第9話
背を丸めて歩いていると、少し遠くからベビーカーを押した女と危なっかしく走っている幼児が見えた。幼児は男の子で笑顔を振りまきながらこちらに向かって駆けてくる。母の押しているベビーカーに乗っていることに飽きたのだろうか。
母親は左手でベビーカーを押し、右手でスマートフォンを持って画面を見ながら歩いていた。車や自転車の通行が多い道ではないから気を抜いているのだろう。走り出した子どもを注意することなく放っている。
子を保護しなければならない立場を放棄して自分中心に生きている母、保護されていることを当たり前のように思っている子ども。世間から守られて、安全な世界で幸せに暮らせることが当たり前だと思っていそうな平和ボケした母子にイラついた。その瞬間、例の黒い塊が動き出す気配を感じた。
俺は一旦立ち止まって吸っていたタバコを投げ捨て、もう一本の煙草に火をつけた。煙を胸いっぱいに吸い込んで吐き出しながら男児がこちらに来るのを待った。
男児の方は見ないように顔を逸らして、俺のすぐ近くに来るまで待った。白杖を突いた男の時と同じだった。ただ今回は近くに母親がいる。母親に事の始終を見られたらお終いだった。
男児は走って来る。母親は口先だけで注意しながらスマートフォンを見ている。
今だ!
男児が俺の足元に来た時を狙って吸っていたタバコを口元から離して、煙草を挟んだ手を下した。手を下したタイミングでタバコの朱色の火が男児のふっくらとした柔らかな頬に当たって焼いた。
男児は一瞬何が起こったのかわからないような顔をして固まっていたが、すぐに火が付いたように泣き出した。俺は男児が泣き出す寸前にタバコを口元に戻してさっき歩いてきた道を戻っていった。
立ち去りながらちらちらと後ろを見ていると、我が子が悲鳴に近い泣き声を上げているにもかかわらず、母親は焦りもせずスマートフォンを手に持ったままのろのろ歩いて男児のところまで来た。俺はすっと建物と建物の隙間に入り、そこから二人を見ていた。
母親は男児の様子を見ても慌てたようなリアクションはせず、泣きじゃくる男児の手を掴んで、宥める素振りもないまま強引に引っ張りながら歩き出した。
「あんたがじっとしていないからでしょ!もう、行くよっ!」
男児は母親に体を釣り上げられるような体勢で歩きながら泣いていた。
なぜ叱る。なぜ抱きしめてやらないのか。
こちらに向かってくる二人に姿が見られないように隙間の奥に潜もうとしたときに、俺は二人の姿を見ながら爪が掌に食い込むほど拳を握り締めて、ずっと息を止めていたことに気付いた。左手で手伝ってやらなければ開かないほどきつく握り締められていた右の掌を開いて、壁に手を付き深く深呼吸をした。息を吐いた後、過呼吸のような荒い呼吸を繰り返して、落ち着くまで都会の暗い谷間で蹲っていた。
なんとか気持ちを落ち着かせた俺は、建物の隙間を通り抜けて向かいの通りに出て再び歩き始めた。歩きながら、あの男児は母親にとってスマートフォン以下の存在なのだろうと勝手に納得した。そして家の中でもスマートフォンばかり見て、子どもの笑顔に応えることは少ない母親を持った男児を憐れんだ。
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