやいた。

「たまには遊びに来たらどうだ。家で手伝いばっかりで、うんざりしてるだろ。気晴らしがいるんじゃないか」

「無理よ。やることがたくさんあるんだもの、遊びに行く時間なんてないわ」

 思わず身を引いてスイは答えた。

「無理かどうかじゃねえよ。お前が行きたいか、行きたくないかだ」

「そりゃあ、行けるなら、行きたいけど……」

 言いながら、スイはうつむいてしまった。それが本心なのだと気付いて、でもやっぱり無理だとしか思えなかった。

「日中は、確かに無理かもな。でも」

 タロクの目がきらっと光った。

「夜なら?」

「夜?」

 スイが目を丸くすると、タロクの脇にいた二人が口々に説明した。

「今晩、みんなで肝試しをすることになったんだ」

「川向こうの山ってあまり行くことないだろ? 夜中に川に集まって、探検するんだ」

「無茶よ。親に見つかったら、大目玉食らうじゃない」

 思わずスイが声を大きくすると、タロクたちはますます不敵な笑みを浮かべた。

「だから肝試しさ。誰にも見つからずに抜け出して、森を歩いて帰って、朝にはいつも通り起きる。親にも誰にもばれなかったやつが勝ちだ」

 タロクはつい先日、隣村へ婿入りが決まったはずだ。最後のやんちゃだとしても、ずいぶん馬鹿げたことをすると最初は呆れて言葉もなかったが、次第に好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。スイだって、もうずっとみんなと遊びたかったのだ。

「……それなら、わたしのほうが有利だよ。うちには母さましかいないもの」

 気づけばそんなことを言っていた。タロクたちがしめたという顔をする。

「お前なんかに俺たちが負けるかよ」

 いいか、月が昇ったら河原に来いよ、と釘を刺して、タロクたちは去って行った。心配性の母に知れればただでは済まないと思いながらも、久々の冒険に、スイはわくわくせずにはいられなかった。


 母を起こさないようそっと抜け出すのは、思いのほか簡単だった。眠れない長い夜を、必死に息を殺してきた成果ともいえた。最近では背中の痛みはほとんどない。かすかな痺れを時折感じる程度だった。

 月は山陰からようやく全身を現したところだった。ふくらみに欠けた下弦の月で、とうに寝静まった家々の屋根をほの白く照らしていた。子どもたちが動き回る気配もなかった。気の短いタロクがまだ待ってくれているか心配しながら、スイは忍び足で急いだ。

 タロクたちはいた。人影は五人だった。昼間にスイのもとへ来た三人の他に、スイと同い年の女の子と、二つ下の男の子がいて、それぞれに立ったり座ったりしたままスイを迎えた。

 それから少し、月が山から離れていくのを六人で眺めていたが、そのうちにタロクが腰を上げて言った。

「そろそろいいだろ。他の奴は、びびってやめるか、親に見つかるかしたんだ。この六人で行くぞ」

 異存はなかった。六人は互いにうなずき合うと、タロクを先頭にして慎重に飛び石の上を移動し、森へと足を踏み入れた。

 夜の森は暗かった。もともとこの森は村人がほとんど手を付けずにきたもので、昼間でもうっそうとして薄暗かったが、夜ともなると闇の濃さは比べ物にならなかった。頼りない月明かりが届くはずもなく、完全な暗闇に限りなく近い。

「真っ暗ね。わたし、ここに来たのも初めてだけど、こんな遅くまで起きているのも初めて。明かりを灯して寝る支度をするときとは、全然違うのね。なんだか、空気が肌を刺すみたいにぴりぴりする」

 誰に言うでもなく、女の子がいつもより少し早口にそんなことを言った。けもの道を探りながら歩く先頭のタロクが、肩越しに振り向くのが見えた。

「なんだよ、怖いのか」

「怖くなんかないわ。勝手なこと言わないでよ」

 女の子は強がって大きな声で答えたが、最後の方は裏返ってしまった。その声に驚いた生き物がいたらしく、右手の繁みがガサガサと音を立てた。一番年少の子がひえっと小さい悲鳴を上げた。女の子の意地もそこまでで、すぐ前を行くスイの手を探り当てると両手で握りしめた。

