この道行けば

 空はぼやっと仄明るかった。太陽だの雲だの飾るものは見当たらず、パステルめいた薄い青が広がっていた。日暮れか夜明けかもはっきりしない。どこまでものっぺりと単色な空は、淵が赤く色づく気配さえなかった。ひょっとしたら今は真昼で、太陽が唐突に消滅しただけかもしれない。

 空の下にはえんじ色の道が延々と伸びていて、脇に街路樹が並んでいる。道幅はずいぶん広く、今いる道の端からはるかに右端を見やると、人影の向こうに、白っぽくかすむ木々の影が小さく見えた。道の外側には、田舎とも都会ともつかない中途半端な街並みが続いているが、やはりぼやっと白っぽい色をして見えた。道は舗装されておらず、人々の歩くリズムに合わせて赤土が乾いた音を立てる。

 尋ねたいことがあるのだが、いまだに誰にも訊けずにいた。道行く人は皆一様に背を向けて歩み去っていく。向かって歩いてくる人があれば声をかけるつもりだったが、目にするのは追い越していく背中ばかりで、忙しそうな背を呼び止めるのは気が引けた。

 道行く人の年齢はさまざまだった。よちよち歩きの幼児から杖をついた老人までいた。不思議なのは、彼らにも追い越されてしまうことだ。相当歩みがのろいらしい。

 突然背後で甲高い声が上り、思わず立ち止まった。振り返るまでもなく、泥だらけの子どもたちが歓声をあげながら脇を走り抜けていった。

 四人の子どもたちは、色とりどりの紙飛行機をそれぞれ手に掲げていた。追い越される一瞬に見た横顔は無邪気に笑っていた。生き生きして走っていく背中をぽかんと眺めていると、一番後ろを走っていた少女が振り向いた。

 彼女もまた泥だらけだった。汚れた顔の中で、黒く大きな瞳がぴかぴかと光った。

 じっと見つめてから、少女は「いる?」と手に持った紙飛行機を差し出した。ちょっと汚れているが冴えた赤で、丁寧に折った跡が見受けられた。子どもの大切なものを取り上げるのは忍びなかったのでいいよと断ると、少女は二、三度まばたきして、友達のあとを追って駆け去った。

 それをぼんやり見送ってから、そうか逆に歩けば人とすれ違えるのかと気づいた。さっそく回れ右をして道を逆向きに歩き始めた。

 とたんに体が重たくなった。もともとのろかった歩みがさらにのろくなったのがわかった。亀のほうがいくらか速いとさえ思われた。しかも道行く人々は皆奇異の視線をちらとだけ寄越し、そのまま目をそらして歩み去ってしまう。

 目を合わせれば話しかけやすいと思ったのは間違いらしかった。しかしこのまま引き下がるわけにはいかず、とにかく手当たり次第に声をかけることにした。

 まず目に入ったのは四十代くらいの男性だった。くたびれたスーツを着て、それよりさらにくたびれていそうな顔をしている。何と切り出せばいいか迷っているうちに、彼がとんでもなく大きな荷物を背負っているのが気になり、考えるより先に口から出てしまった。

「ずいぶん大きな荷物ですね」

 男性は面食らった顔で立ち止まったが、すぐにしかめっ面になった。

「当り前だろう。独り身じゃないんだから」

「何が入っているんですか」

「いろいろに決まってるだろう。全部だよ、全部」

 全部か、とあっけにとられて荷物を眺めた。分厚そうな白い袋は、事実いろいろなものの形ででこぼこと歪に膨らんでいる。大きさもさることながら重量も相当ありそうで、冷蔵庫なんかも入っていそうだった。巨大すぎるあまり袋の大部分が引きずられていて、土の色に染まった部分がもう結構ほころびていた。

「ずっと引きずってきたんですか」

「ほかにどうするっていうんだ。これからだってずっとしょっていくんだよ」

「大変じゃないですか」

「身一つでぷらぷらしてるような奴にわかりゃしねえよ」男性は吐き出すように言った。「もう行くぞ」

 お気をつけて、と棒立ちでその背中を見送った。手ぶらであることが急に心もとなくなってきて、やっぱりあの紙飛行機をもらっておけばよかったなどと考えながら、再び歩き出した。

 次に目に入ったのは青年だった。首の細さに、まだ幼さの名残があった。前方を厳しい目つきで見据え前のめり気味に歩く彼は、両手をジャンパーのポケットに突っ込んでおり、荷物らしいものを何も持っていなかった。親近感がわき、今度はいけるんじゃないかと期待した。

「すみません」

 声をかけた瞬間、青年が恐ろしい目つきで睨んできた。およそ初対面の人を見る態度ではなかった。青年は射殺しそうな視線だけを寄越して、立ち止まるどころか歩調を緩めることさえないまま過ぎ去っていった。よく考えてみれば、ポケットにしまわれた彼の手が空っぽだったとは限らない。たとえばナイフが握られていたかもしれなかった。うかつだったと反省して、なんとか前に足を出した。

