第2話

 陽子は一礼すると、無表情のまま、自分の席に戻っていった。

 よく日が当たる窓際の席。

 朝の日の光が、彼女の大理石の様な肌を白く照らしていた。

 クラスメート達は、そんな彼女が席に着くまで誰も一言も発せられないまま見送った。

 その沈黙を気を利かせたのか、一人の男子生徒が、

「い、いやぁ~…日向さんって、笑いのセンスもあるんだねぇ~…」

 と、フォローする様に言った。

 教室内に笑いが起こったが、どこかひきつった様な、どこか取り繕ったような笑いだった。

 登校初日の通学路を歩いていただけで噂になるほどの美少女が、突然意味不明な発言をしたのだ。

 笑っている者が大半だったが、彼女の意味不明さに幻滅した者や、クラスの端に陣取る女子グループは、何かひそひそと顔を近づけて口を開けている。その表情からするに、あまりいい内容では無いだろう。

 が、クラスメートたちの反応を無視する様に、彼女、日向陽子は無表情と、まっすぐにした背筋のまま、前を向いたままだった。

「はい、はい、静かに!」

 担任の女教師が黒い出席簿を手でバンバンと叩きながら、教壇の中心へ上がった。

 さきほどの日向陽子の突拍子も無い自己紹介を、全く意に返していない様だった。

「私の自己紹介がまだだったね。私は君たちの担任、曽我真木子。担当は体育です」

 クラスメートたちの興味はもう陽子から教壇の教師に移ったようだ。

 皆、品定めをする様に彼女へ視線を送る。

 が、真太郎の視線は未だ陽子へ向いていた。

 担任の名前を聞いた陽子は、それに少しだけ反応するように、静かに首を彼女の方向へ向けていた。

「これから一年間、よろしくね」

 担任の教師、曽我真木子が続ける。体育の教師らしい、明るくはつらつと健康的な調子だ。

「では、さっそくですが、席替えをします。最初から出席番号で振り分けられた席なんて、楽しくないでしょ?」


 あまり幸運とは言えなかった彼、得田真太郎の学生生活だったが、この日ばかりは神に感謝せざるを得なかった。

 一番後ろの席。いや、そうではなく、あの日向陽子の隣の席だったのだ。

 無表情でまっすぐに前を見る彼女の横顔をちらちらと見ながら、真太郎は握りしめた両手に大量の汗をかいていた。

 朝のお礼を言わなければ…。

 いや、真太郎の胸中にあったのはそれだけでは無い。 

(日向さん、オメガレンジャー好きなの?!)

 彼女が今朝、綾川との絡みで口に出した言葉の数々は間違いなく、救極戦隊オメガレンジャーのものだった。

 小学生に上がって馬鹿にされてから、胸の中にしまっていた、特撮ドラマ救極戦隊オメガレンジャーへの想い。それを存分に話し合う事ができるかもしれない相手が、すぐ近くにいるのだ。

 話しかけよう、話しかけようとまごついていると、

「得田君…って言ったわね?」

 陽子は前を向いたまま口を開けた。

 陽子は先ほどの自己紹介で真太郎の名前を覚えていたのだ。人の前に立つのは苦手で、恐らく、自分が思っている以上に小さかったであろう声のものを、彼女は覚えていてくれた。真太郎はドギマギとしながら、小動物の様な動きで、彼女の方へ身体を向けた。

「なっ、何?!」

「アナタ…」

 オメガレンジャー好きなの? 実は私も! 今朝は突然ごめんね。やっぱり救極魂を持つ者としてああいう場面見ると身体が勝手に動いちゃうんだよね。どこに住んでるの?放課後オメガレンジャーについて一緒に語り合わない? 私が好きなのは第36話で緋昇一成が変身不能に陥った時で…。

