エピソード1【おとなりさん】③
* * * *
――数日後。
ドンドン――!
ドンドンドン―――!
「あぁ……」
あ~、もう。
まただ。
また、始まった。
「ほんとに、もう、なんなのよ……」
そう。
いまも変わらず、おとなりさんは毎日、毎日、壁を叩いてくる。
全く……久しぶりに、ミカと2人きりなのに。
「一日ぐらい静かに過ごさせてよ……」
実は今日、タカシとお義母さんは、2人で歌舞伎を見に行っている。
どうやら、お義母さんが、雑誌の懸賞でチケットを当てたらしい。
ていうか!
ていうかさ!
いい歳した男が、母親と一緒に見に行くなっつーの!
ま、まあ、だからと言って、私がお義母さんに誘われても、100%断ってたけど……
おっと。
おっと、おっと。
おっとっと。
今日は、イライラしないって決めたんだっけ。
だって、今日は、ラッキーデーなんだから。
あ~、幸せ。
今は、まだ夕方の5時でしょ。
確か、歌舞伎の公演は、6時のはず。
帰ってくるのが、早くても9時ぐらいだろうから。
あ~、ほんと幸せ。
誰にも気を使うことなく、夜まで過ごせるなんて。
なんて!
なんて幸せなのぉぉぉぉ~~~~!!
「ただいま」
へ?
「エリコ、帰ったぞ」
「帰ったわよ。エリコさん」
でぇぇぇぇ~~~~!!
早いぃぃぃぃ~~~~!!!!
な、なんで!?
なんで、こんなに早いのよ!?
公演は、6時からでしょ!?
今は、まだ5時よ!?
どう考えても計算が合わないじゃないの!!
「あ、あの」
私は、愛想笑いを全面に浮かべながら、急いでお義母さんに尋ねた。
「きょ、今日は……9時ぐらいに帰ってくる予定じゃ……」
「あぁ」
実はね、とお義母さんは言った。
「このチケット、来週のだったのよ。1週間、間違えてたみたいだわ」
「そ、そうなんですか、ハ、ハハ……」
ぬぉぉぉぉ~~~~!!
バカじゃね~のぉぉぉぉぉぉ~~~~!!!!
そんなミス、普通する!?
しかも、2人行って、2人とも気づかないってどうよ!?
遺伝!?
そのバカさは、遺伝なの!?
穏やかだった私の心は、まさに瞬間湯沸かし器のように急激に高熱を発し始めた。
止まらない。
イライラが止まらない。
一瞬でも、夢のような時間を想像した自分が浅はかだった。
天国から地獄。
その落差のせいか、憂鬱感は普段より何倍にも膨れ上がっていた。
今、もし私の前に青鬼が現れたら、きっとこう言われるだろう。
『おっ、きみ、なかなか、真っ青な顔してるね。心の中まで真っ青じゃん。僕といい友達になれそうだね』
と、言われるほど、全てがブルーでおおいつくされているだろう。
すると、そんな青鬼もどきの私に向かって、
「おい」
タカシが、尖った永久凍土のような冷たい声で言った。
「夕食の支度は、まだ出来ていないのか」
「え?」
私は目を丸くしながら、慌てて答えた。
「だ、だって、今日の夕飯は私とミカだけだと思っていたから、ファミレスでも行こうかなと思ってて……」
「何を言ってるんだ。おまえは」
バカか、とタカシは呆れ声で突き放すように言った。
「色々な場面を想定しろ。こういう状況も考えて、全員の食事の用意をしておくぐらい常識だろ」
さらに、お義母さんもその攻撃に加わってきた。
「そうよ。それに、ファミレスで夕食って何を考えてるの。栄養バランスも考えて、手を抜かずに、ちゃんと温かい料理を作りなさい。それにしても気がきかないわね」
「す、すみません」
…………って!!
なんで謝る!
わたしぃぃぃぃ~~~~!!!!
どう考えても、謝る必要ないじゃん!
