エピソード1【おとなりさん】②



* * * *



ドンドン!――

ドンドンドン!――――



「あぁ……」


まただ。

また始まった。


ハア――


大きな息の固まりを吐き出した私は、リビングのテーブルに肘をついて頭を抱えていた。


私の名前は、一条エリコ。

年齢は28歳。

現在は、3LDKのマンションに家族4人で住んでいる。


夫のタカシ。

几帳面で髪も服も常にピシッと整えているような、メガネがよく似合う35歳。


娘のミカ。

少しのくすみもない天使のような瞳を持つ、笑顔がとびきりかわいい3歳児。


そして、先週55歳の誕生日を迎えたばかりの、タカシのお母さん。

着物を着ることが多く、特に礼儀にうるさい。

私にとっては、義理の母にあたる人。

一般的にいう、お姑さん。


まだ新築の香りが残る新しいマイホームに、この4人で住んでいる。



ドンドン――!

ドンドンドン――――!!



「全く……なんで、こんなことするんだろう……」


そして、最近、私たちを悩ませていること。

それは、おとなりさん。

2ヶ月ぐらい前からだろうか。

昼でも夜でもおかまいなしに、いきなり壁を、ドンドンと激しく叩いてくる。

最初は、テレビの音がうるさかったのかなと思い、慌てて音量を下げたりもした。

でも、テレビをつけてない時でも、ドンドン。

何もしてなくても、ドンドン。


何なの??

いったい、ほんとに何なんだ??


私たちは、全く意味が分からなかった。

でも、かといって、おとなりさんに怒鳴りこむ勇気もない。

賃貸ならともかく、25年ローンで購入したばかり。

おとなりさんとは、これからもずっと付き合っていかなければならないもん。

まあ、ご近所さんとのトラブルは、できるだけ避けたいところだよね。


ただ、私も指をくわえて我慢しているだけではない。

とにかく、自分たちで出来ることは、思いつく限り試してみた。

おとなりさんの部屋と共有する壁に、背の高い大きな本棚を置いて、音に対してちょっとでもクッションを作ってみたり。

なるべく、ベランダの窓は開けないようにしたり。

出来る限りのことはやってみた。


でも、やっぱり、壁を叩いてくる。

毎日、毎日、叩いてくる。


まいった。

もう限界だ。


「ねえ、タカシ……」


私は、ソファでくつろぎながらテレビを見ている夫に、弱々しい声で言った。


「そろそろ、おとなりさんに言ったほうがいいんじゃない……? このままじゃ、私たち、ストレスがたまっておかしくなるわよ……」


頼るべきは夫。

こういうケースは、当然この選択だ。


「ねえ、タカシ、お願い……」


だが、私は、少し不安だった。


「ね、ねえ……タ、タカシ、聞いてる?……い、いや、だからね……」

「何を言ってるんだ」


タカシは背を向けたまま、テレビから目を離さずに言った。


「俺は仕事で忙しいんだ。家のことは、おまえが責任持って対処しろ」

「う、うん……」


はぁ。

やっぱりね。


予想していたとはいえ、案の定、がっかりする答えだったな。

そう。

タカシは、超がつくほどの亭主関白。

私より7歳も年が上というのもあるんだろうけど、本当に、驚くぐらい上から目線だ。

誰でも知ってる有名銀行に勤めていて、誰もが羨む役職にもついている。

銀行では、部下に対して、すごく面倒見がいいと評判らしい。

だが、家では超が100個ぐらいつくほどの亭主関白。


いやね、そりゃ、結婚した当初は、そういう男らしさがすごく好きだったのよ。


ひっぱってくれそう。

守ってくれそう。

そういうちょっと男男した雰囲気が、私は大好きだった。


でも、結婚してからは、そこが1番のネック。

家事は何もしない。

子供とも遊ばない。

私との会話もほとんど何もない。

とにかく、夫婦仲は冷めきっていた。


あぁ。

憧れる。

一緒に家事をしたり。

子供と3人で手を繋いで散歩したり。

時には、夫婦2人だけの甘い時間を過ごしたり。

あぁ、憧れる。

私にとっては、まさに夢のまた夢だな。


「ふう……」


私は、テーブルの上の冷めきった紅茶に口をつけたあと、大きなため息を吐き出した。

そういえば、よく、ため息をひとつつくと、ひとつ幸せが逃げて行くと言うな。


「ふう……」


じゃあ、こんなに毎日ため息をつく私は、幸せのかけらも残ってないんじゃないかな。

ハア……まいった、ほんとにまいった……まいっ……


「ママ~」


どんよりとため息の暗闇に覆われようとしていたその時、娘のミカが、トントンと私の肩を叩いてきた。


「元気だして~。ミカはね~、ママが笑っている顔が1番好きだよ~」

「ミカ……」


あ~、もう!

なんて、なんていい子なの!


娘のミカは、今年、幼稚園に入園したばかり。

私の生きがい。

私のエンジェル。

あんな、馬鹿みたいな亭主関白の夫との間に、よくこんな子が生まれたなと思うほど、親思いのいい子に育っている。


「ミカ、ありがとうね。ママは元気だからね」

「よかった~」


あ~、もう。

ミカの笑ってる顔を見ると、嫌な事なんかどっかへいっちゃうよ。

ありがとう。

ありがとうね、ミカ。


「さてと……」


とりあえず、おとなりさんのこと、どうしようかな。

う~ん。

う~ん……でも、まあ……いいっちゃ……いい……のかな?

