第21話 入院二十一日目「退院の話。人の歩みを止めるのは……」

 今日も院外外出をして、病棟に戻ってきた。

そのタイミングで補佐医からそろそろ退院に向けて考えていきましょう、というお話をされる。

カーテン越しの会話は同室の人間には筒抜けである。

補佐医が去ってから、声をかけられた。

「真世さん」

優香ちゃんが、じっと私を見る。

「真世さんは、退院したいですか?」

どう答えたら正解なのか、わからないので、正直に自分の心に沿って話す。

「退院したいよ。優香ちゃんはしたくないの?」

「したくないです」

即答だった。

「ここでの生活は、楽しいです。もう退院したけれどや陽子さんとか、りえさん、美香さん、真世さん、気さくでいい人たちばっかりで」

「うん」

「でも、外はそうじゃないじゃないですか」

「……そうだね」

外。

この病棟の外の世界にはいろいろな人たちで、いろいろな刺激で溢れている。

 優香ちゃんにとって、ここでの生活がとても楽しいということは、イコール、外での生活はそうではないということだ。

「夏休み明けには私も退院って言われてるけど……学校には戻りたくないな」

ここでの生活は良くも悪くも凪(なぎ)のよう。

その凪に慣れてしまったら、吹き荒れる嵐の中になど戻りたくないのが、もしかしたら普通の感覚なのかもしれない。

私は、目を閉じる。

浮かんでくるのは、いつも私のことを気にかけてくれている母の姿。心配ばかりさせている父の姿。中学時代からの親友の姿。犬のマロンや、アンディの姿。私が暴走しても見守ってくれた友達たちの姿。いろいろあったけど味方になってくれた職場の一部の同僚の姿。

「ここは、いいところだと私も思うよ。静かだし、傷つけてくる人はいない。あらゆるルールが自分を守ってくれている。でも、それと同じくらい、退屈なところだとも思うんだ。

それに、私にとって大切な人やものがここにあるんならそれはそれで素晴らしかったかもしれないけれど、残念ながら、私の『大切』は病棟の外にあるんだよ。みんなそこで生きている人たちだから、その人たちと一緒に生きたい私は多少苦しくても外で生きるしかない。

私の大切なひとたちが、私がいつ帰ってもいいように私の居場所を守ってくれている。帰る場所があるっていうのは幸せなことなんだよね。

待っている人が一人でもいるなら、私は外に戻るよ」

「じゃあ、戻ることを望まれていない人はどうしたらいいんでしょうか」

優香ちゃんの目に涙が溢れる。

「居るだけでばい菌扱いされる人は……」

「優香ちゃん」

アライグマみたいに手を洗い出すととまらない優香ちゃん。

石鹸をすぐに使い切ってしまう優香ちゃん。

お風呂に一時間以上かかってしまう優香ちゃん。

……帰ることを、望まれない。

残念ながらそういう患者も多い。

「親から縁を切られた」

「子供の親権をとられた」

こんな話は幾度となく病棟内で耳にしてきた。

私だって、この病気に罹ってから喪った人間関係はひとつやふたつじゃきかない。

特に恋愛関係はひどかった。

「真世は病気なんでしょ。遺伝するかもでしょ。俺、子供欲しいんだよね。真世とは一緒にいられない」

だからバイバイ。

病気を受け止めてくれていたはずの八年間も寄り添った彼は、そう言って去っていった。

病気が原因で拒まれる度に私は何度も、何度も泣いた。

自分の努力でどうにかなることはどうにしかしたいが、この病気は努力では治せない。治らない。

「優香ちゃんのお父さんとお母さんは、退院を心待ちにしておられる風に見受けられたけどな」

つらい現実。しんどい世界。広いけれども、その分危険で満ちても居る。

「ブルーハーツの歌じゃないけどさ、世の中いいやつばかりじゃないけれど悪いやつばかりでもないもんだよ?

狭い世界の中で生きていると、それがすべてだと錯覚しちゃうかもしれないけれど、くだらないやつらのために優香ちゃんが自分の人生をすり減らすのはすごく勿体無いことだと私は思うのね。

 すぐには信じられないかもしれないけれど、優香ちゃんにはこの先楽しいことがたくさん待っているよ。

行きたいところには、行けるようになるよ。

素敵な恋人もきっとできるよ。

結婚することだって、子供を持つことだってぜんぜん出来る。

私もね、昔はばい菌扱いされてたんだよ」

「真世さんがばい菌? 信じられないです」

「私だって現在進行形で、こんな可愛くてきれいで良い子の優香ちゃんがばい菌扱いされてることに驚いてるよ。優香ちゃんのことそんな風にいうやつの顔みてみたいよね。絶対たいしたことないよね。

 私もさ、お前なんてって何度も言われてさ、悔しかったよ。

絶対、中卒になるとか

恋人が一生できないとか

結婚できないとか

最底辺の職業で一生苦しむんだとか

いろいろ呪いの言葉を吐かれたけど、

進研ゼミ……今はベネッセか。でさ、国立大に入ったし、

いままで真剣にお付き合いした人もいるし、

結婚はしてないけれどこれからするかもしれないし、

辞めちゃったけれど公務員になる夢も叶えられたし」

「それは真世さんだから出来たことなんじゃないかなあ

私には、無理ですよ」

 「優香ちゃん。

人の歩みを止めるのは絶望ではなくあきらめ、なんだよ。

あきらめてしまったら、そこで進めなくなってしまう。

そしてね、人の歩みを進めるのは希望ではなく、意志なの。

自分がやりたいと思ったこと、したいと思ったことをちょっとずつでもいい。突き通していけば何かが変わるよ」

……一見、すごく良いことを言っているように見えて

『人の歩みを止めるのは絶望ではなく諦め、人の歩みを進めるのは希望ではなく意志』という言葉が実はある漫画からの引用なんだとは、ちょっと言えないかもしれない。はい、そうです。私は実はライトなオタクです。

「できますかね……?」

「できる」

私は、繰り返す。

優香ちゃんがばい菌とけなされたのと同じ数、繰り返してあげたい気持ちで何度だって繰り返す。

「優香ちゃんは絶対外の世界で幸せになる。幸せになれるよ」


今日の朝食

ご飯、大根の味噌汁、生揚げの煮物、もやしの醤油フレンチ

今日の処方

昨日と同じ。

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