第16話 剣道部の倉庫は使ってはならない
「真夜中に男の部屋に行って、何事もなかったからいいようなものの。普通はそうじゃないんだぞ」
惟の言葉を、
「木崎さんは、『何もなかった』という事実に対しても大変ショックだったらしい」
「
「そうやない」
おもわず方言が出る。
「お前に色気がなさすぎるんや。食指も伸びんって、どないやねん」
兄の直接的な言葉がぐさり、と心に刺さったのかもしれない。うらめしそうに惟の顔を見上げながら怜は言う。
「木崎さんはそんな言い方せぇへんかった」
「同じこと言われとんやんか」
「ほんなら、お兄ちゃんは私が南雲先生になんかされた方がよかったんか?」
「ある意味、そっちの方が安心するわ。ほんま、もう少し女性らしいというか、そんな風にならんのか」
惟は言い捨てたが、ごほん、とひとつ咳払いをした。言葉と態度を少し柔らかくして妹を見る。
「とにかく。南雲先生はこれからもうちを下宿として使用されるんだから、態度と身を慎め。わかったか?」
「そやけどなぁ」
「わかったか」
惟の眼力に怜は気圧されるように頷き、
「けど、聞いてよ」
と言葉を続けた。
「木崎さんには、朝バタバタしてて話ができへんかったけど、あの晩は大変やったんやって」
「お前の大変は、あんまり大変じゃないからな」
胡散臭そうにみつめる惟に、怜はぷっと頬を膨らませる。
「ほんまやもん。これ、見てよ」
怜はそう言うと、ハイネックに指をかけて引っ張る。興味無げに視線を寄越した惟だが、さすがに眉根を寄せて顔を近づけた。
「ムカデに首絞められる夢を見たら、こんなになっててん。おまけに、窓閉めようと思って手を掛けたら、外から双子の女の子に手ぇ、引っ張られるし」
散々やわ。怜はハイネックの首元を直しながらぼやき、ちらりと兄を見る。
その、想像以上に険しい顔に思わず口を閉じる。
「当分泊りの仕事はないから、お前、今日から俺と一緒の部屋で寝るか?」
惟にそんなことを言われ、怜は戸惑う。
「そりゃ、願ったり叶ったりやけど……。どないしたん?」
「南雲先生は、このことについてどこまで知ってらっしゃるんだ?」
どこまで、って。怜は口ごもりながら視線を天井に向けた。
「ムカデの怖い夢を見て飛び起きたら、悲鳴を上げてたみたいで……。南雲先生が、それを聞いて、『どないしました?』って来はって……。
夢の話したら、『紅茶でも飲んで落ち着こう』ってことになったんやけど、台所で双子の女の子に手を掴まれて……」
そうや、その手もまだ痺れてるねん。怜は口をとがらせて自分の右手の甲をさすった。
「ほんで、一人で寝るのが怖かったから、南雲先生に『一緒に寝てください』って頼んだんや」
「南雲先生、呆れてらっしゃったろう」
「最初は断られた」
「あたりまえや」
大ため息をついて惟にそう言われ、また怜は落ち込む。
「お前、その首痛みはどうだ?」
惟は怜の首を一瞥して尋ねる。怜は首を横に傾げた。
「痕が残ってるだけで、痛みはそんなにないんやなぁ。これ、病院行った方がええか?」
「いや、病院じゃ治らんだろう」
あっさりと惟は言うと、「痛かったらムヒでも塗ってろ」と付け足して怜に背を向ける。
「どこ行くん?」
その背中に慌てて怜が声をかける。惟は目だけ彼女に向けて短く答えた。
「南雲先生のところ。一階の武道場にいらっしゃるだろう?」
惟はそう言って今来た階段を駆け下りる。職員室にある南雲のスケジュール表には「部活」と書き込まれているのを見てきたところだった。
螺旋階段をおり、一階の北側にある卓球場に向かう。
そこで、異変を感じた。
卓球場に人がいないのだ。
この学園の卓球部は、進学校では珍しく毎年全国大会まで駒を進めている。土日もできるだけ練習をするこの部に人がいないのは珍しい。
惟は網が入ったガラス扉を開き、中に入る。
剣道場の出入り口に目を向けた時、たくさんの生徒が目に入った。卓球部のユニフォームを着た男子生徒が人だかりになっている。
「何事だ?」
惟は一番近くにいる男子生徒に声をかける。生徒は振り返り、声の主を確認して驚いたように眼を見開くと、何も言わずに道を開けた。その動きに気付いた周囲の男子たちも無言で惟に場所を譲る。惟は訝しげに周囲の生徒を眺めながら剣道場の中に進んだ。
その、剣道場の中には、赤いTシャツを着た十数人の生徒と剣道着を着た2人の生徒がいた。剣道着の生徒の後ろには、卓球部のユニフォームを着た生徒が数人立っている。その二つの群れの真ん中に居るのは南雲だ。
赤いTシャツを着ているのは男子バレー部らしい。どうりで2階フロアにいなかったはずだ。不満そうな顔を南雲に向け、一際大きな体格の男子生徒が南雲に食って掛かっていた。
「なんで使たらあかんのですか。空いてるんでしょ、ここ」
「空いてるんじゃありません。そこは使えないんです」