 そんな一瞬の間の真太郎の妄想を打ち砕く様に、

「やっぱり今朝の連中の仲間だったのね」

「え? えぇ?! 違うよ! 綾川くんは幼なじみだけど…いや、そうじゃなくて!」

「さっきから私の様子を窺ってる」

「いや、それは…」

「私の隙を突いて、仲間の仇を取る気でしょう?」

 そこで初めて陽子は真太郎へ向いた。

 大きくて綺麗な瞳だが、逆にそれがものすごい迫力で真太郎の両目を見返した。

「いいわ。でもここでは駄目。クラスの皆は巻き込めないもの」

 陽子が立ち上がろうとしたその時、

「うぃ~す! 教室までちょっと迷っちまって…」

 一人の男子生徒が無遠慮に教室の前の出入り口の引き戸を開けた。

 クラスメートたちの視線が、今入ってきた生徒に向けられる。

 その視線に少し恥ずかしそうな様子で、

「なんだよ…ジロジロ見やがって。俺は比嘉森浅黄。今日から俺もこの学校に通う一人ってわけだ。ヨロシクな」

 そう、今朝、真太郎と綾川達のもとへ乱入した、陽子ともう一人の男、彼だった。

 浅黄はすぐ近くにいた生徒に、

「俺の席どこ?」

 と、つかつかと教室に入りながら無遠慮に聞く。

 が、その後ろには、憤怒の表情の真木子が、腰に手を当てて立っていた。

「比嘉森君…? 入学初日とはいい度胸してるわね…?」

 喧嘩では負けた事が無い浅黄だったが、真木子の異常な迫力に少し気圧される様に、

「お、おう! 度胸だけは自信があるぜ。俺には家の看板なんて関係ねぇ、この腕一本で…」

 そこで、真木子は浅黄の制服のある事に気付き、

「この血は何? 登校途中に怪我でもした…?」

「…? ん? これか? とんでもねぇ。俺はかすり傷一つもらってねぇぜ。これは相手の返り血だ…」

 浅黄はそこで、自分がよけいな事まで言っている事に気付き慌てて口を閉じたが、時すでに遅し。浅黄が取り繕うまもなく、真木子の出席簿が彼の脳天を直撃した。

「もういいわ。席に着いて。放課後、職員室に来なさい」

 路上では百戦錬磨の浅黄だったが、真木子の一撃は想像するより早く、全く避けられなかった。

 今ここでこの女にこれ以上突っかかるのはよろしくないと悟った浅黄は、叩かれた頭を押さえつつ、自分の席を探す事へ戻った。

 男子生徒の一人が、そんな浅黄を見て少し笑い声を出すと、彼はその方向へ八重歯を剥きだした凶暴な視線を送る。哀れな男子生徒は蛇に睨まれた蛙の様に動けなくなった。

 一人の女子生徒が浅黄に、

「比嘉森くん。ここ、空いてるよ?」

 と、恐る恐る言うと、浅黄は満面の笑みで、

「おう、悪いな!」

 しかし、示されたのは教壇の真ん前。

 浅黄はその席に不満を持ったのか、教室を見回すと、

「あ、オイ! メガネくん!」

 今朝知り合ったばかりの、得田真太郎の姿を認めると、にこやかに彼の方へと向かった。

「いや~、今朝は大変だったなぁ。アイツラがまた絡んできたらいつでも俺に言うといいぜ」

「は、はぁ…」

 真太郎はその笑顔になにか言いようのない不安を覚え、思わず目をそらし、オドオドと虚空へ視線を行ったり来たりさせた。

「メガネくんの席ってそこ? いや、そこだとキミ、黒板よく見えないでしょ? ほら、俺の席あそこらしいから、替わってやるよ」

 浅黄はにこやかに教壇の前の空いた席を指さした。

「あ…いや…あの…」

 真太郎は救助を求める視線を、隣の席の陽子へ向けた。

 が、彼女はその大きな瞳でこちらを睨んだままだった。

 そこで浅黄は、隣で異様な殺気を放つ陽子の姿を初めて認めた。

「あっ、てめぇは今朝のイカレ女!」

 陽子は真太郎へ向けていた視線を、浅黄に向ける。

「…今朝の八重歯の男ね」

「八重歯の事は言うなってんだろ?! それに俺にはな、比嘉森浅黄っつー名前があんだよ」

 陽子は軽く腕を組む様にして、浅黄を見上げながら、

「私があそこにいなかったら、アナタ、今頃どうなってたでしょうね」

「あぁ? 俺があんなゲスい野郎どもに負けるわけねーだろ。全員仲良く病院送りだよ」

 真太郎は浅黄の言葉がにわかに信じられなかった。

 綾川は幼なじみで、決して性格のいい男では無いが、彼のボクシングの腕は本物だ。しかも、周りには彼の取り巻きもいた。それをかすり傷一つ無く病院送りにしたなんて…。

「あぁ、オイ、メガネくん」

「得田真太郎です…」

「そうか、真太郎くんか! こんな何考えてるか分かんねぇ女の隣はキケンだ! すぐに俺の席と替わった方がいい!」

 浅黄は笑顔だったが、キラリと覗く八重歯が威嚇している様に真太郎には映った。

 綾川を病院送りにした真偽は定かではないが、不意打ち気味だったとは言え、彼はタイトル確実ともてはやされる高校生ボクサーを一撃で殴り飛ばしたのだ。ここで逆らえば何をされるか分からない。

