第19話 怜、大吟醸を呷る

 それは、突如現れたようにれいには見えた。

 最初の兆候は、首の痛みだった。手元の資料を目で追いながら、何気なく首を指で触れる。


 触れたのは、柔らかな喉の皮膚ではなかった。

 つるり、とした。プラスチックのような硬質感が指に触れる。怜はしゃべるのを止め、視線を降ろした。

 この感覚に覚えがある。嫌悪感に突き動かされるように首を見る。指は自分の首にある異質に触れたままだ。


 その時。

 首に巻きついたムカデと目が合った。締め上げ、鎌首をもたげて怜を見ている。怜の指が触れているのは、そのムカデの背板だった。やけに長く見える触手を2本動かし、赤い頭を怜に向けている。意思の読めない黒光りする目が、怜を凝視していた。


 叫ぶ暇はなかった。

 ずるり、と床に向けて伸びたムカデの胴体は、胴節を細かく揺すりながら簡単に怜を押し倒した。ずっしりとした重さで腹の上に乗り、何十本もの蠢く足でがっちりと怜を押さえ込む。いくつもの足が、それぞれ意思を持ったように蠢き、怜の腹に爪を立てる。もがこうと足を振り上げるが、びくともしない。首を絞められて酸欠のせいか、南雲が自分に向けて話しかける言葉が聞こえなかった。酒を振りかけられた時、一瞬力は緩んだが、ムカデが居なくなったわけではなかった。腹の上でムカデ自身も捩るように暴れていた。


「お酒を飲まされなかったら……」

 どうなっていただろう。怜は酒で濡れた口元を手の甲で拭って呟いた。口から喉に流し込まれたアルコールの熱気を感じると同時に、ムカデの姿は消えた。

 アルコールの匂いがまだ自分自身から立ち上っている。ふと、顔を上げると、南雲なぐもの視線にぶつかった。


「助かりました」

 か細い声でそう言うと、南雲が気まずい顔をこちらに寄越す。怜は眉根を寄せて首を傾げた。

「……なんですか?」

 ペットボトルの蓋を外し、一口飲み込む。液体が喉を通る瞬間、すこし痛みを感じた。


「その……。緊急時ですし、その……。気にしてなかったらいいんですけど」

 南雲は床をふき取った台布巾をテーブルの上に置き、せわしなく視線を動かして言い澱む。ごめんなさい。ぽつり、とそう言われ、怜は訳がわからず目をしばたかせたたが、口移しで酒を飲まされた事だ、と気付いて一気に頬が火照った。


「気に、しますよね。すいません」

 ほんと、ごめんなさい。早口に言う南雲の耳まで真っ赤だ。

「気になんかしてませんっ」

 怜は断言する。断言しながら、泣きそうな顔をしている。している。絶対している。初めてだったらどうしよう。南雲はそう思ったものの、敢えて追及はしなかった。そうですか。そう言って、床に散ってくしゃくしゃに皺の寄った怜の資料に手を伸ばしてかき集める。


「あの……」

 順番があるのかどうかわからないが、南雲は縦横だけ合わせて怜に差し出すと、怜が南雲を見上げた。

「よかったらお酒、もらえませんか? 飲んで寝ます」

 ああ。南雲は目をしばたかせる。気付けにもいいかもしれない。「待ってくださいね」。南雲は台所に再び行くと、台布巾を片付け、小さめのグラスを持って戻ってきた。

 ソファの方に座りなおしていた怜の隣に座ると、グラスの半分ほどに酒を注いで渡してやる。


「ありがとうございます」

 怜は、言うや否や、一気に呷った。「ちょ、待ってっ」。南雲が慌ててグラスをひったくるまでに、酒はすべて怜の喉を通って胃に収まってしまったようだ。

「先生。日本酒飲んだ事あります!?」

 怜から取り上げたグラスを持ったまま、南雲は怜を見る。

「ありません」

 目が据わっている。怜はアルコール臭い息を小さく吐いて南雲を見る。

「でも、お酒は友達とたまに飲みます」

「いつもは何飲んでるんです?」

「ファジーネーブル」

「アルコール度数が違う……」

 ジュースみたいなものと大吟醸を一緒に考えられると困る。南雲は頭を抱えた。


「全然平気です」

 怜はそう言ったが、南雲には「でんでん平気れす」と聞こえる。

「もう少しくらさい」

 怜が舌足らずの口調でそう言うが、南雲はきっぱりと首を横に振る。床に転がる琉球グラスともども手に取ると、さっさと台所に行って片付けた。

 戻ってくると、ソファの肘掛にもたれて船を漕ぐ怜の姿が見える。まずい。寝られると2階の部屋まで運べない。


「先生、ここで寝ないでっ。ほら、理事長と一緒の部屋で寝てくださいよっ」

 腕を取り、立ち上がらせると、ぐらりと南雲の方に倒れ掛かってきた。くたり、ともたれかかる彼女からはじんわりとしたぬくもりが伝わってくる。


「いややぁ。お兄ちゃんのいびきうるさいもん。南雲先生とこで寝るぅ」

「勘弁してください。理事長に八つ裂きにされる」

 南雲はもたれかかる怜をなんとか立たせると、腕を取って強引に歩かせた。

「眠たいぃ」

「だから、好きなだけ寝てください。理事長の隣りでっ」

 リビングを抜け、二階の私室へと南雲は怜を引きずるように歩かせた。何度か怜の上半身が反り返るように階段上で揺れ、階段から転げ落ちないか南雲は冷や冷やした。


 階段を昇りきると、惟の部屋から確かにものすごいいびきが聞こえる。南雲は片手で怜を支えながら、片手で惟の部屋の扉を開けた。開けるとさらにすごい音量だ。南雲はもう半分眠りかけている怜を薄暗がりのその部屋の中に押し込んだ。怜は数歩よろめくと、ぱたり、と布団の上に転がるのが見える。南雲は安堵の息を漏らしてそっと扉を閉めた。


 一度リビングに戻って怜の資料や本、酒瓶を持つと、自室に戻る。

 やれやれ。

 座卓の上にそれらを置くと、自然に溜息が漏れた。休日前にゆっくりしようと思ったら、飛んだ目にあった。

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