第1話 その9
その日の教室はいつまでもざわついた空気が続いた。
さすがに授業の最中に露骨に騒ぎ立てる者こそいなかったものの、ひそひそ声はなかなか止まず、ひとたび時間外となれば皆がその話題で持ちきりだった。
「やー驚いたなー。和泉センセ、いきなり辞めちゃうなんてさあ。どうしちゃったんだろ」
放課後になるやいなや希が後席を振り向く。鈴蘭は鞄に勉強道具を詰めながら返事をする。
「ほ、本当だよね。急だもんね」
今日だけで何回似たようなやり取りを繰り返しただろう。その度に鈴蘭は些かの緊張と良心の疼きを覚えていた。
この日の朝、始業から遅れて教室に現れたのは担任教諭の和泉ではなく、通常は生徒達とは縁のない教頭だった。
意外なことだったには違いない。だがまだクラスのほとんどの人は和泉は遅刻か病欠ぐらいにしか思わなかっただろう。
真の衝撃波は、教頭による簡素な発表の直後に発生した。
「えー、おほん、和泉先生は都合により退職しました。当面は私が代行を務めます」
教室は一斉に喧騒に包まれた、かといえばそうではなかった。三年前まで軍にいたという壮齢の教頭は、眉間に深い皺を寄せており、詳しい事情は訊くなという気配を危険なまでに発散していたからだ。
だが教頭が最低限の朝礼を終えて教室を出て行った途端、抑え込まれていた好奇心はすぐに様々な噂となって噴出した。
例えば、安い給料に嫌気が差した、教員室でのセクハラに悩んでいる、実家の店を手伝うことになった(美容院という説が有力)、果ては芸能事務所にスカウトされたといった説さえあった。
中でも一番人気となったのは、いかにも和泉のような人にありそうな理由だった。
「やっぱしあれかな、できちゃった婚。ね、スズはセンセーの彼氏ってどんな人だと思う?」
「さあ。会ってみないと分んないけど」
やはり元軍人で、現在は自由業というかゴロツキに近い暮らしらしいが、もちろん言えない。
そもそも、妊娠や結婚のようなおめでたい事情ではないのだ。
三澤に嘘の罪を着せようとしたのがバレたからである。
正式にはそれ自体も罪になるらしく、だから本当なら和泉は逮捕されるべきなのだが、余り話が大きくなると鈴蘭の生活にも影響するかもしれない、というごく身内本位の判断により、和泉の退職で事を収めるということで関係者間の合意を取った。
フアレス進駐軍への身柄の引き渡しが発生しなかったため、報奨金も入らず、アカツキとしてはただ働きになったらしい。今度みんなの肩でも揉んであげようと鈴蘭は思う。
「きっとさ、先生には先生の事情があるんだよ。わたし用があるから。もう帰るね」
「じゃああたしも帰ろっと」
鈴蘭に続いて希も鞄を取り上げた。本当は特にこれといった用事はなかったが、どうせアカツキには寄っていくつもりなのでまるっきりの嘘でもない。
「ところでスズ、今日出た宿題だけどさ」
「うん。え、あっ」
油断していた。相手にぶつかりそうになる寸前、鈴蘭はどうにか足を止めていた。
三澤は例のごとく不機嫌なまなざしを向けてくる。
鈴蘭は咄嗟に動けなくなる。
和泉の退職については、もちろん三澤にも思うところがあるはずだ。だけどこれまで話をする機会はなかったし、今もどうやって切り出せばいいのか分らない。
少なくとも三澤に語り合うつもりはなさそうだった。
「なんだよ。文句でもあるのか?」
「なんでもない。ごめん。ちゃんと前見てなかった」
反射的に謝ったものの、お互い様というかむしろ三澤の方が横から割り込んで来たような気がする。
だが三澤は当然謝るわけもなく、鈴蘭はため息をつくのをこらえて通り過ぎようとした、その刹那。
鈴蘭は驚いて三澤を見た。笑顔も愛想もありはしない。だけど唇は確かに何かを言ったあとみたいな形に開いている。
瞬きを一つした時には、三澤はもう歩き出していた。鈴蘭が声を掛ける間もなく、早々と教室を後にする。
「ちょっとー、なんなのあいつってば感じ悪っ。スズはほんとにあんな奴がいいの? もしかしていぢめられるのが好きだったりとか? そしたら今度あたしが色々したげるよ?」
「だから違うってゆってるのに。わたしも三澤のことそんなに好きじゃないもん」
鈴蘭は頬を膨らませた。
そしてどこまでも自分勝手な少年に向けて、こっそりと呟く。
(どういたしまして)
もちろん本人に届いたはずもない。
でも三澤の「ありがとう」だってほとんど聞こえなかったんだから、これでいいよね、と思う鈴蘭だった。
(第1話 好きじゃなくても信じられる 了)
アカツキに花咲き開く ――明月強制執行代理所お仕事帳 しかも・かくの @sikamo
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