 真太郎が逡巡していると、

「はい、じゃあ皆、席について!」

 真木子が教室の生徒たちに促した。

 真太郎がなおも席を替わるか悩んでいると、

「センセー! 得田くんが後ろの席だと黒板がよく見えないそうなのでボクが替わってあげる事にしましたー!」

 浅黄は右手をわざとらしく高く上げ、言った。

 すかさず真太郎に向き直り、

「ホラ、センセーが席に着けって言ってるよ?」

 浅黄は満面の笑みで真太郎の肩に手を置く。

 その手が真太郎の肩に食い込む。が、それでも彼が全く本気を出していないという事は、容易に想像できた。

 渋々席を立つ真太郎。

「悪いな。でも、さっきのは本当だからよ」

 浅黄は真太郎に言ったが、もう彼にはその『さっきの』とはなんなのか分からないでいた。

「得田くん」

 フラフラと教壇の前の席に向かおうとする真太郎の背中に陽子が投げかける。

 何か助け船を出してくれるのかとほのかな期待を抱いて、真太郎は陽子へ振り向いたが、

「放課後、校舎裏へ来て。そこで決着をつけましょう」

 脳天をハンマーで殴られた様な衝撃。

 真太郎は、つい数分前の神への感謝を心の底から後悔していた。

 空いた席へ揚々と座る浅黄。

 陽子は正面の黒板の方を向いたまま、

「日向陽子よ」

「あぁ?」

 浅黄は何の事かと陽子の横顔を見た。

「私の名前。日向陽子。先に名乗ってもらって、それを無視する様な無礼な事はしたくないの」

「お、おぅ」

 浅黄は彼女の事が心底理解できなく、返答に窮した。

 そんな浅黄を助ける様に一時間目の終了を告げるチャイムが鳴る。

 陽子は前を向いたままであった。


 浅黄に顔面をボコボコに殴られた金髪の男、綾川誠也は学校に行けず、そのまま病院の個室のベッドに居た。

 顔だけでは無い。浅黄は彼のパンチを巧みにかわし、コンクリートの壁を殴らせ、その拳まで痛めつけていた。

 高校生ボクサーとして、華々しい未来が待っている筈だった。それがあんな素性が分からないチンピラめいた奴に負けるとは…。

 取り巻きの連中は怪我が少なく、すぐに病院を後にして行ったが、このことは口外無用と固く誓わせた。

 取り巻きの連中も皆、野球やサッカーなどのスポーツ推薦であの学校へ通うことになった者ばかりだ。喧嘩などの不祥事を入学早々起こしたとなると、スポーツの道は絶望的だろう。皆、二つ返事で綾川に従った。

(あのヤロウ…オレが素人を本気で相手にできないとわかっていたな…)

 綾川は病院の真っ白いベッドの上で寝返りを打ちながら思った。が、彼は少なくとも本気で浅黄を殴りに行っていた。どうやら、彼のプライドが、記憶を都合のいい様に改竄しているらしい。

