読み切り倉庫

現井

八月の交差点


 寝苦しい夜だった。

 一週間前に壊れたエアコンは修理依頼の電話もしていない。ベッドと体の接着面にこもる熱を逃がそうと散々転げまわったのち、俺はのっそり起き出した。体のだるさにかまけて無視を続けていたが、喉の渇きには勝てなかった。

 冷蔵庫は見事なまでに空だった。今朝までは帰省しようかと考えていたから、調味料以外は一切入ってない。

 十一時を回ったところだった。少しためらって、部屋着のまま外に出た。玄関を開けた瞬間、部屋と大差ない、むわっとした夜気が顔をなめた。本当に、うんざりするような熱帯夜だ。

 自販機で済ませるつもりだったが、予定を変更してコンビニへ行った。いよいよ部屋着であることに気後れするが、エアコンの魅力は無視できなかった。

 一冊だけ雑誌を立ち読みし、そのあと炭酸を買って店を出た。涼しいところから放り出されると、ますます熱気がいやになった。白い袋を前後にぶらぶら揺らしながら、のろい足取りで帰り道をたどり――ふと、俺は立ち止まった。

 前方に人影があった。国道との交差点の、街灯の灯りが微妙に届かない隅っこに、こちらには背を向けて座り込んでいた。来る時にはいなかったはずだ。

 知らないふりをしてもよかったのだが、まだ幼そうなスウェット姿に、柄にもなくおせっかいを焼いてしまった。

「何してるんだ、こんなところで」

 少年はゆっくりした動作で顔を上げた。暗がりの中で、黒い瞳が冴えて見えた。

 少しの間俺の顔をじっと見つめてから、少年は「待ってるんです」とやっと聞き取れるくらいの声で答えた。ずいぶん落ち着いた口調だった。小学生だと思っていたが、中学生かもしれない。

「何を?」

 俺が眉をひそめて問い返すと、少年は「もうすぐ来ますよ」とだけ言い、視線をまた国道へ戻した。

 深夜に、それも道端に座り込んでいるというのに、悪びれる様子は微塵もなかった。そのあまりに堂々とした――それでいてどこかひっそりした雰囲気にのまれて、思わず俺も、少年のわきに立ったまま、無言で何かを待っていた。

「ほら、来た」

 すっと少年が指差した。

目で追うと、がらんどうの国道の彼方に、ぽつんとごく小さい光が見えた。二人が見つめるうちに白い光は二つになり、サー…とタイヤがアスファルトを擦る音が聞こえてくるころには、それが赤い車であることがわかった。

 背中がすっと冷たくなった。妙だと思った。点々と並ぶ街灯の間隔は広く、道路は黒と白のまだら模様になっているのに、そこを通る車は明るさを変えなかった。暗闇に、塗りたてのペンキのように鮮やかな赤色をした乗用車が、滑らかに路上を走ってくる。重量感というものがない。

 影がないんだ、と気づいたとき、汗ばんだ腕に鳥肌が立った。

 息をつめて見守る中、車が交差点に差し掛かった。俺は運転席を覗き込んだ。暗い車内にうすぼんやりと人の横顔が見えた。その顔立ちを見てとろうと目を凝らした瞬間、ふっと、交差点の向こう側が姿を現した。

 消えた。

 交差点の真ん中を渡る直前に、車ごと消失した。電気のスイッチを切ったような、唐突な消え方だった。残されたのは、何の変哲もない、いつもと変わらないど田舎の交差点の風景だった。

 街灯に照らされたアスファルトを呆然と見つめ、俺が口もきけずに突っ立っていると、少年は囁くように言った。

「交差点を過ぎずに消えてしまうんです――毎晩」

 少年のつむじを見おろし、俺は「どうして」とかすれ声で言った。尋ねてばかりだと思った。

 少年はやはりゆっくりした動作でこちらを見上げ、一つ、まばたきをした。

「覚えてますか、五年前の事故」




 けたたましいアラーム音でたたき起こされた。

 枕元の携帯を手探りでつかんで音を切った。電子音の代わりに遠い雀の声が耳に届いた。携帯を握りしめたまま、のんきにさえずりまわる鳥の会話をしばらくリスニングしてから、乱暴に頭を掻きまわした。全く寝た気がしない。

