1章「美味しいティラミスはどこですか?」(2)

 今日はなんか駄目っぽいな。

 立ちっぱなしのさらしっぱなしで冷えきった足を引きずり、二十四時間営業のコーヒーショップの横手に伸びる細い路地へすべりこむ。路地の入り口から数えて四軒目の店舗に、麻耶は正面から入った。エントランスには『BROCANT DE LA MORTブロカント・デ・ラ・モール』と刻まれた真鍮しんちゅう製のプレートが掛けられている。

「いらっしゃいま……って、裏から入りなさい、てあれだけ言ってるでしょ」

 店主の嘉神かがみが、帳簿から顔を上げて麻耶の無作法をたしなめた。出かけた営業スマイルが、つるりとした瓜実顔うりざねがおの上で行き場を失くして歪んでいた。

「ごめんごめん、嘉神ママ」

 謝りつつ麻耶は、嘉神の美貌をしげしげと眺めた。

 このルックスでアラフォーなんだもんなあ。

 明るい茶に染めたショートボブに、彫りが深い顔立ち。モデル顔負けの引き締まった長身のおかげで、ダークカラーのパンツスーツを無理なく着こなしている。

「けどさ、こんな時間まで店開けてたって、客なんて来ないんじゃない?」

「来るかもしれないでしょ、明日結婚する娘に嫁入り道具を持たせようと、親御さんが駆け込んできて」

「ボロいサイドボードをお買い上げ? ないない」

 テラコッタの床タイルが敷き詰められた店の中は、統一感を欠いた家具や装飾品と、間接照明が放つ飴色あめいろの光で満ちていた。壁際のマントルピースには双子の白人姉妹を写した古いダゲレオタイプと左手を欠いた博多人形とが仲良く並ぶ。エジプト螺鈿らでんのオクタゴンテーブルにはジュエリーケースが載せられ、煙管きせるの吸口、ハットピン、ティカ、カメオなどの雑貨小物が詰めこまれている。背の高い年代物の柱時計が静かに時を刻み、その手前に置かれたレディメイドのダイニングセットは新たな主を待ち詫びている。

「手ぶらってことは、今日はもうギブアップ?」

「駄目。辛党ばっか」

 純粋にデートが目当ての客を、嘉神は辛党と呼ぶ。その癖は麻耶にも伝染していた。

「もうあがるね。明日も学校あるし」

 麻耶はカウンターの上に、鈍色にびいろのカプセル型ピルケースを置いた。

 ケースをつまみ上げた嘉神が、あら、と意外そうな声を上げた。

「夕方に一人、付いたわよね。『毒りんご』は使わなかったの?」

「自分の工場で死にたいって言いだしてさ。クレーンにロープを結んで、キュッと」

 革手袋をはめた右手で、麻耶は自分の首を絞める真似をする。

 現地へ到着するなり興奮して脱衣したのは、故人の名誉のため伏せることにした。

 死を目の前にして奇行に走る客は、決して少なくはない。拾った石で歯を叩き折り、「記念にあげる」と麻耶にプレゼントした客もいたし(もちろん後で全部捨てた)、路上で突然自慰をおっ始めた客に遭遇した(これはしたいようにさせた)こともある。

「それなら明日は大騒ぎなんじゃないの、その工場?」

「とっくに潰れてぼろぼろだったから、誰も来ないんじゃない?」

 ふうん、と嘉神はボールペンを手にしたまま腕組みをした。

「死にたい理由は、借金を苦にしてってとこかしら」

「言ってた言ってた。生命保険で借金をチャラにしたいって。奥さんや子どもにもちょっとはお金が遺せたらいいなあ、てさ」

「じゃあ死体が現場に無いとまずいわね。保険金が下りないわ」

 ボールペンの軸先が、麻耶へ向けられた。

「それ、杉田と後谷ごうたにには伝えた?」

「……あ」

 嘉神は無言で、胸ポケットからスマートフォンを抜いた。



「鳴ってますよ、マサトさん」

 脂光りのテーブルで振動するスマートフォンを、後谷みつるが箸で指した。

「はい、杉田……え、戻せ? 遅いですよ、ナタ爺に引き渡したの、一時間前ですよ」

 ラーメンをすする手を止めて応対した杉田将人まさとが困惑の声を上げ、指でつまむのも難儀するほど短く刈りこまれた頭をがりがりと掻きむしる。雲脂ふけがぱらぱらと、筋骨隆々の体を包む紺の作業着に降った。