 だがもう一つ、綾川には懸念するべき事があった。

 プライドの話ではなく、警察に駆け込めなかった理由。

 今朝の八重歯の男はとりあえず置いておいて、そちらの事への思案を始めようとした。

 が、

「誠也ぁ…。ずいぶんハデにやられたみたいだなぁ…?」

 綾川は突然聞こえたその声の方向へ素早く寝返りをうつ様に向けた。全身に軋む様な痛みが走り、顔を歪める。

「か…香川さん…」

 個室の出入り口には一人の男。

 人相が悪く、頬には一筋の傷跡があり、派手な柄の開襟シャツと、細いストライプが入った濃い紫のスーツを着ている。

「水臭ぇじゃねぇか? えぇ? 誠也よう…」

 男はニヤニヤとしながら、後ろ手に個室のドアを閉めつつ言った。

 彼が綾川のもう一つの懸念であった。

 いや、むしろ、そちらの方が大きい。

「オメェには大金使ってるからよ…、しっかりしてくんねぇとオジキが困んだわ」

「は…はい…。すいません…」

 男は素早く綾川に近づき、彼の頬を右手で強く掴んだ。その手の小指の第二間接から先が欠損している。

 腫れ上がった綾川の顔が締めあげられ、彼の口をとがらせる。

「てめぇの両親の借金肩代わりしてやったのは誰だ?!」

「笹岡さんです!」

「なンにも無かったテメェは誰にボクシング教えさせてもらった?!」

「笹岡さんです!」

 綾川の答えは、腫れた顔を掴まれる痛みで、半ば絶叫のようになっていた。

「そうだよな?! テメェには金稼いでもらわなきゃなんねぇんだよ。どこのどいつだ?! ウチの組の商品に傷付けやがったのは?!」

「そ…それが…」

 綾川は正直に、今朝突然現れた男にやられたと答えた。名前は知らないと。

 綾川の顔を掴んでいた男、香川は投げ捨てる様に彼の顔を離した。

「誠也…寝てる場合じゃねぇぜ。すぐ支度しろ」

「はい?」

「舐めた真似する奴にはきっちり教えなきゃいけねぇ事があんだよ」


 放課後…。

 校内は今日知り合った友人とぎこちなく下校する者や、部活へ入部届けを持参する者などで賑わいでいた。

 それらとは無縁の様に静かな職員室で、浅黄は真木子の説教を受けていた。

「もう高校生なんだから、分別をわきまえて…」

 自分の席の椅子に座る真木子は、目の前に立つ浅黄を見上げながら言う。

 だが浅黄は、それらの事が全く耳に入っている様子がなかった。

 入学初日からセンコーに呼び出しとはついてねぇ…。いや、そんなのはどうでもいいことだが、なんとか玄鋼のジジイの耳に入らねぇ様にしねぇと…。

 浅黄の頭の中はその事だけだった。

「…玄鋼さんは元気?」

 目の前の真木子から、突然その名前が出た事に浅黄は驚いて、さっきまで床ばかり見ていた視線を、あわてて彼女に合わせた。

「ジジ…いや、ウチの玄鋼の事をご存じであらせられるのでしょうか?」

 動揺で妙な語尾になる。

「昔ちょっとね…。これで少しは私の言う事聞く気になれた?」

 真木子はにっこりと笑ったが、それは、今の説教を始めからもう一度繰り返す合図だった。


 真太郎はカバンを抱え、学校の廊下を歩く。

 陽子に言われた通り、校舎裏に向かうか悩んでいるのだ。

 あんな美少女に校舎の裏に呼び出されるのは、普通で考えれば誰もが羨むシチュエーションだろう。

 だが、実際はそうでは無い。

 彼女がどんな人物なのかまだはっきりとはしていないが、このまま誤解を受けたままでは、平穏な高校生活を送る事は難しそうだ。

 あぁ…もうこのまま帰りたい。帰ってオメガレンジャーを録画したものを見返したい。

 今日はあの話を観よう。第9話『盗まれた心? 一言の勇気』の回だ。街でオメガイエロー梔子トウタは偶然保母さんをする曽田真紀と知り合うんだ。その後、曽田さんの勤める保育園で、泥棒騒ぎがあって、一人の園児が他の園児に問いつめられる。けど実は違う園児が敵怪人カンランジャの脅しでやらされた事で、その園児は真実を言えないでいた。それを見抜いていた曽田真紀は脅された園児に勇気を持って真実を話すように説得するんだ。この回は後に2代目オメガイエローとなる曽田真紀が初登場する回で、後半彼女の再登場を初めて見た時は本当にびっくりしたな…。