 だるい体を無理やりベッドから引っ剥がし、テーブルを見やった。ビニール袋と空のペットボトルが、漏れ入る朝日の色に染まっていた。

 現実だった場合と、夢遊病だった場合と、どっちの方がましなんだろうとまだ寝ている頭で考えた。


   *  *  *  *  *


 俺が無言で隣に立つと、昨日と寸分変わらない格好で座り込んでいた少年は、顔もあげずに「今日も来たんですね」と言った。

「ただの帰りだよ」

 俺はコンビニの白い袋を少しわざとらしく揺らした。ビニールのがさがさという音が耳障りだった。少年はやはり視線を向けない。

 俺も両手をポケットにしまいこんで、突っ立ったまま交差点を眺めた。

 本当に何の変哲もない交差点だ。暗くてもわかるほど褪めた色のアスファルトに、かろうじて形をとどめている白線が引かれ、街灯に照らされた粗い凹凸が白と黒のコントラストを作っていた。じっと睨んでいると目の奥が痛くなりそうだ。

 交差点の周囲に建物らしい建物はない。唯一、俺たちの背後にのみ、いまいち用途のわからない小さい倉庫が建っている。あとは青々とした田んぼが広がるばかりだ。国道沿いには細いガードレールが長く伸びているが、それと交わる細い道には用水路側に穴あきのフェンスがあるだけで、もう一方にはそのフェンスさえない。ガードレールも申し訳程度といった感じで、歪んだり錆びたり、根元から傾いたりで、随分頼りない。一か所を除いては。

 今立っている場所と対角のところだけ、ガードレールが見るからに新しかった。ボルトのあたりがかすかに錆び始めているものの、歪みも塗装の剥げもない。五年の歳月くらいでは、そうそう傷まないらしい。

 そして、その下に、小さな花束がいくつか並んでいることに気づいたのは、昨日の昼間だった。

「あの車は……五年前の、やつか」

 小さい声で、わかりきったことを尋ねた。右手は、ポケットの中で五年前の新聞の切り抜きを握っている。

「そうです」

 表情を動かさず、少年はごく短く答えた。わかりきっていても、背中が寒かった。

 必要もなく腕をさすり、ぼそぼそとまた問うた。

「どうして……」

「後悔しているから」

「後悔」

 俺が馬鹿のように繰り返すと、少年が静かに言った。

「後悔しているんです。ブレーキをかけたこと」

 予想しない答えにぎょっとして、俺は少年を見おろした。相変わらず無表情な少年は、前を向いたまま淡々と説明した。

「子どもを避けようと急ブレーキをかけた車はスリップして、交差点脇のガードレールを突き破り逆さまに田に落ちました。結局、交差点にいた子どもと運転者は即死、ガードレール付近にいたもう一人の子どもも巻き込まれ大けがをして、足に後遺症が残りました」