「スイは怖くないの?」

 握った手が全く震えていないことに驚いたらしく、女の子は小声でスイに話しかけた。話すことで恐怖を紛らせたいだけかもしれない。

「ううん……」

 スイは唸って首をかしげた。自分でも少し驚いていた。正直に言うと、誰にも見つからないよう河原にたどり着くまでの方が、よっぽどどきどきしたのだ。

「最近ね、寝付けなくて、明け方近くまで起きていることが多かったの。だから、あんまり夜が怖くないのかも」

「でも、ここが気味悪くはないの?」

「あんまり。この辺の山は、熊なんかめったにいないし。ここに来たのも初めてじゃないから」

「なんだよそれ。聞いてないぞ」

 タロクが不服そうに口をはさんだ。前を行く少年たちも意外そうに後ろを振り返っている。

「いつ来たんだよ」

「あ、ええと……」

 スイは口ごもった。スイも困惑していた。ここに踏み入るまで、いや、たった今うっかり口走るまで、この森には初めて来たつもりだったのだ。しかし口にしてみると、確かにここに来たことがあるような気がした。したのだが、それがいつのことか思い出せない。

「うんと小さい頃、かな。よく覚えてないけど、一度来たことがあって」

 違う。一度とか、そういうものではなかった。自分はここをよく知っている、という感覚がスイを襲った。スイにとってこの闇はよそよそしく恐ろしいものではなく、むしろ甘くやわらかな、心地よささえ感じるものだった。

「母さまと山菜を採りにきたの。たくさん生えているのが、河原から見えたから……」

 これも違う。いや違わない。合っているけど、合っていない。この違和感はなんだ。

 話すうちに混乱してきて、スイが強く唇を噛んだとき、列が突然つかえた。

「どうしたんだよ」

 タロクの背中に鼻をぶつけた男の子が、ひしゃげた声で抗議した。

 タロクはすぐには答えなかった。振り返りもせずにしばらく立ち尽くし、なあ、とかすれた声で言った。

「なんか」

 聞こえたのはそこまでだった。

 気づいたときにはスイは闇に一人だった。塗りつぶしたような闇だ。光も音も何もない。むっと濃く甘いにおいがむせるほどに立ち込めた。

「タロク?」

 細い声を絞り出してみたが、返事などなかった。自分の耳にさえ届きかねた。

「誰かいないの」

 手を周囲に突き出してみたが何にも触れる感触はなかった。しっかりつないでいたはずの女の子の手もない。おかしかった。二人並ぶだけの幅もない狭いけもの道を進んできたはずなのに、どの方向に歩き回ってもスイの歩みを妨げるものが何一つなかった。

 足が震えた。むちゃくちゃに走り出したい衝動に駆られて足を浮かしかけ、スイは凍りついた。

 誰か見ている。

 誰かわからなかった。一緒に来た子どもたちか、獣か、それ以外か。視線がどこから来ているかもとらえることができない。

 スイは深呼吸して目を閉じた。耳には何も届かなかった。めまいがするほど甘いにおいが肌をなでる。闇が動いている。どこだ――。

 ふっと、耳奥に、いつかのタロクの声がよみがえった。

――背中ってのは魔物が入ってきやすい、弱いところなんだ――

 スイは振り返ろうとしたが、ほんの一瞬遅かった。

 背中におそろしい痛みが走った。今までの比ではなかった。燃え盛る鉄で貫かれたような衝撃に、スイは鋭い悲鳴を上げた。目の前が真っ赤に染まる。

 魔物が、闇が、体から引きずり出そうとしているのがわかった。スイをひっかけて、ぐいぐいと引っ張ってくる。ずるっと後ろにずれる感触があって、一瞬気が遠くなった。スイは必死に身をよじった。歯を食いしばって振り向き、見えない手で――魂の手で、スイを引っ張る魔物の爪をつかんだ。