 そこで真太郎はハッと顔を上げた。

 そうだ、日向さんにきちんと誤解だって伝えよう。

 何を考えているかイマイチ分からないけど、今朝だって見ず知らずの僕を助けに来てくれた人じゃないか。

 真太郎はそう決意すると、心なしか玄関への足取りが軽くなった。

 私の早とちりでごめんね。この後時間ある? 一緒に駅前のカフェでも行ってみない? 今日のオメガレンジャー観た? ……。

 真太郎のそんな妄想を打ち砕く様に、

「よう、真太郎ちゃん…」

 玄関にある学校特有の大きな下駄箱の陰から、顔中に絆創膏を貼った男が、待ちかまえていた様にぬっと姿を表した。

 顔は盛大に腫れているが、その金髪と声で分かる。

 幼なじみの綾川誠也だ。

「あ…綾川くん…? 大丈夫…?」

 真太郎は浅黄が綾川達と本格的に立ち回った姿を見ていない。綾川の姿に心底驚いた。

「大丈夫なわけねぇ…大丈夫なわけねぇんだよ…」

 綾川は心の中で何かを押し潰す様に言った。

 自分をいじめている相手だが、小学校からのつき合いだから分かる。今の綾川はどこか様子がおかしい。

「今朝の八重歯ヤロウに礼を言いたくてずっと張ってるんだけどな…。アイツなかなかこねぇんだよ…」

 浅黄は職員室で担任教師の長い説教を受けているのだが、綾川の姿に動転した真太郎は、

「病院に居なくていいの?! そんな怪我させられたら警察にも行った方が…」

「そういう次元の話じゃねぇんだよ!」

 綾川は突然大きな声を出し、真太郎の両肩を掴んだ。

 近づける両目は血走っていて、怒りと言うよりも、何かに怯えている様に見える。

「そうだ…真太郎ちゃん…ちょっと付き合ってくれや…。オレたちは腐れ縁ってやつだろ…?」

 狂気すら感じる綾川の様子に、真太郎は全く逆らえないでいた。


 校舎裏。

 日陰になったその場所は肌寒く、ひかれた砂利の間から、雑草がチラホラと伸びている。

 なかなかやってこない真太郎を、陽子は一人、直立のまま腕を組んで待っていた。

「逃げたわね…」

 四月の肌寒さに少しだけ身震いしつつ呟いた。


 浅黄はやっと真木子から解放され、帰路に着こうと玄関へ向かっていた。

 あの先公が玄鋼のジジイの知り合いだとは…。

 しかし、真木子は最後まで、どこで知り合い、どういう関係なのかは話さなかった。

 彼女は、

「あなたに殴られたとかの報告はきていないので、今日のところは玄鋼さんに報告はしないけど、今後こういうことがあったら、分かってるわね?」

 終始にこやかに話していたが、単純に言うと、浅黄を脅しているのだ。

 ずっとジジイに監視されてる様なモンだぜ…。

 浅黄は学校生活が窮屈なものになりそうだと憂鬱な気持ちで下駄箱に着くと、外から玄関に入ってくる陽子の姿を認めた。

 感情の起伏が分からない彼女だが、どこか機嫌が悪そうだ。

「なんだよ。オマエもまだ帰ってなかったのか」

「アナタには関係無い事よ」

 浅黄はチッと心の中で舌を鳴らすと、彼女に話しかけた事を後悔した。

 だが、

「…いや、少し関係あるかもね。アナタも今朝あの場に居たんだから。得田真太郎を見ていない?」

 浅黄はその名前に一瞬間を置いてから、

「…あの、メガネくんか? アイツがどうかしたのか?」

「知らないならいいわ」

 陽子は会話をぶつ切る様に言うと、浅黄に背を向けて、再び外へ出て行こうとした。

 浅黄はその背中に八重歯を剥き出す。

 そこへ、

「あの…比嘉森浅黄…くん、だよね? さっきなんか…顔中に絆創膏貼った金髪の人から君にこれを渡す様に言われたんだけど…」

 顔を知らない女子生徒が、おどおどと浅黄に一枚の紙切れを渡した。

 浅黄がそれを受け取ると、女子生徒は、私はもう関係無い。と言うように、駆け足でその場を離れて行った。

 その金髪とは間違いなく今朝自分が凹ませたアイツだろうとは分かる。

 が、その紙切れには、

 得田真太郎を預かっている。街外れの廃工場までこい。

 と、古風なメッセージが書かれてあった。

 手の込んだ事しやがる…!

 浅黄は沸き立つ怒りを、その紙切れごと握りしめた。

「罠かも知れないわね」

「うわぁっ!」

 いつの間にか背後まで近づいていた陽子は、その紙切れを盗み見たらしい。不意を付かれた浅黄は思わず声を上げた。

「『かも』じゃなくて、こういうのは罠だろ、昔から」

「そうじゃないわ。得田真太郎はおそらく奴らの仲間よ」

「はぁ?」

「いや、もしかしたら操られているのかもね。かつて催眠怪人ユゲラリーがした様に」

 ……。それってオメガレンジャー第17話に出てきた怪人の事か?

 浅黄はそう思い出した事を頭を振って打ち消しながら、

「な、訳、ねーだろうが! 性根が腐ったチンピラがよくやるハッタリだよ! くだらねー」

 浅黄は陽子の視線を振り払う様に背を向け、いそいそと靴を履きだした。

「行かないの?」

 陽子は屈んだ浅黄を見下ろしながら言う。

「行く訳ねーだろ! ほっときゃ飽きて帰るよ。チンピラのやることだ」

「そう…」

 陽子は浅黄の態度が気に入らなかったのか、少し不機嫌そうに彼に背を向け、外へと続く扉に近づいた。

 浅黄はその背中に、

「日向! オメェも絶対行くんじゃねーぞ! 無駄足取らせてどっかで笑ってるだけだよ!」

 陽子はそれに一瞥をくれる事も無く、ガラスの引き戸に手をかけた。

「聞いてんのかよ!」

 陽子は一瞬立ち止まって、背中越しに浅黄を睨む様な目で、

「アナタには救極魂は無いようね」

 と言って、出ていってしまった。

「チッ!」

 浅黄は心の中では無く、思い切り大きな音の舌打ちをした。


 街外れの廃工場。

 買い手がなかなか付かないでいるここは、錆びた機械類がむき出しで放置されていた。

 その中心には、ロープで縛られた真太郎がうなだれたまま座らされている。

 綾川のスポンサーである暴力団組織のナンバー2の香川は、こちらに背を向けて、嫌な臭いのする煙草を吸っていた。

 周りの構成員たちは銘々がその手に持つナイフなどの得物を弄んでいた。

 うなだれる真太郎と、香川のストライプのスーツの後ろ姿を見ながら、綾川は何故、こうなってしまったのだろうと、自分の過去を思い返していた。

 親の事業の失敗から生じた借金。

 それを肩代わりした香川の所属する暴力団への返済の金を稼ぐ為、綾川はもともとやっていたボクシングに打ち込んだ。テレビなどのメディアに新星イケメンボクサーと取り上げられ、今すぐにでもプロになれば何千万、何億と稼げる筈だった。

 それなのに、突然現れたチンピラに手も足も出ずこんな状況になるなんて…。

 綾川は泣き喚きたい気持ちを必死でこらえていた。


 浅黄は必死で走っていた。

 おそらく、あの女はバカだから、指定の廃工場へ向かうだろう。

 万が一、チンピラ共が真太郎を拉致して待ちかまえていたら…?