だって、あっちが勝手に早く帰ってきただけじゃん!
ていうか、なに!?
こういう場面を想定しろって!?
じゃあ、こういうこと??
付き合って3年のカップルがいるとしようよ。
そして、彼氏がいきなり彼女に、
『俺、おまえと別れることを想定して、とりあえず、新しい彼女を作っといた』
みたいなもんじゃん。
そんなこと言う??
バカじゃん!
バカじゃん!
そんなのバカじゃん!
それに、なによ!
栄養のバランスを考えろって、たまにはいいじゃん!
ファミレスを、まるで一撃必殺の毒みたいに!
大好きなの!
私は、ファミレスが大好きなの!
ミカもファミレスに行くの楽しみにしてたの!
だいたいね、そういうあんたの息子はね、野菜は食べないわ、肉ばかり食べるわで、偏食すぎんのよ!
そっちのバランスも、どうにかしてほしいもんだわ!
あぁぁぁぁ~~、もう!
むかつく!
むかつく!
イライラする!
で、でも、とにかく、今はそんなこと言ってられない。
急いで夕食の用意をしなくちゃ。
はあ~……結局の所、もう条件反射的に体が屈する方向に動いてしまう。
なんだかんだ言って、おとなしく従ってしまう私。
まいった。
まいった、まいった。
これからも、ずっとこんな生活が続くのかな。
「はあ~……」
私はがっくりと肩を落とし、毎日恒例となっている大きな大きなため息を作り出した。
――すると、その時。
ガタガタガタ!――
え?
ガタガタガタ!!――
な、なに!?
何が起こったの!?
いきなり私の体は、強い強い揺れを感じ始めていた。
今まで味わったことのないような巨大な衝撃。
その非日常の違和感は、おとなりさんに壁を叩かれるような、そんな生易しいものじゃない。
「う、うそ……」
強い。
強くなる。
揺れがどんどん強くなる。
地震――
それは、一瞬で最大の恐怖に覆われるほどの、とてつもなく大きな地震だった。
規模にして、マグニチュード7ぐらい。
それほど、凄まじい揺れだった。
「ミカ!」
私は、とっさに愛する娘をかばおうとした。
不思議だ。
母親というのは不思議だ。
自分のことよりも、まず、お腹を痛めて産んだ娘の身を守ることが頭に浮かんだ。
守らなければ。
この子だけは、何が何でも絶対に守らなければ。
「ミカァァァァ!!」
ダダッ!――
私は、ミカに全速力で駆け寄った。
――だが!
「ミカ!」
ガバッ!――
え!?
タ、タカシ!?
そう。
私より一足早く、夫のタカシが、ミカをおもいっきり抱きしめた。
ガラガラガッシャャャャン!――
すぐ間近に倒れてくる食器棚。
しかし、そんなものは気にも止めず、タカシはミカを、体全てを使い抱きしめている。
「タカシ……」
あぁ。
やっぱり、タカシは父親なんだな。
私はテーブルにしがみつきその光景を眺めながら、ふと、そんなことを思ってしまった。
普段は、ミカと遊ぶことなんか全くないのに。
ミカの話すら聞こうとしないのに。
やっぱり、心の中ではミカのことを大好きでいてくれたんだね。
「タカシ……」
不思議だね。
こんな最悪の状況の時に、私はあなたのいいところを見つけちゃったよ。
そして……そして、なんだか今までのことが嘘のように好きになっちゃったよ。
付き合っていた頃の、あの時の気持ちを思い出したよ。
また昔のように大好きになっちゃったよ――
ガタガタガタ!――
だが地震は、まだその勢いを保ったまま変わらず続いている。
まるで地球の終わりが訪れるかのような。
一向に揺れが収まる気配がない。
まずい!
これは、まずい!
倒壊したら、瓦礫の下敷きになっちゃう!
と、とにかく、1秒でも早く、家から出なければ!