まあ、一日中、24時間、壁を叩かれるってわけじゃないし。

こっちが、深く気にしなきゃいいんだよね。


まあ、いいか。

おとなりさんのことは、また、おいおい考えるか。


「ふわぁ~……」


何も問題が片付いたわけではないが、私の中でなんとなく一段落ついたからだろうか。

大きな欠伸と共に、ドッと眠気が襲ってきた。

あぁ、ダメだ、疲れた。

なんだか、今日はすっごい眠いな。


「あっ……」


不意に目に入った壁掛け時計は、もう、21時をアピールしている。

当然、ミカはうつらうつらと頭が揺れている。

あぁ、ごめんね、ごめんね、ミカ。

眠たくてしょうがないのに、私を元気づけてくれて。

私はお母さん失格だね。


「さっ、ミカ、早く寝ようね~」


私はほぼ瞼が閉じている小さな天使をそっと抱きかかえ、寝室に向かおうとした。

――すると、その時。



「エリコさん」

「あっ……」



げっ!

お、お義母さん!


そう。

リビングから移動しようとしたまさにその時、隣の和室から、スッとお義母さんがやってきた。


「エリコさん……」


お義母さんは明らかに唇を震わせ、イライラしながら言った。


「あなた……タカシのスーツのボタン、気がついてるのかしら?」

「え?」

「全く……」


お義母さんは、大きな落胆のため息を吐き出し、軽く首を横に振った。


「袖のボタンよ。1つ取れてたわよ」

「は、はあ……」

「いい? あなたね、そういうのは、すぐに気がつかなきゃダメよ」


だから、とお義母さんは言った。


「ボタンのほつれとかもそうだし、日用品の買い忘れとかも、どんどん増えていくのよ。気がついたらすぐに対処する。そういうのが大事だと、私は思うけどね」

「は、はい……」



ハ、ハハ……



あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!



もう!

いいじゃん!!

袖のボタンぐらい、別にいいじゃん!!!!


だいたい、袖のボタンなんか、飾りみたいなもんなんだから、無くても着るぶんには何も支障ないじゃん!


なに?

なんなの??

袖のボタンが無かったら、電車に乗れないわけ??


『あっ、お客さん、袖のボタンがないので、特急電車はご遠慮くださいね』


とかって、駅員さんに言われるわけ??


なに?

なんなの??

袖のボタンが無かったら、会社で出世に響くわけ??


『きみ、来月から部長に昇進だよ! おめでとう! これからも頑張っ……あっ、袖のボタンがないね……すまない、今回の話は無かったことに……』


とかって、チャンスを逃すっていうの!


ないよね?

そんなことないよね??


もしそうなら、すぐにでもつけるわよ!

あぁ、そりゃもう、100個でも200個でも、袖にババババッってスーツの生地が見えなくなるぐらいつけてやるわよ!


あぁぁぁぁ~~~~、もう!


うるさい!

うるさいよ、全く!!


グツグツと煮えくり返っていた火山が活発に活動を始めるがごとく、私のイライラは、頂点に達していた。

――すると、その時。



「母さん!」



テレビを見ていたタカシが、ソファから勢いよく立ち上がり大きく声を荒げた。



おっ!

おっ、おっ!

タ、タカシが割って入ってくれた!


いやん、嬉しい。

やっぱり、持つべきものは夫よね。



「母さん!」



さあ、タカシ!

私を助けて!

お義母さんに、ガツンと言ってやって!



「母さん……」



ガツンと!



「母さん……」


タカシはニコッと子供のような笑みを浮かべ言った。



「気づいてくれてありがとう……助かったよ」




なっ……!




「母さんは、昔からそういうとこに……すぐに気がついてくれるよね」




お、おまっ……!




「さすが、僕の母さんだね」




あ、あのさ……!




「母さん……」




お、おい……!




「大好きだよ。てへっ」




て、てめえぇぇぇぇ~~~~!!

なんじゃ、そりゃぁぁぁぁ~~~~!!!!



タカシは舌をペロッと出し、少し恥ずかしそうにつぶやいた。

なんだよ!

『てへっ』ってなんだよ!

私の怒りはすでに限界突破。

火山からはマグマが勢いよくどんどん爆発しまくっていた。


ちなみに、これも結婚してから気づいたことだが、タカシは筋金入りのマザコンだ。

親離れができていないのか。

はたまた、お義母さんの子離れができていないのか。

ともかく、タカシとお義母さんとの間には、私が割って入れない大きな大きな鉄壁のバリケードがあった。


「はあ~……もう、やだ……」


お義母さんと同居するようになったのは、1年前。

タカシのお父さんが病気で亡くなったあの直後から。


あの時から。

あの時から、この同居生活はスタートした。


お義母さんを1人にするわけにもいかず、うちに呼んだというわけ。

もちろん、私は反対だった。

でも、タカシに押し切られ、なくなく承諾することに。

なにより、ミカもお義母さんに懐いていたから、反対するだけの説得力のある理由が思い浮かばなかった。


あぁ。

これから、私、どうなっちゃうんだろ。


こんなことで、これから先、何年も一緒にやっていけるのかな。


あ~、もう!


壁を叩く、おとなりさんのこと。

亭主関白でマザコン夫のこと。

口うるさいお義母さんのこと。



あ~、もうぅぅぅぅ!


悩みがつきないよぉぉぉぉ~~~~!!







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