 少年はいったんそこで言葉を切った。事故の詳細は知っていたものだったが、少年の口から語られることで、その続きを、うっすらと察することができた。

 少年の、まだ喉仏の出ない滑らかな喉がかすかに動いた。続けられた言葉は、葉擦れのように掠れていた。

「だから、毎日やり直そうとしているんです。交差点に突っ込んで、子どもを撥ねて、せめてもう一人の子どもだけでも無事で終わらせようとして――ああやって」

 ぽつんと光が見えていた。初めて見た時は大して何とも思わなかったその光も、見慣れてくると、やけに白く、おぼろげな様子に感じられた。

 真っ赤な車が近づいてくるにつれて、乾いた音も大きくなる。音が聞こえるのに、影がない。道路を擦っているはずのタイヤに、車を支えている重さがない。

 二人が見守る中、今日も車が交差点に差し掛かった。差し掛かって、手前でふっと姿を消した。その消え方があまりに唐突で、胸の奥の方で息がつまりそうになる。

「でも、いつも交差点の向こうへ行くことができない……進めないんです。もう交差点には何もないのに」

 そっと、詰めていた息を吐き出すように、少年がぽつんと言った。

「五年間……毎日?」

「ずっと、毎日です」

 茫洋としたまなざしをして少年はじっと座っている。

 どうして見守っているのか、そんなに詳しいのか、俺は聞かなかった。聞けば、ならばお前はどうして来るのだと、問い返されるに違いなかった。


   *  *  *  *  *


 それから三日、少年は毎晩座っていた。座って、車をただ見守った。つまりは俺も毎晩通っていた。コンビニをだしにすることはもうせず、直接、ただ幽霊車を見るためだけに深夜に家を出た。朝起き出す時間はどんどん遅くなるし、体はだるいし、何より見て気分の良くなるものでもなかったから、やめるべきだとは感じていた。ちょうど時間にぽっかり目が覚めてしまうのだから仕方なかった。目覚めると、どうしても気になって何も手につかない。結局は、それだけ気にしているということだろう。こんなことなら帰省しておけばよかったという思いがよぎる。

 少年がどこから現れ、どこに戻るのかはわからなかった。早めに行っても必ず少年は座っていて、車が消えた後も、俺がいる限り、決して腰をあげようとしなかった。俺はいろいろと憶測しようとしてやめた。ここのところ、考えるだけの体力も気力もなかった。

 俺たちの会話はいつも事故と車のことに終始していて、互いについては尋ねも打ち明けもしなかった。それが暗黙の了解だった。

 ただ、それもいい加減終わりであることはわかっていた。ゆっくりと、限界が、音もなく近づいてきているのを、逃げ出せない思いで感じていた。

 俺はため息もつく気にならずぼんやりとカレンダーを眺めた。明後日からはまた仕事が始まる。

 盆が終わろうとしていた。




 少し驚いて、交差点を渡る前に足を止めた。向かいにいる少年が座っていなかった。

 両手をだらんと下げて、力の入らない立ち姿だった。思ったより背がありそうだ。いよいよ年齢がよくわからない。

 俺が歩み寄るのを、少年は立ったまま迎えた。もう六日も連続で会っている相手だというのに、そうやってじっと見つめられるとなんだか落ち着かなかった。考えてみれば、彼の横顔を観察することは多くても、彼の視線を浴びる機会はほとんどなかった。

「今日は座ってないんだな」

 俺が言うと、俺の顎あたりにある少年の頭が小さく動いた。相槌なのかただの身じろぎかはっきりしなかった。

 闇は静かだった。そういえば妙なものではある。これだけ田んぼがあるのに、蛙の声も虫の声もしなかった。蚊もいない。

 皆が息をひそめているのだろうか。じっと見守っているのだろうか。五年の間、一瞬の出来事にとらわれたまま、越えられない交差点を越えようと何度も何度も繰り返す、あわれな影を。

 やるせなくなって、俺はガードレールから目をそらした。ガードレール下の花束は、日に日に増えていく。

「五年って、短いですか」

 唐突に少年が問うた。俺は思わず少年を見た。いつもより近くで見る横顔は色が白く、無表情に冴える瞳が、かえって悲しげに見えた。

 俺はぼんやり交差点を眺めて、「五年」とつぶやいた。短いだろうか。長いだろうか。五年前の自分を思い浮かべると、何の進歩もない気がして、それが期間の短さなのか俺の不甲斐なさなのかはよくわからない。

