第1話 その7

 週末の夜だというのに、百春町ひゃくはるちょうにある酒場〈酒泉〉はひどく閑散としていた。現在客はカウンター席の工藤ひとりだけである。

 もっとも普段から大して賑わっている店ではない。工藤のような軍人崩れなど、定職に就いていない者達が集まっては違法か合法か怪しい仕事の情報を交換したり、そうでなければちびちびと酒を呑み、持て余した暇を潰すような溜まり場だ。


 工藤はもっぱら後者だった。ここ最近ろくな稼ぎ口がなく、中等教師の和泉純子のヒモに近い暮らしをしている。その和泉は暴行事件の被害者という立場を考慮して、今晩は自宅で静養中だ。

 工藤は薄いウイスキーを口の中に放り込んだ。ツマミのナッツをかじりながら、ようやく現れた二人目の客に気のない視線を投げ、直後に思わず二度見した。


 若い女だった。やや化粧がきつめだが、まだ二十歳かそこらだろう。すらりとした体をほどよく着崩したスーツに包み、タイトスカートの腰回りが小振りだが美しい。目鼻立ちは可愛いというよりは凛々しく、こんな場末の酒場ではなく優良企業のオフィスこそがふさわしい居場所に思える。


「冷茶をください」

 カウンターの反対端に座った女は注文を済ませると腕の時計を確認した。待ち合わせだろうか。この女の連れになりそうな奴がいるかと工藤は常連の顔を思い浮かべる。誰も当てはまらない。ならば自分が相手をしてもいいはずだ。

 工藤の視線に気付いたらしい女が笑みを返す。儀礼的な硬さがあったが工藤には十分だった。迷わず自分のグラスを持って隣へと移動する。


「はじめまして、だな。一杯奢るよ。親爺、ラムをロックでこの美人に頼む」

「ありがとう。でも一応仕事中だから。遠慮させてもらうわ」

 工藤の馴れ馴れしい態度にも怖じることなく、女は首を横に振る。工藤は引き下がらなかった。多少気の強いぐらいの方が好みなのだ。


「冗談だろ。こんな所に来て仕事なんて、警察に強盗しに行くみたいなものじゃないか」

「でも私にここを教えてくれた人は、仕事の話をするのによく使うって言ってたけど。名前を聞いてもいい?」

「工藤だ。君は?」

 女は答えを寄越す代わりに、工藤の顔を無遠慮に眺め渡した。


「もしかして、工藤一さん?」

「俺を知ってるのか。誰から聞いた」

 工藤は些か警戒して尋ねた。情報元によっては不当に悪い噂を吹き込まれている可能性があるし、和泉に告げ口するような奴だとしたら最悪だ。工藤の周りにいるのは隙あらば人の足を引っ張ろうと考える連中ばかりである。

 悪い予想は当たり、女は見下すように口元を吊り上げた。


「知り合いの知り合いにリカンがいるんだけど……笑っちゃった。連れの女の人を中等生の子供に襲われて、なのに自分じゃなんにもしないで警察に泣きついたヘタレがいるって。あんたのことでしょ」

「馬鹿言え。あれは純子に頼まれたんだ。生意気なガキを嵌めたいから協力してくれってな。それで通報しただけだ」


 工藤は憤然として否定した。ひどい風評被害だった。もし誤った腰抜け扱いが界隈に広まって定着でもしたら、いい稼ぎ口がますます遠のいてしまう。

 しかし女はなおも疑わしげだった。あら探しでもするみたいに問いを重ねる。


「じゃあその子供は本当は何もしなかったってわけ? あんたが臆病風に吹かれた言い訳をしてるんじゃなくて?」

「もしほんとに俺の女に手を出したガキがいたらな、その場で半殺しにしてやるよ」

「子供を殴ったって強さの証明にはならないと思うけど。でもよく分ったわ。さよなら工藤さん。あなたの女とやらによろしくね」


 女は代金をカウンターの上に置き、さっさと席を立った。

 工藤は憮然とした面持ちでタイトスカートの尻を見送った。「俺の女」はいかにもまずかった。「知り合いの女」ぐらいにしておけば良かったと悔やむ。

 だが工藤が真に気にするべきは別のことだった。


 工藤と話をしていた女は、通りに出るとスーツのポケットに忍ばせていたボイスレコーダーを止めた。早速再生してみる。

“馬鹿言え。あれは純子に頼まれたんだ。生意気なガキを嵌めたいから協力してくれってな。それで通報しただけだ”

 問題ない。肝心な部分もきっちりと録音されている。


「これで完了っと。早く帰って化粧落としてお風呂入りたいな」 

 明月強制執行代理所正所員、早瀬あきらはひとりごちると頭の上で大きく伸びをした。

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