1章「美味しいティラミスはどこですか?」(3)

 黄ばんだレースのカーテン越しに、弱々しい朝日が射しこむ。

 朝のニュース番組が紹介する最新トレンドをぼんやり眺めながら、麻耶はオレンジジュースを片手にあんパンをかじっていた。

 S町の最寄り駅から電車で十五分。そこから歩いて十分の場所に建つ古い木造アパート。麻耶が彼女の母親と住んでいるのは、外階段を二階へ上がって一番手前の部屋である。

「布団に行きなよ、ママ」

 麻耶はジュースを飲み干して、アクリル毛布にくるまって眠りこける母親に声を掛けた。

 ルージュが塗られたままの母親の唇には、かぴかぴに乾いた吐瀉物としゃぶつがこびりついている。畳の上の小間物は前夜にあらかた拭き取ったものの、酸っぱい臭いはほんのり漂っていた。

「風邪ひいちゃうよ。布団入りなってば」

 もう一度声を掛けると、返事代わりのいびきが鳴った。

 ジュースの空パックとパンの袋をゴミ箱へ片づけると、麻耶はテレビを消し、ブラウスの上にセーターを重ね着した。胸元にリボンを巻いてブレザーを羽織り、フリンジが付いたベージュのストールを首に巻く。

 洗面台に立って、身だしなみをさっとチェック。

 ウロコ汚れに浸食された鏡の中で、猫顔の瞳がくりくり動く。

 生まれつきの焦げ茶髪をさっと手櫛で整える。前髪は作らず、左右にさっと分ける。

 麻耶は学校ですっぴんを通していた。せいぜい、唇にリップを塗る程度である。制服は着崩さず、スカートは膝上三センチをキープ。膝と脛(すね)は紺色のハイソックスで隙なく隠されている。手にしっくりとフィットする白手袋をはめれば、身支度は完了である。

 筆記用具だけが入ったぺたんこのスクールバッグを?み、黒いスクールローファーへ爪先つまさきをねじこむ。

「行ってきまーす」

 母親に声を掛け、家を出る。応えが無いのには慣れている。

 朝の七時半。サラリーマンや学生の姿は、電線に止まる雀の数よりも少ない。

 危なっかしい操縦でよたよたと自転車を漕ぐ老婆とすれ違う。麻耶の接近に泡を食った様子で老婆がブレーキを掛けると、耳障りな摩擦音が朝の住宅街にこだました。

 八百屋の店先では、朝っぱらから不景気顔の老店主がくわえタバコで積み荷の段ボール箱を下ろしている。浅黒い腕には大ミミズのごとき血管が這っている。

 白髪頭をひっつめにしたエプロン姿の女性が、竹箒たけぼうきで門柱の前を緩慢に掃きながら「おはよう」と声を掛けてくれる。佃煮の香りがふんわり漂った。

 年経た住居がいらかを並べるこの街には、若者よりも年配者のほうが圧倒的に多い。個人経営の店舗はあれやこれやと工夫して、チェーン経営のスーパーやホームセンターと巧みに折り合っている。年配者を除く住人は、新築の一軒家を諦めたサラリーマン一家か、ボロアパートに居を構える学生や低所得者が大半である。

 道沿いに設置された町内会の掲示板には、防犯を呼び掛けるポスターや住民への各種通達、イベント告知のビラが貼り出されている。ボランティアサークルが主催するクリスマス会の告知に描かれた稚拙なサンタクロースが「来てね!」と気さくに呼び掛けていた。

 ゴミステーションから這い出した生ごみの臭いが麻耶の鼻を打った。駅へと向かう足がわずかに速くなる。

 バッグのやり場に悩む程度に混んだ通勤電車に揺られ、四つ目の駅で下車する。駅舎から吐き出された人波が崩れ、それぞれの朝を目指して散っていく。

 同じ制服の波に紛れて十分ほど歩くと、築四十年超の鉄筋建て校舎に到着する。前庭や昇降口のあちこちでは、数えきれない数の挨拶が交わされていた。おはよう、ういっす、おはようございまーす、おはー、グッモーニン。

 内履きに履き替え、麻耶は三階の教室を目指して階段を昇る。彼女が通うこの高校では、学年と教室の階数が逆転している。一年生は三階。三年生は一階。あと半年足らずで階段を昇る辛さが軽くなると思うと、急に春が待ち遠しく思えた。

 一年六組の教室へ入り、麻耶は誰ともおはようを交換せずに窓際の自席へまっすぐ向かう。クラスメイトたちは雑談をしたりスマートフォンをいじったり携帯ゲーム機で遊んだりと、ホームルームまでの時間をめいめいに過ごしている。

 麻耶の斜め前の席では、学年トップの成績を誇る上山理華かみやまりかが予習に勤しんでいた。「上山さん、おっはよー!」と数名のクラスメイトが寄ってきて、たちまち理華を取り囲む。

 理華もまた麻耶同様、少数派勢力「すっぴん派」の一員である。成績優良に加えて性格は温厚。教師受けはすこぶる良いが、学校行事などでクラスの中心に立つ場面は皆無で、地味な生徒たちと一緒になってひっそりと学校生活を送っている。洒落っ気に欠ける点を除けば、麻耶と理華との間には共通項も接点も無かった。