 雷が落ちたようだった。全身を衝撃が走り、鼻の奥がきな臭くなった。スイの脳裏をすさまじい速さでいくつかの光景が走り抜けていった。息が詰まった。

 闇は悶えるようにして退いた。気づけばスイはもとの獣道で、ぺたんと座り込んでいた。

 あたりに子どもたちが倒れていた。ピクリともしない。タロクだけが違った。しゃがみこみ、何かもごもごと口を動かしていたが、スイに気づくと人とは思えない素早さで森の奥へと消えていった。一瞬合わせた目の奥に、タロクはいなかった。

 スイはただ座り続けるだけだった。今起こったことに、脳裏をかすめた、昔起こったことに、ただただ茫然とするばかりだった。


 母が放心状態のスイを見つけたのは、闇が薄まり、夜明けも近くなったころだった。

「スイ!」

 母の叫び声に、スイはゆっくりと振り返った。母さま、と言おうとして息を吸い、そのまま固まった。

「スイ、どうしてこんなところに来たんだい!」

 倒れた子どもたちには目もくれず、母はまっすぐスイのもとへ走り寄った。スイはごめんなさいと言いたかったが、舌がうまく動かなかった。

 やっと言えたのは、違う言葉だった。

「どうして、ここ……」

 ここにいるとわかったの、と言いかけたが、母が答える方が早かった。

「お前のことくらいわからないわけないだろう。このバカ!」

 眉を逆立てぴしゃりと言った母は、次の瞬間には顔をゆがめ、スイの頭を掻き抱いた。

「ああ、スイ、よかった。よく無事で……」

「違う……」

 スイは細い声で呟いた。違うのだ。腹の底から震えがこみ上げた。

「違うの、母さま、違うの。わたし――わたしは……」

「違うもんかね」

 母がさえぎった。スイを抱く腕に一層力がこもった。

「あんたはスイだ。何があろうとスイだ。この世に一人っきりの、かわいいかわいい、わたしの娘だ……」

 愕然として、全身から力が抜けていくのがわかった。

 母は知っているのだ。

 身を離し、スイの頬を両手で挟むと、母は強い声で言い聞かせた。

「いいかいスイ、あんたは何も知らないんだ。なにも見ていないし、聞いてもいない。あんたは昨日いつも通りに寝て、ずーっと朝まで家で眠っていたんだ。こんなところには一度も来たことがないんだ。いいね?」

 スイはぼんやりと母を見つめ返した。そして弱々しくうなずくと、母に手を引かれるままに足早に家へ戻って行った。


**************************************


「それ以来、体の時間は止まっちゃったの。背も髪も、爪でさえ、これっぽっちも伸びなくなった。すぐに村にはいられなくなっちゃった。ごまかせるわけないものね」

 目の前の少女は、抱えた膝小僧の上に顎をのせ、ごく淡白な調子で語った。椿油の香ばしい香りが漂うあばら家の中、少女の黒々とした瞳ばかりがわずかな明かりにきらめいている。

「それ以来、ずっとここに、一人で……?」

 もう白湯の滴も乾いてしまった椀を手に持ったまま、私は少女に尋ねた。

「うん、そう」

 スイと名乗る少女はあっさりと首肯した。小さな唇がいたずらっぽく微笑む。

「信じる?」

 私は居心地悪く頭を掻いた。目の前の状況を見る限りでは、突拍子もない物語を信じるより、孤児が山小屋に勝手に住み着いて、小屋に貯蓄されたものを漁っているだけだと考えた方が自然だった。

「最初は母さまも一緒だったのよ。でもだめだった。長い旅の果てに、使われていないこの小屋を見つけたのだけど、そのころにはもう手持ちの食べ物もなくなってしまっていた。冬だった。二人で乗り越えることは無理だったの」