 どうにも息が苦しかった。逆方向に進むのはそろそろ限界になりそうだった。

 せめてあと一人、今度こそちゃんと尋ねたいと思って周囲を見渡すと、傘をさした女学生が目に入った。

 物憂げに垂れた頭が左右に揺れ、足取りがおぼつかなかった。右手に傘、左手に数冊の本を抱え、危ういバランスを保っていた。

「すみません」

 彼女ははっと顔を上げた。透き通る肌はむしろ青白いほどで、頬にはまだ乾かない涙の跡があった。つい心配になって、「大丈夫ですか」と尋ねてしまった。

「大丈夫です。すみません……」

 消え入りそうな声で呟いて、彼女はまたうつむいた。セーラー服の袖口についた泥はまだ湿っているようだった。

「なぜ傘をさしているんですか」

 両手で本を持てば、もう少ししっかり歩けるのではないかと尋ねると、女学生は弱々しく首を振った。

「雨が……降っているので……」

「雨が?」

 驚いて空を見上げたが、相変わらず雨の気配どころか雲のかけらさえない。

 女学生は「何でもないんです。すみません……」とまた小さな声で謝ると、荒れた唇を震わせた。よく見ると、じっと地面を見下ろす目元が先ほどの青年とどことなく似通っていた。

 今にも泣きだしそうな様子に慌てていると、女学生はもう一度すみませんと言ってから、ふらつく足取りで去って行った。

 改めて周囲を見回すと、道行く人々は年齢だけでなく服装もさまざまだった。コートをきっちり着こめている若い女性の隣を、ランニングシャツの初老の男性が軽快に走り去っていった。マフラーをしてフードを目深にかぶった男性の上には、もしかしたら雪が降っているのかもしれない。

 少女の雨が早く止むよう願いながら、とうとう進路を元に戻した。これ以上は息ができそうになかった。

 疲れのあまり、しばらくはだれとも口をきけそうになかった。重い足を引きずりながら、きょろきょろと周囲を見回すだけだった。相変わらず人々は早足で歩み去っていく。ただ前を向いて歩くだけの人もいるし、何か探している風の人もいるし、リュックからものを出して捨てていく人もいれば捨てられたものを拾ってポケットに仕舞う人もいる、ようだった。とにかくすべてはぼんやりとしていた。淡い霞に包まれているようで、あいまいに揺らいで見えた。自分の影さえはっきりせず、先ほど言葉を交わした人たちの顔も、すでにぼんやりとしか思い出せなかった。

 一度立ち止まって作戦を練るべきか考えていたとき、足元に何か落ちていることに気づいた。本だった。よくわからないが、先ほどの学生のものとは違うような気がした。

 前方へ目をやると、やはりまた一つ何かが落ちていた。近寄ってみると、青い紙飛行機だった。その前方に、今度はナイフとカメラ。すぐ先には箪笥。四つ、五つ……と落とし物の数は増えていき、落ちている間隔も短くなっていって、最後には落とし物の行列が出来上がっていた。

 行列はあるところでふっつりと途絶え、そのすぐ近くにベンチがあった。街路樹の下、草の上に置かれたベンチは真っ白で、道の方を向いている。ベンチには老人が腰かけていた。

「あの、すみません。落とし物されていますよ」

 老人はゆっくりと目を動かしたが答えなかった。聞こえなかったのかもしれないと思い、もう一度大きな声で繰り返すと、老人は瞬きし、それからゆっくりとほほえみを浮かべた。

「ああ、いいんだよ」

 老人は何も持っていなかった。正確には、破れた袋だけを握っていた。長年使い古したらしい袋はすでに元の色がわからず、底に大きな穴が開いていた。袋の中は一目見てわかるほど何もない。

「袋、破れてしまったんですか」

「ああ、いいんだよ」

 袋に目をやり、老人は骨ばった手で撫でた。「もう十分だ」

 ふと、これはチャンスだと気づいて、ようやく質問を口にした。

「お尋ねしたいんですが、ここはなんという通りでしょうか」

 老人は顔を上げ、ゆっくりまばたくと、また穏やかに笑んだ。

「さあ、なんだろうなあ……わしにはわからんよ。君は?」

 澄んだまなざしで最後に問いかけると、老人はそっと目を閉じた。

老人の体がすうっと薄くなった。老人だった陽炎はあるかなしかの風に揺らめき、声を上げる間もなく霧散した。後には何も残らなかった。破れた袋さえどこにもなかった。

 ふと気づくとそばに少女がいた。小学生くらいの、明るい色のワンピースを着た子だった。青い草の上にしゃがみこみ、野の花を摘んでいるようだった。小さく鮮やかな花々が、手一杯に握られている。

 少女は不意に立ち上がると、こちらを振り返った。それから手の中の花を一輪抜き取り、それが当然であるかのように「はい」と言って突き出した。

 思わず受け取ると、少女は早くも身をひるがえし、ベンチへ目をやった。空になったベンチの上にも一輪の花が置かれた。少女は残りの花を両手で抱え、軽い足取りで去って行った。

 白いベンチの上に置かれたのはタンポポだった。ちらちらと木漏れ日の揺れる景色の中で、花弁の黄色が目に染みる。

 私の手にあるのは名も知らない白い花だった。摘んだばかりの花は瑞々しく露を含み、少女のぬくもりがほのかに残っている。くるりと回すと、花粉と蜜のにおいが鼻をこすった。

 道へ目を戻した。赤茶けた道の上では、相変わらず人々が歩こうとしていた。汗を流したり笑ったり半分眠ったりしながら、とりあえずは足を前に出している。

 花をしっかりと手で握って、ベンチを後にした。

 陽射しが出つつあった。失われた太陽が、再生を始めたようだった。

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