1章「美味しいティラミスはどこですか?」

 めっちゃ興奮してるよこの人、ギンギンだよ─。

 スマイルスマイル。

 夜見川麻耶よみかわまやは、春風に揺れる花のように笑む。


 紺色の空に、満月だけが冴え冴えと白い。

 月光が射しこむ廃工場の中で、麻耶は四十絡みの男と正対していた。

 かつては鋼材が所狭しと並んでいた床には、飲み食いのゴミとがらくたが足の踏み場もないほど散乱している。

 木製のスツールに立つ男の首には太いロープの輪が掛けられ、反対の端はクレーンのフックに結わえられている。歯の隙間から白い息が間断なく漏れる。男は全裸であった。締りのない貧相な裸体を、びっしりと鳥肌が覆っている。

 スツールの上でもじもじする全裸男を、麻耶は大きな瞳でにこやかに見上げる。胸にはハンバーガーチェーンのロゴが印刷された紙袋を抱えている。手付かずのチーズバーガーがほんのりと温かい。太腿ふとももに貼りつけた絆創膏からにじんで垂れた血がニーハイソックスを汚していたが、彼女はまるで気にしていなかった。

「ぶら下がった途端、切れたりしないかなこれ。ねえどう思う? どう思う?」

「心配しすぎなんじゃない? 大丈夫だってば、新品なんだし」

 麻耶の気休めに、全裸男が深々と息を吐く。

「ここ一番って時に限って失敗やトラブルが起きるんだよね、俺の人生。高校入試の時は乗ってたバスが事故るし、仕事では納品の前日に取引先が潰れちまうし。ああ、本当に大丈夫かなあ。心配だなあ。心配だなあ。しくじったりしないかなあ」