 真太郎の事だってある。

 俺はアイツに約束した。

 あいつらがまた絡んできたら俺に言えと。

 行って何もなければそれでいいじゃねぇか。

 浅黄は全速力で走った。


 廃工場。

 浅黄は正面から入ることはせず、まず積まれた廃材などで身を隠しながら真太郎が囚われているであろう建物を目指した。

 裏手に塗装が剥げて、錆が吹き出した非常階段を見つけ、足音を起てないよう慎重に上の階を目指した。

 割れたガラス窓から中を伺う。

 マジか。

 本当に真太郎は拉致されて、その真ん中に座らされていた。

 その周りには人相の悪い男達が、ナイフや木刀などを持ってうろうろしている。

 筋モンか?

 浅黄はその連中の雰囲気ですぐに察した。

 自分のウチに出入りしている奴らと似ている。

 が、現在比嘉森組を仕切っている玄鋼は身だしなみや態度に妙に厳しい男で、ヤクザというよりは軍隊の様な組織だった。

 浅黄は素手の相手ならば何人でも負けない自信があったが、得物を手にした大人数人を同時に相手すれば無傷では済まされない。

 それに真太郎の事もある。

 迂闊に出ていって真太郎を危険に晒すのはもっともの悪手だ。

 ジジイに連絡するか?! 

 浅黄はポケットの携帯電話を持とうとしたが、その手が止まった。

 自分が普段疎ましく思っている組織を都合の良い時だけ利用するのに気が引けたからだ。

 どうする?

 どうすればこの状況をひっくり返せる…?

 その時だった。

「あのバカ女…」

 廃工場の入り口正面から、あの日向陽子が、堂々と、入って行くのが見えた。


 突然の来訪者に廃工場内がざわついた。

 制服姿の女子高生が、たった一人で堂々と、ヤクザが陣取るここに乗り込んで来たのだ。

「なんだ? オマエがやられたのってーのはあの女か?」

 香川が背中越しに綾川に問うと、彼はゆっくりと首を振った。だが、その顔には恐怖がこびりついている。今朝の女子高生への恐怖では無く、彼女がここに一人で現れた意味不明さに対する言いようのない恐怖だ。

「私一人を誘い出すのに、ずいぶんと手の掛かったことするわね!」

 陽子が叫ぶ。

 綾川は混乱した。

 違う。真太郎から聞き出した、比嘉森浅黄という男に渡せと、女子生徒にあのメモを渡した筈だ。

 他のヤクザたちも状況が分からず、突然現れた女子高生をポカンと眺めていた。

「つまりこういうことね。オメガレッドの娘である私を誘い出す為に今朝、そこの気弱そうな男子へわざと絡むそぶりを見せ、私の力を試した! そして私の力が本物だと分かると、今度はそこの男子を監視役に回した。でもそれも私が見破ると、今度は拉致されたと言い、私をここへ誘い出した! たとえ罠だと分かっていても、本当に拉致された可能性が1%でもあれば向かわずにはいられない私の救極魂を逆手に取った卑劣な作戦だわ! でもアナタ達の野望もここまでよ! 全てを裏で操っていた…」

 その場の男たちは、陽子が何を言っているのか訳が分からず混乱している。

 陽子は少しの溜の後、勢いよく右人差し指を突き出し、

「得田真太郎!!」

 陽子はビシッと、真太郎を指さした。

「え? ええぇぇぇえ?!」

 うなだれていた真太郎は突然の陽子の来訪に驚いた以上に、その言葉に驚いた。

「アナタは何者?! シャドウフォレストの生き残り?!」

「ちっ、違うよ! 寧ろ僕は正義の味方が好きなんだ! オメガレンジャーの大ファンなんだよ!」

「軽々しくその名を口にしないで…!」

「日向さん!」

「うるせぇ!」

 カァン! と、乾いた音が廃工場に響く。

 香川が鉄パイプで近くの錆びた機材を思い切り叩いた音だ。

「いきなり現れて…意味分かんねぇ事をゴチャゴチャと…。こっちはな、大事な商品傷つけられて頭にきてんだよ! あぁ? なんだ。ねぇちゃん、オメェが補填してくれんのか? ねぇちゃんなら高く買う奴大勢いるぜ?」