「一人きりになってから、どれくらいになるんだい」

 私が問うと、スイは私を見つめたまま首をかしげた。

「さあ。村を出て六十五年数えたところで、わかんなくなっちゃったの。八十年かもしれないし、百年かもしれないし、もっとかもしれない」

 私はつい苦笑してしまった。どんどん話を大げさにしていく子だと思った。

 スイは笑われても嫌な顔一つせず、ただおもしろそうにして私を見つめるばかりだった。

 ふといたずら心が頭をもたげ、意地悪な大人だと思いながら尋ねた。

「覚えている暦はなにかあるかい?」

「暦?」

 スイは目を瞬かせた。孤児では暦というもの自体を知らないかと思ったが、スイは口元に指を当て、床に目を落としながら答えた。

「ううんと、いつだったかな……あなたみたいにここに迷い込んだお客さんはね、今までにも何人かいるの。何人目か忘れちゃったけど、一人のお客さんが教えてくれたことがあるの。今年はカンジュ六年というんだよ、って」

 私の笑いは引っ込んだ。カンジュといえば私の父が生まれた年号だった。五十年は前になる。

 物知りだね、と言いかけてやめた。これ以上追及しない方がいい気がした。

「そんなに長い間、一人きりで暮らしているなんて、大変じゃなかったかい。つらいことも多いだろうに」

「そうでもないよ」

 そう言って少し得意な表情をする様子は、本当に何の変哲もない、ちょうど大人ぶりたい年頃の普通の少女に見えた。

「一通りのことは、村にいる間に母さまから教わっていたの。裁縫も炊事も、油の採り方も。雨漏りの直し方だって見て覚えたわ。背が小さいし、力も強くないからちょっと苦労するけど、手は器用なの。大抵のことは、時間をかければできるのよ」

「食べ物は? ありがたく頂いてしまったけど、本当は自分が食べていくので精一杯なんじゃないかい」

「大丈夫よ」

 隙間風が吹いて、頼りない灯が揺らめいた。スイの瞳に映る光も同じように揺れる。

「わたしね、本当は、食べ物は何も食べなくても平気なの。お腹も減らないの。でも、母さまは最期までわたしが人として暮らすことを望んでいたから、毎日、ほんのちょっとだけ、食べることにしているのよ。それくらいならすぐに見つかるから、少しも大変じゃないの」

 そこで一旦口をつぐみ、でもね、とスイは続けた。

「時々、どうしてもきつくなるの。体が重くなって、背中のところがずきずきして、どこか遠くへ飛び出していきたくなっちゃう。そういう時は……食べちゃうの。罠を作って、ウサギなんかを捕まえて」

 スイはそれ以上言わなかったが、肉のことでないのはすぐに分かった。少々ぞくりとした。これが全て、何もかも作り話だったとしたら、スイはすぐにでも売れっ子の噺家になれるだろう。

「……何十年もたつのに、今でもきちんとお母さんの言いつけを守っているんだね」

 スイは微笑んだ。屈託のない、明るい笑みだった。

「わたしの母さまだもの。わたしが何であっても、スイとして育ててくれて、スイとして愛してくれたもの。わたしはスイを食べちゃったけど、わたしはスイも同然だって、そう言って、わたしを大事にしてくれた。母さまがいるから、わたしはスイでいられるの」

 なんと言ってよいかわからず、私はただ「お母さんが大好きなんだね」とだけ言った。

「うん、大好き。ずっと一緒にいるの」

 気づけば私は言っていた。

「それにしたって、やっぱり寂しいんじゃないかい。大好きなお母さんも亡くなって、こんな山奥に一人きりだなんて」

「時々は、ここにも人が迷い込んでくるもの。あなたみたいにね。あと、何年かに一度は、私も山を降りて町に行くの。山のものを売って、必要なものを買うために。だからそんなに寂しくないの」

 それにね、とスイの唇が再びほころんだ。

「母さまも、死んじゃったわけじゃないのよ。母さまはずっと生きて、わたしと一緒にいてくれるのよ。父さまだって一緒よ」

 スイが自分の腹を指さした。

「ここでね」

 ふっと灯が切れた。スイの無邪気な微笑みは、瞬く間に暗闇に溶けていった。

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読み切り倉庫 現井 @busukabushika

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