 白手袋をはめたまま麻耶は?杖をつき、大きく欠伸あくびをした。

 眠い。それも半端でなく。

 いくら目元に力を込めても、まぶたが勝手に下がってくる。就寝が遅いのは『あずらえる』に出勤した日の常だが、前夜は母親が口から出産した液体の始末があったため、寝床に入ったのは二時過ぎであった。

「また出たんだって、マスク男。聞いた?」

「うんうん、三組の連中から聞いた。デリヘルの人妻だってね」

 ゴシップ好きの女子たちが窓際で固まり、噂話に花を咲かせている。

「グーパンで顔面殴られて鼻血ダラダラ。おまけに、あちこちアザだらけだってさ」

「おっかねー。あたしらもやられんのかな」

「あたしらは大丈夫っしょ、襲われてんのババアばっかだし」

「つかさ、二十一世紀生まれの連中から見たら、あたしらもババアなんだろうね」

「あー、年取りたくないなー」

 マスク男なる怪人物については、麻耶も耳に挟んでいた。通り名のとおり大きなマスクを着けた男が、夜な夜な女を襲うのだという。

 マスクで顔面の下半分をすっぽり覆った男であるという点を除いて、怪人物の特徴については語られることはない。いつ、どこに現れるのかも定かではなかった。神出鬼没の通り魔。女子高生好みしそうな都市伝説の主役として、マスク男は適役といえた。

 朝っぱらから元気だなあ、この子たち。

 ひときわ大きな欠伸が出たかと思うと、溶けたチーズのようにねっとりした睡魔に為す術もなく引きずりこまれた。

 目を覚ますと、クラスメイトは全員が行儀よく着席していた。喧騒の残骸が教室に散らばっている。

 教壇では公民担当の田丁たちょうが、出席簿を片手に出欠を確認していた。ひょろ長い体?と丸いギョロ目が印象強いこの初老の教師は、苗字をもじってダチョウと渾名あだなされている。

 あれ? 一時間目って英語じゃなかったっけ?

 壁掛け時計を見ると、時計の針は十時半を指している。夢の世界の滞在は、ホームルームどころか、一時間目の授業にも及んでいたらしい。

 口の端から垂れたよだれを拭い、ぐるぐる回る頭が収まるのを待つ。そういえば、背中をペンか何かで突かれたような気もする。音読を当てられたか、はたまた居眠りを見かねた教師が後ろの生徒へ起こすように命じたか。

「はーい、それじゃ授業始めまーす」

 ダチョウが一声いた。

「今日は、生存権の対概念ともいえる『死ぬ権利』について触れたいと思います。世の中が豊かになり生活水準も向上しているのに、なぜ自殺が後を絶たないのか。たとえ自らの命であっても、それを奪う自由は果たして認められるのか。そういったところに触れたいと思います。えー、さっき配ったプリントを――」

 麻耶が眠っている間に、プリントは回されていた。インクがほのかに香る紙面には、明朝体で『尊厳ある死の是非について』と題字が印刷されている。

「――近年、先進国を中心として、難病で苦しみ延命措置より死を望む人に限定して、合法的な安楽死を認める国や地域が増えています。オランダでは医師の判断で安楽死が行われており、えー、スイスにおいては自死介助を行うNPO団体が活動しています。介助を受けるには厳正な審査通過が前提であるのに加え、お金が必要となるのですが――」

 ダチョウが口にした金額は、『あずらえる』が提示する金額より高かった。

 うちのほうがお得じゃん。日本語通じるし。非合法だけど。

「――日本においても人間の尊厳ある死については、半世紀前からその是非が議論されておりまして、えー、消極的安楽死、例えば延命措置の停止などは条件付きで是とされるようになりましたが、薬物などを用いた積極的安楽死は未だに認められておりません。プリントの集計結果を見て分かる通り、自殺件数は漸減傾向ながらも未だ高い水準にあり、殊に健康問題や身体障害による悩みから自死を選ぶ人の割合は、総数の半数以上に及び――」

 そういえば前にいたなあ、と麻耶は思い起こす。

 定期的に眼の奥をえぐられるようなひどい頭痛に悩まされてた客。

 鉄工用のドリルで後頭部に穴を開けて、脳みそをかき混ぜてあげたんだよね。

 ヘアワックスの匂いがきつかったのはよく憶えてるけど、どんな人だったっけ。

「と言うものの、やはり自らの命を自らの手で絶つという行為は、いかな理由があろうとも許されざる行為なのであります。アメリカで行われた調査によれば、一人の死で七人の人間が悲嘆するといいます。死は本人の問題に留まるものではありません。周囲にも少なからぬ影響を及ぼすのです。皆さんも命の重さを重々自覚し――」

 クラスメイトのうち何人かの視線が、廊下側の空席に集まっていた。

 西村拓馬のしむらたくま。出席番号二十三番。行年ぎょうねん十六歳。死因、ドアノブに掛けたタオルで縊死いし

 座る者がいなくなった席に、弔花が供えられなくなったのはいつからだろう。

 一人の少年の死は、炎天下で動物の死骸が朽ちるのと同じくらい早く風化していた。

 命の尊さや生き抜く権利といったダチョウの説教を聞き流しながら、槍を持ったハンターに追われる駝鳥だちょうの落書きでプリントの余白を埋めていると、バッグの中で携帯電話が震えた。

《今日は出られそう?》

 ディスプレイに表示された簡素な文面に、麻耶は打鍵音を忍ばせて返信を打った。












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