「じゃあさ、失敗の予想を変えてみない?」

 くどくどしい泣き言を、麻耶の明るい声が断ち切った。

「ロープが切れるんじゃなくて、クレーンが落っこちちゃうの。鉄の塊がどかーんと落ちてきたら、頭なんてひとたまりもないでしょ? それはそれで結果オーライじゃん」

 全裸男はゆっくり真上へ顔を向けた。塗装がまだらにがれ落ちたクレーンが、闇を溶かした天井から冷たく男を見下ろしている。

「あは」と、全裸男の口から笑いが漏れた。

「そうか、結果オーライか。首が絞まってもよし、頭が砕けてもよし。ははは、結果オーライ、はははは」

「あはははは、オーライオーライ、あはははは」

 全裸男と麻耶の笑声しょうせいが、廃墟の闇に吸いこまれる。

 結果オーライを十二回繰り返し、男が麻耶を見据えた。きらきらと澄み切った瞳は、焦点がすっかり飛んでしまっていた。

「ああ、俺どこに行けるんだろう。地獄かな天国かな。どんな世界が待ってるんだろう。麻耶ちゃん、ちゃんと見届けてくれよ。俺が最期にどんな顔するか見ててくれよ」

「オッケー、任せて! 写メも撮っちゃう」

「絶対だよ絶対。あ、そのチーズバーガー食べちゃっていいから」

「うん、あとでもらうね」

 お客さん、そろそろ時間です。お忘れ物のございませんよう。

「それじゃあ、いいい逝ってくるっ!」

「逝ってらっしゃーい」

 裸の足がスツールを蹴る。クレーンの鎖が甲高くきしった。



「ねえ、あたしとのデート楽しかった?」

 麻耶の声は、絶叫マシーンの感想を恋人に訊ねるかのように弾んでいた。

 きっと楽しかったよね、ロープも切れなかったし。

 全裸男の痙攣けいれんは、既に止まっていた。

 ダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、約束通り全裸男を撮影する。

 弛緩しかんしきった男の顔は、空の月より蒼白かった。

 断末魔に漏れ出した糞尿ふんにょうから立ち昇る汚臭が、工場のさび臭さと混ざり合う。

「臭いもきついし、あたしそろそろ行くね」

 あ、そういえば名前訊いてなかったっけ。

「ばいばい、おっちゃん」

 シャッターから潜り出て、携帯電話でワンコール。

 通話終了ボタンを押すと、物陰から人影が二つ、ほとんど足音を立てずに現れた。

 中背の筋肉質とコマネズミのごとき短躯たんくの金髪頭。

 二つの影は麻耶をちらりとも見ず、廃工場の闇へ消えていった。

「そんじゃ、あとはヨロシクってことで」

 冷め切ったハンバーガーの包みをぼろぼろに錆びたドラム缶へ放り入れ、麻耶は工場から立ち去った。人懐っこい笑みはとっくに消えていた。

 くたびれた工場や倉庫の群れをすり抜け、商業ビルの谷間を縫いながら二十分ほどを歩き、量販店やサブカルチャーショップ、飲食店に風俗サービス店などが無節操にのきを連ねるS町へと辿り着く。町を東西に割る金物屋通り、通称「デート通り」の混沌としたざわめきが麻耶を呑みこんだ。

「昨日のテレビでさ」「飯どこにする?」「いらっしゃいませぇ」「再放送いつだっけ?」「毛ジラミじゃね?」「限定販売のボックスが」「一時間四千円ポッキリ!」「あの女ヤバくね?」「マッサージ、ドデスカ?」「レポート忘れてた」「ですからその内容では稟議りんぎが」「新機種欲しいな」「吐きそう」「終電までには帰るってば」「寂しい」

 行き交う人の波と、客引きの売り声を搔き分け、適当な場所を確保して、A4サイズの黒いビラをラミネートしたメニューカードを胸の前に掲げる。

 目立ち過ぎないように、しかし埋もれてしまわないように。

 寒くなってきたなあ。

 デニム地のミニスカートの裾から冷気が忍びこみ、身震いが全身を駆け抜けた。

 斜め向かいの同人ショップの店頭に立てられた、クリスマス限定ボックスの予約受付を告知するポップサインが視界に飛びこむ。まだ十二月にもなっていないのに、ちまたはクリスマスの装いを見せ始めていた。

「じんぐるべーる、じんぐるべーる、か」

 歌詞が曖昧になり鼻歌へ変わった頃合いに、目鼻と感情の凹凸を欠く馬面が、メニューカードを覗きこんでいた。

「これ、リフレ?」

 肉体労働とは縁が遠そうな細い指が、金文字で記された宣伝文と料金をなぞる。


 デートクラブ『あずらえる』 キュートな女の子と楽しくデート!

 一時間 二万円~


「ぶー、不正解。お散歩でーす」

「二万」馬面が親指の先をくわえる。「裏オプとか、あるの?」

「お散歩だけだよ」

 馬面が歯茎はぐきをむき出しにして爪をがりがりかじる。

「散歩だけで二万?」「そう」「本当に裏オプ無いの?」「無いよ」「追加でいくら払えばいい?」「だから無いってば」「一万足す」「無いって」「二万」「しつこい」「ヤラせて」「マスでもかいて寝れば?」

 にべもなく断ると、馬面は「クソビッチが」と捨て台詞を吐いて去っていった。

 ビッチじゃないし。

 胃袋が、ぐう、と鳴った。

 やっぱりチーズバーガー食べておけばよかったかな。

 それから二時間粘ってみたが、寄ってくる男たちはことごとく麻耶をうんざりさせた。

 ううん家出とかじゃなくて。一万って無理まけられない。言葉責めならそういう店行きなよ。エリちゃんってそれ人違い。店で働く気無いよ。お祈りは間に合ってますから。

 聖書を大事そうに抱えた中年女性が去ると、麻耶は深々と息を吐きだした。

 鼻の下をでろんでろんに伸ばしたスケベ面にも冷やかしにも慣れてはいるが、あまりに続けばあしらうのにもくたびれてしまう。

 ティラミスが美味しい店を訊いてさえくれれば、愛想良く応えてあげるのに。

『じゃあ、お散歩しに行こっか。気持ちが高まったら教えてね☆ アナタの死にたい願望、ばっちり叶えちゃいまーす!』

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