外道の祭典

兵藤晴佳

担い手がどうとやら

 先日、岐阜市で『第19回全国農業担い手サミットinぎふ』という名の「外道の祭典」が終わった。

 「外道」というのは、「担い手」という名前が引っかかるからだ。

 そもそも、ものに名前を付けるという行為は、それを「もともとあった」集団から区別するということである。

 この娑婆苦の中に生まれても、かの釈尊の如く「天上天下唯我独尊」と叫ぶこと能わぬ凡人たる我々は、それを既にこの世にある者たちに預けるより他はない。

 一方、この世界で唯一不可侵の存在である証を託された我々は、知恵を絞り先人の知恵にすがり、神仏に祈ってまでその責を全うするのである。

 「どうでもいいその他大勢」から、「かけがえのないあなた」へと。


 さて、私の記憶の中には、郡上のとある農村がある。

 太平洋側へと流れる長良川をさかのぼり、織田信長が岐阜と定めた辺りで金華山を仰ぎ、深い青色を湛えた淵を美濃の白く乾いた河原と中洲に沿って通り抜ければ、やがて吉田川の冷たいせせらぎが合流してくる。

 そこからちょいと横に逸れて浅い川をなぞれば、指がかじかむような晩秋の寒さの中でしっとりと露に濡れる、刈り入れがとうに終わって稲わらが散らばる田が並ぶ山間の村が見えてくる。

 ここに、「サミット」すなわち頂点に立つべき「担い手」はありや否や。

 低くさしこむ秋の日を山々に遮られ、ひんやりとした影に沈むこの地に。

 朝には川面から立ち上る霧に古く小さな石橋が凍え、枝に忘れられた柿の実が霜に凍みるこの地に。


 この日本のどこであれ、ひとたび地面に鍬を下ろした者はすべて農民である。

 過去の深い霧の中に消えた百姓たちを「どうでもいいその他大勢」として扱ってきた連中が、小器用に立ち回って小金を生みだしそうな一握りを「担い手」として聖別したもうたのが、かの「農業担い手サミット」というイベントである。

 かくして、「担い手」と名づけられなかった者は時間と共にかすむ記憶の深い霧の中へと消えていく。鍬一本で耕してきた土を任せられずに見捨てられた人たちが。

 かくして、彼らには目もくれぬ会場の人々のための「外道の祭典」は先日、盛況のうちに幕を閉じた。

 

 

 

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