頭一個半も身長が違うのに、剣道部の部長は一歩も引かなかった。頬を紅潮させて訴えるバレー部部長に対して、こちらは冷静なようだ。その背後で卓球部の上級生らしき男子が、
「そもそもここは剣道部の場所やろ。なんで、男バレが出張ってくんねん」
と、睨みつける。
「部活動委員会ではなんて言ってたんだ」
南雲がぞれぞれの部長の顔を見る。
「男バレはそんな提案を剣道部にしたのか? 俺は聞いていないぞ」
南雲がそう言うと、男子バレー部の部長は目をそらした。南雲はそんな彼を一瞥し、ふと視線を移動させた時、惟と目が合った。
卓球部の部員の中で様子を見ていた惟だが、気付かれたのなら仕方ない。惟は南雲の方に歩み寄る。
「どうされましたか? 南雲先生」
理事長だ。剣道場の中に居る生徒たちが惟を見て囁きあっている。どこか警戒したような気配を感じ、南雲は緊張して惟を見た。
どうしたもこうしたも。
南雲は内心でひっそり溜息をついた。こっちが聞きたいよ、と。
職員室で剣道場に行く準備をしていると、卓球部男子副部長が飛び込んできたのだ。『男バレが剣道部に殴りこみに来ている』と。
大人しい生徒の多いこの学園では『殴りこみ』といってもたかが知れているだろうが、それでも暴力沙汰になっては大事だ。南雲は慌てて副部長とともに剣道場に来て見ると、確かに男子バレー部が剣道場に陣取っており、少数の剣道部を守るように卓球部が立っていた。
「剣道部の倉庫が空いてるのに使ってない、っていうから使わせてもらいたいんです」
男子バレー部の部長がちらり、と惟を見てすぐに視線を南雲に戻した。
「それ、誰から聞いた情報やねん」
卓球部部長が、剣道部部長の
「
ぶっきらぼうに男子バレー部部長が言う。日村の背後に完全に隠れていた
「月島と知り合いか?」
学年が違うだろう。南雲が日村にそう尋ねると、口ごもりながら答える。
「月島は生徒会執行部ですから、部長会に顔を出すんです。そこで多分顔見知りに……」
「とにかく、月島が、剣道部には使ってない倉庫があるから、男子バレー部の荷物が多いなら使えば、って言うたんや」
「月島は部長じゃないから知らないんです」
日村は冷淡ともいえる声で男子バレー部部長に告げる。
「僕は卒業された前の部長から、『剣道部の倉庫は絶対に使うな、普段は開けるな』と言われています。その部長も、その前の部長からそう聞いているそうです」
「空いてるのに使わないなんて、そんなのおかしいやろ」
男子バレー部員たちが口々に言う。「ほんまやっ」「こっちは2階のフロアを4団体で使てんねん」「場所があるんなら貸せや」。その声は次第に大きくなっていき、真ん中に立つ南雲に迫る勢いだ。
「そんなん、剣道部の勝手やろ。だいたい、お前ら卑怯やぞ。剣道部が2人しかおらんところにそんな大人数で乗り込んで来るしやなぁ」
卓球部部長がそれを押し返す勢いで怒鳴り返す。
「待て待て待て」
南雲は間に入って両手を広げる。
「男子バレー部の気持ちも分かるが、卓球部の言う事が正しい。ここは剣道部の場所だ」
南雲がそう言い終わる前に、男子バレー部部長が一歩踏み出す。それに合わせて彼の後ろの部員たちも詰め寄ろうとした。
日村の後ろに居る卓球部男子たちは、その勢いにひるんだらしい。わずかに後ろに身をそらせた。
だが、日村は違った。体を動かさず、詰め寄る男子バレー部を睥睨する。
同時に。日村は無言で足を上げた。すぐに大きく右足で床を踏む。
だんっ。
剣道場に、日村が床を鳴らした音が響き渡った。その音は腹を震わせ、空気を揺さぶる。日村の足踏みは、その場に居る全員の動きを止めた。
剣道の踏み込み足だ。
南雲は初めて剣道のこの音を聞いた時驚いた。
剣道はすり足が基本だ、ということは知っていた。だから、てっきり静かな動きを伴う競技なのだと思っていた。
実際は違う。
相手に攻撃を仕掛ける時、声で気合を発し、床を踏み鳴らして相手にぶつかっていく。その足音は、周囲の空気を震わせ、聞いていた南雲の腹を内側から震わせた。その勢いで向かうのだから、相手も相応の構えが必要だ。剣道が防具をつけているのは、それがないと危険だからだと、南雲は試合を見て初めて知った。
「剣道部の彼が言っている事が正しい」
訪れた沈黙を破ったのは惟だった。その場の視線がすべて惟に向けられる。
「私はこの部のOBだが、その時から『剣道部の倉庫は普段は使ってはならない』と言われてきた。これは、創設の時からの決まりだ」
惟は皆の視線を受けても気にはならないらしい。豪胆な視線を日村に向け、わずかに口唇の端に笑みを浮かべた。
「その決まりがちゃんと守られている事に、私は感動するよ。この倉庫は使ってはならない」
惟は厳かにそう言った。あっという間にこの場を支配した若い経営者は男子バレー部を威圧感ある視線で見回した。
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