「タカシ! ミカを連れてドアに向かって!」
私は、大声で外へ逃げるように誘導した。
このままじゃ、すぐにでも家がつぶれてしまう恐れもある。
まさにとっさの判断だった。
――しかし!
グラ――
「え……?」
グラッ!――
「キャッ!」
私の目に映ったのは、揺れに耐えられず勢いよく倒れてくる大きな背の高い本棚。
ダメだ!
間に合わない!
逃げなきゃ!
早く逃げなきゃ!
で、でも、動かない!
恐怖が支配しているからなのか、体が硬直して足の指一本でさえ動かせない!
ダメだ!
このままじゃ、本棚に押しつぶされる!
私は、もう覚悟を決めていた。
ミカさえ、ミカさえ助かればいい。
本気でそう思い、死を覚悟していた。
――すると、その時!
「エリコさん!」
ガバッ!――
え!?
う、うそ!?
そう。
私の上に覆いかぶさってくれたのは、お義母さん。
包みこむように、全身で私を庇うように、お義母さんが私を守ってくれていた。
「お、お義母さん……」
ドォォォォン!!――
その直後、大きな本棚は勢いよく床に叩きつけられていた。
だが幸いにも、私たちに直撃しなかった。
気づけば、少し散らばった本が、腕や顔に当たった程度で済んでいた。
「お義母さん……」
なんで?
なんでなの?
私は、実の娘でもないのに。
あんなに、毎日いがみ合っているのに。
なんで、私を助けてくれたの?
「エ、エリコさん……大丈夫だった……?」
腰を痛そうにしながらも、ニコッと笑いかけてくれるお義母さん。
なんで……なんで、そんなに優しい言葉をかけてくれるの?
「お義母さん……」
もし、私が逆の立場だったら、同じような行動をできたのだろうか。
同様に体を投げうって、助けようとしただろうか。
そう。
その時、私はやっと気づいたんだ。
こんな状況になって、やっと気づいたんだ。
お義母さんが、私のことを好きでいてくれていた――
なのに、なのに、私はお義母さんのことを理解しようとしなかった。
悪いとこだけを大袈裟にとらえて、イライラをつのらせて、いいとこを全く見ようとしなかった。
「あっ……」
そうか。
それは、タカシに対しても同じことかもしれない。
家事や、子供のことに感心がなくても、タカシは私たちを養ってくれている。
守ってくれている。
マザコンに見えていたのも、ただ、親思いなだけ。
そんな、当たり前で素晴らしいことを私は見落としていた。
あぁ。
なんで、今になってこんな当たり前のことに気がつくんだろう。
タカシ。
お義母さん。
ミカ。
もし、この地震から無事に脱出できたら、家族4人仲良くしていこうね。
私は、もっと頑張るから。
妻として、嫁として、母として、いっぱいいっぱい頑張るから。
だから、神様。
私たちを、4人とも無事でいさせてください。
私はブルブルと震える体で床にうつぶせながら、激しい揺れにひたすら耐え続けていた。
――すると。
「あ、あれ……?」
静寂――
そう。
猛威を奮っていた地震は、今までの出来事が嘘のように一瞬で終わりを迎えた。
ミカ!
タカシ!
お義母さん!
私は当然ながら、急いで愛する人の安否を確認。
すると、奇跡的に3人とも無事だった。
まるで聖母マリアのバリアに守られていたかのように、目立ったケガは一つもなかった。
「よかった……」
ストン――
私はヘナヘナと全身の力が抜け、食器や本が散乱している床に座り込んでしまった。
良かった。
本当に良かった。
私の大事な家族が、1人も欠けることがなかった。
私の隣にいつもいる、タカシにミカにお義母さん。
みんな、大事なおとなりさん。
心の中のおとなりさん。
私の心の中にいる大事な大事なおとなりさん。
かけがえのない、おとなりさん――
あぁ。
神様。
ありがとうございます。
私たち家族を助けてくれて、ありがとうございます。
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