第1話 その2
「み……」
見た? と訊きそうになったけれどこらえる。たぶん余計に気まずくなるだけだ。
もういいから早く帰れば、と言いたかった。一緒に掃除をするのはあきらめた。
だが三澤は半端に手を前に伸ばした格好で鈴蘭の様子を窺っている。
意味が分らず鈴蘭は瞬きをした。三澤はいったん手を引っ込めて、だが今度はもっと傍近くへと差し出した。
「……立てるか」
思わずその手を見つめてしまう。
鈴蘭は三澤のことをほとんど知らない。話し掛けたのも今日が初めてだ。
大体いつも怒ったような顔をしていて、今もわりとそういう感じだけど、実は瞳が意外と優しい色をしていることに気付く。
断るのも、悪いもんね。
「うん。ありがと」
鈴蘭は遠慮せず三澤の手を借りようとした。
「こら、何してるの!」
そして思い切り空振った。
背後から尖った叱責が飛んできた瞬間に三澤の手が引っ込み、目先の支えを失った鈴蘭はあえなく前につんのめった。咄嗟にしがみつこうとした黒ズボンも敏捷に後ろに退り、ついに廊下に四つん這いになってしまう。
生徒用のゴム底の上履きとは明らかに違う、硬いヒールの音が近付いてくる。それは鈴蘭の脇でぴたりと止まった。
「
綺麗に化粧が施された顔を、鈴蘭は見上げた。担任教師の和泉は、鈴蘭には気のない視線を返しただけで、三澤へと向き直る。
「三澤君、職員室まで来なさい。女子に暴力を振るったことであなたを処分します。嘘も言い訳も聞かないからそのつもりでいなさい」
「ええっ?」
驚いて声を上げたのは三澤ではなく鈴蘭だ。
確かに三澤のせいで少しばかりお尻を痛くした。だけど最初に手を出したのは自分だし、そのあとのぎこちない態度からしても、彼に鈴蘭を傷つける意図がなかったのは明らかだ。
「先生、あのっ」
誤解を正そうと口を開くが、肝心の三澤は黙って踵を返している。
和泉は顔をしかめた。
「待ちなさい!」
だが待たない。廊下を行く背中は、大人しく教師に従うことを完璧に拒否していた。
「ほんと、小生意気なガキだわ」
和泉が舌打ちする。自分が怒られたわけでもないのに、鈴蘭は首を竦めてしまう。
若い女性ということもあり、和泉に対して友達感覚で接する生徒も多いが、鈴蘭はいまひとつ苦手である。
それでも。
「先生、三澤君のことですけど」
鈴蘭は頑張って訴えることにした。
正直、さっきの態度はないと思う。「暴力を振るった」なんて一方的に非難されて怒るのは分るとしても、あれでは余計に立場を悪くするだけだ。
間違った話が広がって鈴蘭が「被害者」にされるのも嬉しくないし、ここは自分が事実を伝えるしかない。
「ああ、氷川さん」
和泉はおざなりな様子で鈴蘭を見下ろす。
「怪我はしてないみたいね」
「はい、大丈夫です。さっきのは全然たいしたことじゃなくて」
「あなたも気をつけなさいよ。ちょっとぐらい可愛いからって調子に乗らないように。男子にふらふら色目を使ったりして面倒事になったら周りが迷惑するんだから。分ったわね」
「……わたし、そんなこと」
してません、と言い終える暇もなかった。現れた時と同様、硬いヒールの音を鳴らしながら和泉は歩いていってしまった。
「もう、ひどくない?」
鈴蘭は思わず口を尖らせた。三澤も和泉もどうして人の話をちゃんと聞かないのか。それに考えてみれば三澤には結局当番をサボられてしまった。
「あの……氷川さん、掃除するから」
「そうだよ。お掃除はちゃんとしないと駄目なんだから……って」
今度は誰かと振り向くと、箒を手にした同じ班の男子が困ったような顔をして立っていた。
しまった、と思う。これでは自分もサボっているのと同じだ。
三澤とは違って真面目らしい男子に、鈴蘭は誠意を持って応対する。
「ごめん、廊下の真ん中にいたら邪魔だよね。わたしもすぐ手伝うから」
「うん。それとさ、余計なことかもしれないけど」
「なあに?」
「スカートで、その格好はどうかと思う」
さっきからずっと四つん這いの体勢でいたことに気付き、鈴蘭は激しく赤面した。
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