三章 剣道場と夜の下宿で

顧問南雲は惟から説明を受ける

第15話 惟は妹に苦言を呈す

「おはようございます」

 体育館2階フロアへの階段を上っていたゆいは、すれ違う学生から声をかけられ、わずかに笑みを浮かべて「おはよう」とあいさつを返した。学生たちは惟のその表情にどこか安堵した顔で足早に立ち去っていく。


 普段教壇に立っているわけでもなく、大柄でもある惟は、学生に怖がられている存在だということは自覚していた。最近でこそ「国語の藤先生のお兄さんらしい」ということで認知度も上がったが、理事に就任した当初は「警察OBで、学園の治安の為に来た」とまことしやかに学生たちに語られていたらしい。

 惟は、螺旋階段を上っていく。壁に作られたステンドグラスから多種な色の光があふれ、なんとも華やかな階段だ。


 階段を上りきると、2階は扉が開かれたままでフロアが一望できた。

 舞台側を使っているのは男女バスケ部らしい。ボールが床を跳ねる低重音が腹にまで響く。

 手前はバレーネットが張ってあり、女子バレー部が円陣を組んで練習前のストレッチを行っていた。


 男子バレー部はいないのか。

 そんなことを思いながら、惟は視線を巡らせる。怜は今日は部活の指導に来ているはずだ。

 女子中学生を順番に見て行き、ようやく妹を見つけた。背が150センチ程度しかなく、いつまでたっても童顔ないせいか、中学生に混じっていても違和感がない。今も、ストレッチ素材のハイネックTシャツを着て、ジャージ姿のまま中学生たちと一緒に柔軟をしている。


「藤先生」

 惟は扉の脇に立って声をかける。中学生数名が顔をこちらに向けた。肝心のれいは聞こえていなのか、隣の学生と笑いながら何かを話していた。

「藤先生」

 今度はもう少し大きめに声をかける。今度は聞こえたようだ。怜は顔を上げてこちらを見たが、惟だと気づくとあきらかに視線をそらせてまた学生と話をしはじめる。さすがに、話しかけられた学生は困惑している。惟と怜にせわしなく視線を交互に送っていた。


「藤先生っ。こちらへっ」

 怜っ、と叱り飛ばしたい衝動を抑えながら惟は声を上げる。怜は渋々という表情で惟を見ると、部長らしい学生に何か声をかけて立ち上がった。

「私、部活動指導中なんやけど」

 歩み寄ってきた怜は、むすっとした表情で惟を見上げる。こんな時の彼女は、決まって『怒られる』ことを知ってる時だ。惟は盛大にため息をついて手招きすると、学生から見えない位置に移動した。

木崎きざきさんから連絡が来たぞ」

 壁にもたれて惟は怜を見下ろす。怜は警戒するように兄を見上げた。


「どのこことで」

「どのこと、じゃない。全部だ」

 会合が遅くなり、また付き合いで酒も飲まされていた惟は両親のいる別宅で眠っていたのだが、朝早く携帯が鳴る音で目が覚めた。

 スマホの表示パネルを見ると木崎だ。

 一瞬、実家にいる怜に何か起こったのかと、慌てて通話ボタンを押して木崎と会話をしたのが、朝の7時だった。

「木崎さん、情けないって言ってたぞ」

 惟の言葉に、怜は形の良い眉をハの字にしてうつむいた。


 木崎がいつも通りに実家に着いたのは朝の5時55分だった。

 部活動監督のために出勤する怜を6時に起こし、南雲と二人分の朝食を作って掃除をするために通ってきていた。

 表玄関は内側からの施錠の為、台所脇の勝手口から、シリンダー錠を使って木崎が家に入ると、「おや」と思ったらしい。電気がついていたのだ。

 おまけに、食卓の上には、飲みかけのマグカップが2つとティーポットがそのまま出ていた。

 自分が帰宅した後、誰か客でも来たのかと思ったが、出ているのは怜と南雲が使っているマグカップだ。夜中に二人でお茶でも飲んだのだろうか。


 首を傾げながら、とにかく怜を起こすために2階の部屋に向かう。

この家に家政婦に入ってからもう20年以上が経っていた。木崎自身70歳が目前になると、この階段の上り下りが意外に辛い。そろそろ、お嬢さんも一人で起きれるようにならんと。怜が生まれた時から見てきたせいで、自分の孫のように思って接している。「お母さん」と呼ぶ前に、「きしゃさん」と怜が呼んだことが今でも誇りだ。そんなことを思いだしながら、木崎は怜の部屋の前に立つ。


「お嬢さん」

 ドアをノックし、木崎は呼びかけた。いつもなら、すぐに扉の向こうから怜の寝ぼけたような声と、みじろぎする気配が感じられる。

 だが、今日は違った。

 怜の部屋からは何の反応もなく、代わりに背後の南雲なぐもの部屋から「うわっ。一緒に寝込んでたっ」と、焦ったような彼の声が聞こえてきた。

 驚いて振り返ると、南雲の部屋からは引き続き声が聞こえてくる。


「藤先生、起きてくださいっ。今日、部活動監督なんでしょっ」

「……今、何時ですか……」

「何時って、木崎さん起こしに来ちゃってますよっ」

 寝ぼけたような怜の声と焦る南雲の声が聞こえて、木崎は反射的に南雲の部屋の扉を開ける。


 そこには、布団の上に座り込んで目をこすっているパジャマ姿の怜と、右頬に畳の跡をつけて寝癖だらけの南雲がいた。


「……えっと……」

 茫然としていた木崎だが、南雲に話しかけられてようやく意識を引き戻した。

「誤解のないように先に言っておきますが、何かあったわけではありませんから」

 南雲はまるで投降する犯人のように何故か肘を上げて両手を上げている。木崎は怜の方に視線を転じたが、拍子抜けするほどいつもの怜だった。


「昨日の晩大変やったんやで、木崎さん」

 怜はそう言って木崎の側まで寄ってきた。もう、彼女の方が大きいのに、甘えるように抱きついてくる。


「大変やった」

 木崎は鸚鵡返しに尋ねる。

 大変だった内容とは一体なんなのか。

 目を剥いて南雲を見るが、南雲はぶんぶんと必死に首を横に振る。木崎は、相変わらず仔犬のように警戒心のない怜を見た。いわゆる着衣の乱れというのは無いように見える。


 なにより。

『何かあった』後の、年頃の女性のようには見えなかった。

 木崎は困惑した視線を南雲に向ける。

 状況からして、布団に寝ていたのは怜なのだろう。南雲は畳の上で雑魚寝していたようだ。


 大変やったのは、南雲先生やなかろうか。

 木崎はそう思った。

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