「どうしてそんな……ああ、そうですか……そっすね、じゃあ無かったことで……ええ、ええ……今メシ食ってるんで、もうちょっとしたら……はい、お疲れ様です」

 通話を切り上げた杉田に、後谷が「何かトラブルっすか?」と恐々こわごわ訊ねた。

「麻耶がポカやりやがった。回収しないで現場に残しておかなきゃいけなかったんだと」

 嘉神から聞いた話を、杉田は手短に説明した。

「まずいっすよ、それ。今すぐナタ爺のところに戻らなきゃ」

 慌てて腰を浮かせた後谷を、杉田は鷹揚おうような手つきで制した。

「遅いだろ、もう。ナタ爺が仕事に取っかかる早さは知ってるだろ? あのおっさんも今頃、人間の形をしてるかどうか。どうする、駄目元で引き取りに行ってみるか?」

 いや結構っす、と後谷は奥歯で蟋蟀こおろぎを噛み潰したような渋い顔で座り直した。

「で、結局どうするんすか?」

「どうもこうもないさ。あのおっさんは失踪者リスト入りだ。オーナーもそれでいいってよ。苦情が入るとすれば、おっさんが化けて出たときだけだ」

「オーナーとマサトさんがそれでいいってんなら、いいですけど」

 スープだけが残る丼に、後谷の溜め息が落ちた。

「肝心なとこが抜けてんすよねえ、麻耶って。こないだにしても、道のど真ん中で客に『毒りんご』食わせちまうし。たまたま人通りが無かったからよかったようなものの、一歩間違えれば大事おおごとっすよ」

「だからこそ、俺たちケツ拭き要員の立ち回りが重要ってこった」

「女子高生のケツ拭くって、なんかやらしいっすね」

 アホか、と杉田が小突く真似をした。

「それにしてもあのおっさん、犬死にもいいとこっすね。こうなると知ってりゃ、もっとマシな死に方もあったでしょうに」

「どうだかな。途中から保険金なんてどうでもよくなったんじゃねえかな。一生でたった一度しか味わえない究極のスリルを存分に味わって、満足したのかもしれねえぜ」

「テーマパークのアトラクションじゃないんすから」

 一口サイズの餃子ぎょうざ頬張ほおばる後谷を見て、杉田は片頬を上げる。

「いい加減、慣れちまえって。心と鼻を麻痺させちまえば、あとはブツを運ぶだけの簡単な仕事だ。ナタ爺の解体作業を見学した後でホルモン焼きが食えれば一人前だ」

 こんな仕事で一人前になっても、誰も褒めちゃくれないけどな。

 せり上がった自嘲を、杉田は伸びかけの麺と一緒に喉の奥へ押しこむ。

 店の小型テレビでは、とうが立った女性アナウンサーが無感情に、陰惨なニュースを報じている。大手企業幹部の横領。閑静な住宅街で起きた一家惨殺。有名人の麻薬所持。遠い大陸の森に墜ちた旅客機。海の向こうのテロリズム。

「異常が正常なんだよ、俺たちの仕事に限らずな」

 楊枝ようじで歯をせせりながら、杉田は油でぎとぎとの天井を仰ぎ、また頭を?いた。

 ニュースは天気予報に切り替わっていた。お天気お姉さんがにっこり微笑んでいる。

 明日は晴天に恵まれるでしょう。








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