 それでも、五年間、周囲に取り残されたまま同じ時間を繰り返す車のことを思うと、切ないくらいに長い、と感じた。

「短くはない、かな」

「長いですよ」

 少年は妙に言い切った。いつもより少し早口で、しかし淡白な口調は変わらなかった。国道の彼方にぽつんと光が見え始めていた。

「十分に長いです。五年あれば、小学生が、高校生になることだってできるんですから」

 そう言われると、確かに五年という年月は重いものに感じられた。しかしそれは、子供の五年だからこそ重いという気もした。俺の五年など軽いものだ。

「十分なんです。もう、いいんです」

 少年が、まるで自分に言い聞かせるように繰り返した。俺はにわかに怖くなった。様子がおかしかった。真っ赤な車は滑らかに走ってくる。

「だから、もう、終わらせるべきなんです――どういう形でも」

 言うなり、少年はぱっと駆け出した。迷わずに交差点へ突っ込んだ。少年の背中と赤い車のボディが、引き合うように近づいた。

「おい!」

 考えるより先に声が出た。ああまただ。思ったと同時に、俺も飛び出していた。

 迫ってくる無機質な赤を無視して、少年に手を伸ばした。


 何がどうなったか俺にもよくわからなかった。鼻の先に赤を見た。ぶつかったような気もする。脛に何かの衝撃は走った。

 ただ我に返ったときにはアスファルトに強かに体を打ち、腕に少年を抱きかかえて肩で息をしていた。

 遠ざかっていくタイヤの音を聞いた。少年は身じろぎひとつしなかった。ひやりと冷たい背中を抱いたまま空を仰ぎ、俺は「ごめん」と叫んだ。


 見ていた。俺は見ていたのだ、一部始終を。

 夕方だった。やっぱりコンビニに行こうとして、交差点へ向かっていた。盆の終わりで、国道は車がひっきりなしに通っていた。どのタイミングで渡ろうかと俺がだらだら手前で立ち止まり続けていたとき、女の子がぱっと交差点を横切ってこちら側に走ってきた。かなりギリギリのタイミングだった。危なっかしいなあと思いながら女の子の走ってきた方に目を向けると、女の子より少し幼い少年が、確認もせずに倉庫の脇から飛び出そうとしていた。

 向かいにいる俺には赤い車が見えた。ぞっとした。倉庫が影になって、車には少年の姿が見えていないに違いなかった。

「おい!」

 気づけば俺は叫んでいた。道を渡りかけた少年は怒鳴り声にびっくりして、道の真ん中で一瞬足を止めた。ほんの一瞬だった。きょとんとしたあどけない顔で俺を見た少年は、次の瞬間には宙を舞った。赤い車はすさまじい音でスリップし、女の子とガードレールを押しのけて回転しながら田に突っ込んだ。女の子の「あっ」という声と、少年がアスファルトに叩きつけられる小さな音が、重なって、次々と急停車する車のブレーキ音の中に、そればかりをはっきりと聞いた。

 後のことははっきりしない。血と油のにおい、焦げ臭いアスファルトのにおい、あたりは大騒ぎで、誰かの悲鳴と怒鳴り声が交差して、救急車が来るころには道は車と人でいっぱいだった。

 俺はただ突っ立っていた。救助も連絡もしなかった。余計な怒鳴り声を上げただけで、最初から最後まで、ただの一歩も踏み出さなかった。ただまぶたの裏に焼きついた、足を止めた少年の姿を、一瞬俺をとらえたつぶらな瞳を、夏空に舞い上がった、小さな体を、繰り返し繰り返し見ていた。



「いいよ」

 不意に腕の中で少年が言った。

 はっとして見下ろすと、少年と目が合った。街灯の光をよく映した、黒くつぶらな瞳だった。

「もういいんだよ」

 澄んだまなざしだけを残して、次の瞬間、少年は消えていた。


   *  *  *  *  *


 うだる炎天下、あまりの熱気にため息すらつけず、俺は足を引きずるように国道を歩いた。

 反省はしている。もっと早く起きて、午前中に動いておけばよかったのはわかっている。

 しかし仕方がなかったのだ。あの後、部屋にたどり着いた途端猛烈な眠気に襲われて、ここ数日分の疲れを癒すべくただひたすらに眠っていたのだから。

 だだっ広い田舎の空が、怒る気も失せるような青に染まっている。強すぎる日差しで白っぽくかすみ、アスファルトの上で陽炎が躍る。完璧に猛暑日だった。これ、絶対しおれるだろ、花。

 もう交差点が近かった。脇に置かれた花束の山も見える。色とりどりの花が遠目にもまぶしく、あまりしおれていそうな印象を受けない。近所のスーパーで調達した名前も知らない白い花が、急にみすぼらしく思えてきた。花束の前でたたずむ後姿が、気おくれに拍車をかける。昨晩打ち付けた脛が痛い。汗も止まらない。

 立ち去ろうと、花束の前の人がぎこちなく動いた。俺は思わず立ち止まった。

 向こうも俺に気づいて止まった。

 近くの高校の制服を着た少女だった。白っぽい道路の上で、紺のひざ丈のスカートが生ぬるい風に揺れた。体を斜めに向けたまま、俺の顔と白い花束を見比べて、怪訝そうな顔をする。足に着けた補助具の銀色が鈍く光った。

 蝉がひっきりなしに鳴いていた。俺はささやかな花束を握り直し、ゆっくりと、少女へ向かって踏み出した。

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