 香川は鉄パイプの先を陽子の顔に突きつけ、下卑た笑いを浮かべながら言った。

「生憎ね。私の拳は正義の為にしか使わないの」

 陽子は全く動じず、香川を見返して言った。

 その時。

「なんだぁ?! てめぇは?!」

 廃工場内がにわかに騒然となる。

 様子を窺っていた浅黄が飛び出してきたのだ。

 ナイフを持った男を拳の一撃で倒す。

 すかさず木刀の男に蹴り。

「日向! さっさとどっか行け!」

 浅黄はヤクザを相手にしながら声を荒げた。

 ヤクザをけちらし、陽子の元へ行こうとするが、背後から短刀が浅黄に繰り出される。

 浅黄は寸でのところでそれをかわすが、血の線が一筋彼の頬に浮き出た。

 刃物を持った男たちに囲まれ、浅黄はなかなか前に出られないでいる。

 すると、陽子は、

「いい? 私の一撃は岩をも砕くのよ…!」

 今朝した様に、右の拳をゆっくりと顔の近くまで持ち上げた。

「ほう…」

 香川が鉄パイプを振りかぶる。

「日向!!」

 浅黄が叫ぶ。

「気弾…」

 陽子が言い終わらない内に、香川の鉄パイプが彼女の側頭部に振り降ろされた。

 陽子はその衝撃の方向のまま、地面に吹っ飛ぶ。

「てんめぇぇぇええ!」

 浅黄は怒り狂う野獣の様に香川へ向かう。が、数人のヤクザ達に肩を捕まれ、その前進を阻まれた。

「放しやがれ!」

 大の大人数人でも必死で押さえつけておかなければならない程の力であった。

「うるせぇなぁ…。手加減してあるよ。もっとも、2、3日は目ぇ覚ませねぇだろうがな。たぶん」

 香川は笑って言った。

 浅黄はキレたヤクザがどこまでやるか知っていた。

 ウチの組がそういうヤクザを闇に葬っていることも薄々感じていた。

 どうしてすぐにジジイに連絡しなかったのか…!

 浅黄は心の底から後悔した。

「後はクスリ漬けにすりゃ立派な商品の完成だな。イカレてはいるが上玉の女子高生が手に入るとはついてるぜ」

 香川は鉄パイプを放り投げ、懐から煙草を取り出し、手下のヤクザにその先を向けた。一人のヤクザが駆け寄り、それに火を付けようとする。

 その時、

「ア…アニキ…」

 ヤクザはライターを持つ手を震わせ、香川の後ろを指さした。

「あぁ?」

 香川が振り向き終わる前に、彼の頬に白い拳が突き刺さった。

 まっすぐに右手を伸ばして立つ…日向陽子の姿がそこにあった。

「ねぇちゃん…オメェ…」

 香川は殴られた事よりも、陽子の姿に驚いた。

 鉄パイプで殴った側頭部から大量の出血をし、顔面は真っ赤。前髪も血で額に張り付いている。が、その大きな両目はギラリと香川を睨みつけていた。

 拳を戻しながら、陽子が言う。

「とっさに防御に気を回したから、拳の方へ回せなかったわ…。私も修行が足りないわね」

 陽子は、大量の出血より、額に張り付く髪が邪魔なのか、左手で無造作に髪をかきあげた。

 その場にいた誰もが、彼女のその姿をあんぐりと口を開けたまま見つめている。

 香川は加減をしたと言ったが、あんなもので殴られれば、下手をすれば、死ぬ。

 だが、彼女は立ち上がり、不意打ちの一撃を香川にくれた。

 その威力は15歳の女子高生相当の威力だった様だが、立ち上がった事が驚異的だった。

 肩を捕まれたままの浅黄は、彼女のその姿を見つめながら、今朝の事を心の中で反芻する。

 俺はあの金髪ヤロウを殴ったと思った。しかし、その手応えはあまりに無かった。今考えれば不自然な程だった。まさか…いや、そんな訳ねぇ…。

「いや、ねぇちゃん。ずいぶん頑丈じゃねぇか」

 香川は彼女の姿を見てもさして態度を変えず、懐に手を入れながら言った。

 今度は煙草では無い。

 取り出したのは、黒光りする、オートマチック型の拳銃だ。

「身体は頑丈な方がいい…。色々客の好みに答えられるからな…」

 拳銃の銃口を陽子に向ける。

 しかし陽子は、それに全く動じる気配が無い。

「そんなものを取り出すアナタは正に人面獣心…もう私も手加減する必要無いわね」

 陽子はゆっくりと左手を顔の正面まで持っていく。

 銀色のブレスレットが、顔を覗かせた。

 真太郎は陽子が付けているブレスレットに違和感を覚えていたが、よく見ると、色こそ違えど、それはオメガレンジャーのメンバーがそれぞれ身につけている瞬装ブレス、オメガチェンジャーにそっくりだった。

