空き家の冒険
そんなときに目を引いた新聞記事がある。なんでも郡上八幡で、空き家見学があるというのだ。
私の頭の中に、こんな光景が浮かんだ。
晩秋の光が古いガラス窓からさしこんでくる。昼を少し過ぎた頃の、あのけだるい時間だ。
山の彼方の空気は澄み渡っている。部屋の柱はくすんで黒い。
下手をすると100年を経ているかもしれない畳の上に寝転がると、どこかでコオロギが鳴いている。
たぶん、畑の周りにに積もった落ち葉の中だ。
丸々と太った白菜の玉がごろごろと、夕暮れ時を待っている……。
と思ってよく見たら、案内されるのは町家限定である。
郡上市内に空き家がどれほどあるかは知らない。町中にも増えているのかもしれない。
ただし、仮に空き家があるとしても、町家だけには限られないのではないか。
この季節なら、郡上八幡駅から見える葉の落ちた山沿いの道を行くといい。
また、大手町から北へ北へと、山の中で道がなくなるまで歩くといい。
どこにも、空き家はないのだろうか。ないならいい。喜ぶべきことだ。
問題は、「町家限定」というその視点である。
なぜ、案内して見てもらう空き家は町家でなくてはならないのか?
古き良き町並の中に忘れられた家は、絵になるからだ。そこには、外から来た客が金を出してくれる。
その心理は、「聖地巡礼」目当てのアニメ商売に似ている。
「ふるさと」がアニメに使われれば、金が動く。だから、猫も杓子も「ふるさと」を売りに出し、作る側も客の目を引きそうな「ふるさと」を買い漁る。
人が心の中にある「ふるさと」を絵に変えていけば、ひとりひとりのかけがえのない原風景は、いずれ消えてなくなるだろう。残るのは時間の止まったアニメ絵の中の「金になる」背景ばかりだ。
その背景にしたって、所詮はキャラの描かれたセルの向こうにしかない。
どうやら、都市の喧騒を離れても、金に振り回される「外道の祭典」からは逃れられないようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます