第18話 首に残るムカデの爪痕

                 ◇◇◇◇


 片手に龍力たつりきの瓶と琉球グラスを持ち、脇に山川出版の『詳説日本史』を抱えた南雲なぐもは、足でリビングの扉を開けた。首にかけたタオルは風呂上りのままだ。

「……あ」

 木崎きざきもとうに帰り、この時間帯には誰もいないと思っていたリビングにはれいが居た。


「まだ寝てなかったんですか」

 随分と行儀の悪いところを見られた。南雲はそれを誤魔化すかのように怜に話しかける。

ちらり、と壁の振り子時計を見ると午前一時が近い。

「寝ようとしたんですよ」

 怜は絨毯の上にぺたりと座り込んだまま、顔を上げた。ぷっと頬を膨らせて不満げに南雲を見上げる。


「お兄ちゃんのいびきが煩くて、結局寝れなかったんです」

 不満そうに怜は南雲に訴えた。

 あの夜からすでに10日以上が過ぎていた。

 ゆいは南雲に告げたとおり、毎日実家に戻り、寝る時は怜と一緒の部屋のようだ。そのせいか怜自身悪夢を見ることはないようだが、代わりに惟の歯軋りといびきに悩まされているらしい。

 これじゃあ、どっちもどっち、と朝食の席で怜がこぼしていたのを覚えている。運動会の練習も始まった今、「夜寝れない」状態は結構辛いだろう、と南雲は同情する。


「いつもは、お兄ちゃんより先に寝ちゃうんです。そしたら、聞こえないから。でも今日は寝そびれて……」

 怜は相変わらずキャラクターのパジャマを着た姿で、ふぅ、と溜息をついた。

「明日が休みでよかった」

 そう言う彼女は、絨毯いっぱいにパソコン打ちした資料や解説本を広げている。どうやら授業で使うプリントを作成しているようだが、社会科の教科書まで広げてあることに南雲は首を傾げてソファに座る。

「今度、授業で『平家物語』を取り上げるので」

 南雲の視線を追って気付いたのだろう。怜は恥ずかしそうに社会科の教科書を伏せた。

「なんか、子供たちが関連付けて興味を持ってくれるかな、と思って眺めてみたんです」

「源平なら、映像資料も結構あるでしょう。何年か前、大河ドラマでタッキーが義経しましたし」

 南雲はソファの脇に本を置くと、龍力の瓶から琉球グラスに酒を注いだ。瞬間的にグラスから果物に似た芳香が立ち上る。あの晩、封を開けてしまったので前任校の校長には別の大吟醸を送り、こちらは南雲が休日前の夜に飲む事にしていた。今まで日本酒などほとんど口にしたことがなかったが、香りと後口が気に入っていた。

「ユーチューブで探せばありますかねぇ」

 怜は言って、「ジャニーズだから興味あるかな」と首筋を掻きながら広げた資料を読み直している。


「首、まだ痕残ってますね」

 南雲は一口酒を口に含み、怜に話しかける。

 普段はハイネックの服を着る事で誤魔化しているが、パジャマの襟元から覗く首には、まだ締め痕がしっかりと残っていた。あの晩は真っ赤な扼痕だったが、今見る限りは青黒く変化している。内出血の痕のようにも見えた。

「お兄ちゃんはすぐ消える、って言うんです。病院に行っても一緒だ、って」

 怜は苦笑して、パジャマの襟を少し掻き合わせる。南雲の視線から隠したかったのかもしれない。南雲は慌てて視線を外した。脇に置いた本に手を伸ばし、ぱらぱらとページをめくる。

「実際、一度消えたんです」

 怜の言葉に南雲は顔を上げた。怜は別にこちらを見るわけでもなく、床に撒いた資料を順にチェックしていきながら独り言のように話している。

「別宅の父が喉を見て、神棚に供えてるお神酒を渡して「これ塗っておけ」って」

「消えたんですか」

 驚いて南雲が尋ねると、怜は口をへの字に曲げて、「消えたんです」と答えた。

「ただ、めっちゃ痛いんですよ。お父さんは「毎日塗れ」って言うけど、ぴりぴりして嫌で……。なんていうか……。剣山で喉を掻かれてるかんじかな。お兄ちゃんに相談したら、「そのうち消える」って言うから、もう放ってるんです」

 南雲は琉球グラスの中で揺れる透明な液体を見た。そういえば、あの晩も酒は腐臭を消した。


「先生、お酒飲まはるんですねぇ」

 怜は意外そうに南雲を見る。南雲は首を傾げるようにして掌の中のグラスと怜に交互に視線を送る。

「強いわけじゃないんですけど、好きなんです。この家の方はどなたも飲まないんですね」

「お兄ちゃんも仕事で付き合いがある時は飲むけど、家では飲まへんなぁ」

 怜はそう言って再び資料に目を落とす。


「運動会の部活動リレー、決まりました?」

 南雲が再び本に視線を落とすと、怜がそう声をかけてきた。南雲も特に彼女を見返すわけではなく、ページを繰りながら答える。

「剣道部はやっぱりバラエティ・リレーのようです。女バレは本気リレーですか?」

「そうです、私も出ます。南雲先生は1年生男子の騎馬戦ですか?」

 南雲は笑いながら頷いた。奇数になったり、数が半端になると若手教員から生徒の補助に入っていかされる。南雲が乗せるのは中学生とも思えない巨漢の男子だ。三人で馬を組むのだが、他の2人の男子はいつも半泣きになって南雲を無言で見つめてくる。

「この学校、組み体操はしないんですね」

 南雲は『中世の荘園社会』のページをぼんやり眺めながら怜に尋ねる。怜も資料を手繰っているのだろう。紙をこする音がわずかに聞こえた。かさかさ、と。

「実施するには、補助の教員が少なすぎるそうです。出来ない事もないんでしょうけど……。体育課でも意見が別れてて、実施に踏み切れないらしいです」

 南雲は酒を一口含む。口いっぱいにりんごに似た香りが広がる。飲み込むと、舌と喉の奥にかけて温かさとじんわりとした痺れを感じた。

「確かに、小学校でも組み体操は補助の人手がいりましたからね」

「そうですよね。最近はと……」


 特に。

 そう言いたかったのだろうか。妙なところで怜は言葉を止める。

 かさり。

 紙が、擦れる音が再度聞こえた。

 その後、なんの音もしない。不意に沈黙が訪れる。


 南雲は異変に気付き、顔を起こした。

 怜を見る。

 怜は、手にしていた資料を取り落とし、体をくの字に曲げて床に丸まっていた。


「藤先生……」

 最初、眠ったのかと思った。普段、日付が変わる前には眠ってしまう彼女がこんな遅くまで起きているのだ。眠気に負けて寝たのだ、と。


 だが、違う。

 彼女の丸めた背が小刻みに震えている。長い指が見えない何かを引きちぎるように首を掻き毟っていた。


「藤先生っ」

 南雲はソファから立ち上がる。膝に乗せていた本が滑り落ちた。手にしていたグラスも取り落としたが、南雲は構わず床に転がる彼女に駆け寄った。


「息が……」

 怜は小声でそれだけ言うと、やけに短く早い呼吸を繰り返し、喉を掻く。その喉を見て南雲は目を剥いた。


 痕が。

 絞めたような、あの痕が、あの晩のように真っ赤に変わっていた。


「苦しい」

 仰向けに床に転がる怜はそう言って、きつく目を閉じて足をばたつかせる。何かがのしかかり、彼女の首をしめているようにさえ見えた。

 彼女には、何が見えているのか。

 南雲は困惑する。

 怜は何度も手で首を掻き、足を宙に向かって蹴り上げる。

 腹の上に乗った何かを、追い払うように。


「……酒……」

 南雲はソファの側に置いた酒瓶に手を伸ばし、床に転がったグラスを取り上げた。グラスの中の酒はすべて床にこぼしたらしく、残っていない。手早く注ぎ足すと、彼女の真っ赤に膨れ上がっている絞め痕に振りかけた。


 驚いたことに、酒は彼女の痕に触れた瞬間、蒸気を上げて消えた。怜は小さく呻きを上げたが、喘鳴音は消えない。次第に、管から空気が漏れるような音が彼女の口から漏れ、体の動きも緩慢になっている。


 酸素が足りていない。

 紅潮していた彼女の頬も、次第に青ざめていく。南雲は焦る。どうすればいいのか。

 酒が効くことはわかっている。南雲はグラスにもう一度酒を足すと、彼女の口元に近づけた。


「藤先生、飲めますか?」

 そう尋ねたが、もう目がうつろだ。顔を覗き込むが、その視線は南雲を超えて何かを見ている。南雲は怜の返事も聞かず、その口の端にグラスの縁を当てて流し込む。外から降りかけて効力があるのなら、飲ませればもっと効くのではないか。

 そう思っているのだが、酒は怜の口の中に入らず零れて喉を濡らすばかりだ。


 南雲は躊躇ったものの、グラスに残った酒を口に含んだ。怜の顎を持ち上げて顔を起こすと、彼女の口唇に自分の口唇を押し付けた。彼女の口に直接酒を流しこむ。口唇が触れた瞬間、怜が静電気を受けたようにぴくりと身じろぎしたが、強引に酒を含ませると、何度か喉が上下する。


 途端に。

 怜がむせ返った。南雲を押しのけ、跳ね起きて咳き込んだ。

南雲はその背を撫でてやる。大きく背が上下している。薄いパジャマ越しに彼女が呼吸している事が知れた。そのことに安堵した。腰から力が抜けそうだ。南雲は絨毯に座り込んだまま、咳き込む怜の背を撫で続ける。


「……喉が痛い」

 涙交じりの怜の声が聞こえる。彼女が自分で掻き毟った首元を見ると、痕は再び青黒く変化していた。南雲は彼女を残して台所に行くと、流しの側から台布巾を、冷蔵庫からペットボトルのお茶を引き出してリビングに取って返す。


「息、出来ますか?」

 背を丸め、足を伸ばして絨毯の上に座り込んでいる怜はまるで糸の切れた人形のように見えた。南雲は近寄り、その側で胡座をする。

「見えましたか?」

 赤く充血した瞳を南雲に向けて怜は尋ねる。切実なその目を見ながら南雲はゆっくりと首を横に振った。彼女が見た光景を、多分自分は見ていない。


「飲みますか?」

 ペットボトルのキャップを回し、怜に差し出した。怜はぼんやりとペットボトルのラベルを見ていたが、のろのろとした動作で受け取る。

「大きなムカデが……」

 そう呟き、そこで止める。また、息が止まったのかと南雲はひやりとしたが、そうではないらしい。自分でも信じられないのだろう。言うべきかどうか迷った顔で怜はペットボトルのラベルをぼんやり見ている。


「ムカデに、首を絞められましたか?」

 南雲が促すと、怜は首を折るように動かした。頷いたらしい。

「首に巻きついて絞めたんです。すごく長くて……。私のお腹の上にのしかかって……」

 怜は寒気を覚えたのか、自分の両腕をさすった。そんな怜を見ながら、南雲は台布巾で床に零れた酒を拭っていた。

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