「俺はこいつを撃つのはあまり得意じゃねぇんだ…。殺す気は無ぇが、変なとこにあたったらそん時は悪ぃな」

 陽子は右手で、左腕のブレスレットをつかみ、そのまま脇が見える程の高さまで腕を掲げた。

「まぁ…死んでもそういうのが好きな奴もいるから俺は別にいいんだけどよ」

 香川はゆっくりと引き金に指をかける。

 陽子は掲げる両腕の隙間から、香川を睨んだまま、

「瞬…!」

 何かを叫びかけた。が、目の前の光景を見て、それを途中で止めた。

 香川が突然倒れたのだ。

 いや、その後ろには鉄パイプを振り降ろした、絆創膏だらけの金髪、綾川が立っていた。

「アニキ!」

 舎弟たちが香川に駆け寄ろうとする。

 浅黄はその隙を突いて、一瞬の内に残ったヤクザたちをのしてしまった。

「オマエ等! とっととズラかるぞ!」

 浅黄が残った面々に叫んだ。


 夕日が、辺りを赤く染めている。

 陽子、浅黄、真太郎に、綾川を含めた四人は、廃工場から少し離れた土手の上から、さっきまでの修羅場を取り囲む赤色灯を眺めていた。

 不意に、綾川は三人に向かって土下座をした。

「真太郎! 比嘉森、そして日向! 今回の事は全てオレの責任だ、すまない!」

 その綾川を見下ろしながら、少し間を空けて浅黄が、

「うん…まぁ…初めに俺が首つっこんだのも一因だったしな…。でもどっちが悪いかっつったら、オマエだろ」

 陽子は照れ隠しをしながら話す浅黄の頬を押しやる様にして前に出た。

「話を聞かせてもらえるかしら?」

 綾川は香川の属しているヤクザ組織との関わり、両親の借金、ヤクザたちは自分を使って金儲けをしようとしていた。それらのストレスから真太郎をいじめていたと話した。最後、香川の頭を殴ったのは、女に銃を向けるあいつがあまりに醜く見えて、衝動的にやったと告白した。

「オレはこれから警察に行って全てを話してくる」

「勝手にしろよ」

 浅黄は綾川に背を向けた。

「でもまぁ…全部片づけて…どうしても何かに困ってたら、俺のとこに来てもいいんじゃねぇかな?」

 浅黄は背中を向けたまま、綾川にそう告げ歩きだした。

「じゃあ…僕も行くね。綾川くん…」

 綾川は深々と頭を下げながら何度もすまなかった、すまなかったと繰り返していた。

「待ってよ~、日向さん! 比嘉森君!」

 一足先に行ってしまった陽子と浅黄を、真太郎は駆け足で追いかけた。

 綾川は三人の姿が見えなくなっても、頭を下げた姿勢をとったままだった。


 浅黄は、少し先を行く陽子に小走りで近づき、歩調を合わせ、

「それより…大丈夫なのかよ?」

 陽子は前を向いたまま、

「何が?」

「頭だよ! あんなに血ィダラダラ流してたじゃねぇか!」

「かすり傷よ。それに頭は血が出るものなのよ。今はアナタの声の方がうるさいわ」

 浅黄は少し立ち止まって、ギリギリと八重歯を見せた。

 確かに陽子の頭の出血は、彼女が持っていたハンカチでしばらく押さえているとすぐに止まった。しかし、本当にそんな事あり得るのだろうか?

 浅黄は今朝、綾川を殴った時の事も、さっきの鉄パイプの事も、『偶然だ』と自分に言い聞かせる様に、

「まさかな」

 と、一人呟いた。

 今度は真太郎が、

「でも…助けに来てくれてありがとう。比嘉森君」

「ん…? あぁ…いいって事よ。勝手に約束したのは俺だしな…」

 その言葉に真太郎は微笑んで、

「日向さんも! ありがとう!」

 少し先を行く陽子の背中に投げかけた。

「私はまだアナタがシャドウフォレストの残党だという疑惑を払拭できてないわ」

 陽子は前を向いたまま言った。

「そんな~!」

 真太郎は情けない声を上げた。

 が、突然、陽子は歩みを止め、こちらに振り向き、

「冗談よ」

 夕日に照らされた陽子の顔にはドキッとする様な微笑みが浮かんでいた。

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戦え! 神ヶ森高校ヒーロー部! 杏堂直也 @naoya_ando

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