第1話 その8

 さすがに早く来過ぎちゃったかも。

 鈴蘭は誰もいない教室を見渡した。

 現在七時を少し回ったところである。ついさっきまで校舎の入口扉には鍵が掛かっていたのだから、ひとけがないのも当然だ。


 とりあえず自分の席に着く。鞄から勉強道具を取り出して、机の中に入れたらもう他にすることもなくなってしまう。

 つい視線が向かうのは、いつも怒ったような顔をした男子の机だ。

 三澤の容疑が晴れたということは、既に昨日アカツキで聞いていた。関係各処への連絡や当座の後始末もおおむね終わり、従って彼が今日登校するのに支障はない。


 だから鈴蘭が気にすべきこともない。ないはずだ。

 だいたい「事件」を知っているのは一部の人だけだから、三澤に注目を集めるような真似は避けるのが正しい。

 ちゃんと前を向いて座っていよう。むやみに戸口の方ばかり見るのはよくない。

 それにもし、ちょうど登校してきた三澤と視線がかち合ったりしたらどうすればいい。鈴蘭の方は全然平気だけど、あっちが変なふうに意識してしまうかもしれない。そういうのちょっと、困るし。


「おはよー、スズ。きょろきょろしちゃってどうしたの? 誰か待ってるのん?」

「ノ、ノゾちゃん!? 何を言ってるのかな? 私はきょろきょろなんてしてないし、誰も待ってなんかないよ?」

 椅子に座ったまま鈴蘭は思い切り身を仰け反らせてしまった。椅子の背が後ろの机に当たって大きな音を立て、さらにびくりとしてしまう。


 いつのまにか登校してきていた希が、眉を寄せて鈴蘭の瞳を覗き込む。

「んー、怪しいぞ。スズの身に一体何が……はっ、もしや男か? 週末のお泊りデート発覚なのか? 相手は誰なんだ、スズよ、大人しく吐け!」

 がくがくと肩を揺すぶられ、鈴蘭は目を白黒させながら言い返した。


「そんなの嘘だよ! ほんとになんにもないってば! そういうノゾちゃんこそ、今日は早いじゃん。いつも遅刻ぎりぎりなのにさ。何かあるの? ひょっとして男子に呼び出されてたりとか」

「ほえ? 別にいつもと一緒だよ?」


 不思議そうに応じられ、驚いて教室の壁掛時計に目を向ける。本当だった。ぐるぐると考えているうちに、既に始業間近である。

 ならば三澤はと席を見やると、なおも空のままだった。思わずため息がこぼれる。

 鈴蘭の様子を希は見逃さなかった。共感するように頷いてくる。


「そっか、あいつかあ。スズも大変だねえ。ああいうひねくれた奴を好きになっちゃうとさ」

「やっぱりひねくれてるって思うよね。もしかしたら根は優しいのかもって気もするんだけど……って違うからね!? あんなひと別に全然好きとかじゃないし、そもそも誰のことを言って」

「あ、三澤来た」

「え?」


 ハメられたと振り向いてしまったあとに気付いたが、三澤が来たのも嘘ではなかった。

 普段通りの尖った素振りで誰とも言葉を交わさず挨拶もせず、真っ直ぐに自分の席へと向かう。鈴蘭にちらりと視線を向けることさえしなかった。

 鈴蘭は口をすぼめると甲斐もなく呟いた。


「……いいけど。ちゃんと来れたんならそれでね」

「よしよし。スズは健気ないい子だよ」

「ノゾちゃん! だから違くてっ」

 希がにまにまと笑いながら頭を撫でる。慌てて取り繕おうとした鈴蘭だが、チャイムがもう鳴り始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る