第1話 その5

 大通りから一本入り、雑居ビルの立ち並ぶ中にある不定期営業の蕎麦屋の裏手の階段を上る。二階の地味な扉に貼り付けられているのは、〈明月強制執行代理所〉なる表札だ。

 正所員三名、補助所員二名の小所帯だが、先月は政界の動向にも大きく関わる事件の解決に貢献するなど、実力は折り紙つきといってよい。


「むむむ……えっとーこれは」

 室の真ん中には小さな応接セットが置かれ、ソファに腰を下ろした鈴蘭が難しい顔で首を捻っていた。頭の上で結んだ若草色のリボンが、動きに合わせて揺れている。

「よし、分った!」

 ひとしきり悩んだ末に明るい声を上げ、卓の上に広げたノートに書き込みを始める。


「どう、カイくん? わたしだってやればできるんだから。数学なんて恐れるに足りずだよ」

 自慢げに話し掛けた相手は、鈴蘭より少し年下ぐらいの少年である。色白で繊細な顔立ちに加えて、珍しい濃紫色の瞳が美しくも神秘的だ。

 カイは少女がひけらかしたノートにざっと視線を走らせた。直後に問題点を指摘する。


「スズ、符号が違っています。これでは正しい答えになりません」

「え、嘘? どこが」

「ここです」

 鈴蘭は七秒考えたのちに、「ほんとだ」と消しゴムをかけて直し始めた。

 修正が終わって、次の問題へと移る。しかし鈴蘭の持つ鉛筆はいっかな動き始めない。


「うーん」

 唸りはすれど頭の中は空転するばかりといった有様に、カイが健気に申し出る。

「スズ、よければぼくが手伝いましょうか」

「ほんと? やった! じゃあこれなんだけどね」

 喜々として問題集をカイの方に回そうとした鈴蘭だが、途中ではたと悩み始める。


「ちょっと待て、わたし。いくらカイくんの頭がいいからって、さすがに宿題をやってもらっちゃうのは、お姉ちゃんとして駄目な気がする」

 とはいえせっかくの好意を無にするのも悪い。義理と人情の板挟みだ。だが結局鈴蘭は強く己の意志を貫くことにした。


「やっぱり自分で頑張ってみるね」

 胸を張って宣言する。それでも分らなかった時はカイに教えてもらおう、という補助案はひとまず黙っておくことにする。

「スズ、三澤勝也まさやとかって奴知ってるか?」

「へ?」


 決意も新たに問題集に立ち向かったのもつかのま、予想外の問いが飛んできて思わず間抜けな声を上げてしまう。

「三澤って、わたしのクラスの三澤のこと?」

 わけも分らず問い返すと、奥の事務机にいたこうはくじにでも当たったみたいに指を鳴らした。


「同じクラスか。そいつは話が早くていいや」

 母親が北方系である恒の肌は白く、髪は薄茶色で、瞳は鮮やかな翠である。

 薄笑いが軽薄な印象を与えるが、実際、暇さえあれば情報収集のためと称して女の子に声を掛けに出かける困り者だ。

 しかしこれでもれっきとしたフアレス=あかつき両国政府公認の強制執行代理官にして、明月あかつき強制執行代理所の所長である。


「どんな奴だ? セックスとか好きな方か? スズもそいつとやったことある?」

「セッ……」

 鈴蘭は絶句した。ついで頬を真っ赤にして全力で抗議する。

「そんなの知んないよ! なんてこと訊くんだよ、コウくんの馬鹿、エロ!」

「いてっ」


 恒は呻いた。隣の席の蓮児に蹴られたのだ。

 蓮児はアカツキの副所長である。鈴蘭が事務所に出入りするようになったのも兄の存在による。

「晶ちゃんが来たらに言いつけてやるんだから」

 腹いせの復讐を予告してから、鈴蘭は気を取り直して尋ねた。


「それで三澤がどうしたの?」

「捕縛依頼がきた。容疑は性的暴行未遂」

「ふうん、そうなんだ。三澤が性的暴行……って、なにそれ!?」

 余りに異次元の情報に、頭の中が置いつかない。


「詳しいことはまだ分らないけど、ゆうべ百春町で担任の女教師に襲いかかろうとしたとかって話だ。ガキのくせに、なかなかつわものだな」

「和泉先生に、三澤が? そんなことってある? 確かに三澤は自分勝手だし、乱暴だし、先生とも仲が悪かったみたいだけど……」

「了解。人違いってこともなさそうだな。早速行って捕まえてくるか」

「でも」


 鈴蘭はうつむいた。思い出すのはきのうのことだ。

 一度目は睨まれて自分から手を離した。二度目は荒っぽく振り払われた。三度目は差し出された手を取ろうとして果たせなかった。

 じゃあ四度目は?

 いつか、そんな時が来るのだろうか。

 そっと視線を落とした先に、横から小さな手が重ねられる。


「カイくん」

 カイは柔らかな力で鈴蘭の手を握った。濃紫色の瞳が静かな光を湛えて語りかける。

「難しく考えないで。自分の心を信じて、スズが正しいと思うことをすればいいと思います」


「そう、だよね。よし決めた! お願いコウくん、わたしも一緒に連れてって。三澤と話がしてみたいの」

「あん? 遊びに行くわけじゃないぞ?」

 恒が分りきった念を押す。鈴蘭はお腹に力を入れて答えた。

「わたしは真剣だよ。きっと何かの誤解だと思う。三澤がそんなことするはずないもん」


 根拠は自分の勘だけだ。普通の大人が相手ならとても説得できる自信はないが、恒は案外簡単に頷いた。

「まあいいや。今から出るぞ。スズはあんまり邪魔すんなよ」

「待て」

 しかし立ち上がろうとした恒の肩を、蓮児ががっちりと押さえ込んだ。


「俺が行く」

 まるで仇を捉えたかのような握力に、恒は顔をしかめる。

「いてて……なんだよ、お前が行ったって意味ないじゃん。現場にいて警察に通報した男がいるからさ、蓮児はそっちの話聞いてこいよ」


 身柄を拘束するなどの強制執行権限を持っているのは代理官だけだ。その他の所員による実力行使には、必ず代理官立ち会いでの直接指示が必要である。つまり蓮児だけでは三澤を捕まえることができない。


「俺が行く」

 蓮児は断固たる口調で繰り返した。恒の肩にぎりぎりと指先をめり込ませる。

「そのなんとかいうガキのことは、俺がきっちり白黒つけてやる。もちろん鈴蘭には指一本触れさせん。文句があるか、所長?」

 副所長の提案を所長は諾々と了承した。

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