第13話 南雲は怜を寝かしつける

 雨は相変わらず激しく降り続けていた。

 リビングでれいだけ寝かせて、自分は起きていればいい。

 南雲なぐもは漠然とそう思いながら、リビングへのドアを開けた。


 怜が手を伸ばして壁のパネルスイッチを押す。照明はすぐに点灯し、穏やかな橙色の灯りを室内に広げた。その温かみのある光に、南雲はほっとして怜を見る。怜も同じ気持ちのようだ。顔を上げて南雲を見ると、口元をほころばせていた。


 リビングは10畳ほどの広さがある。

 大型液晶パネルのテレビと革張りのソファ。畳の上に敷かれた絨毯は幾何学模様が描かれた年代物だ。南雲の家とは違い、このリビングは住人皆が使うせいか、私物と言うものがない。南雲は、家のリビングの物の多さに辟易していたが、なるほど、家族のそれぞれの私物があるから散らかるのかもしれない。


 怜が一歩、リビングに踏み込んだ時。

 いきなり照明が切れた。

 弾かれたようにリビングから怜は飛び退り、背後に居た南雲に背中をぶつけた。南雲が何度かパネルスイッチを押すが、照明が再び穏やかな光を燈すことは無かった。

「……ここ、いやです」

 涙目で振り返る怜に、「だよねぇ」と南雲は溜息混じりに返した。


「俺の部屋に来ますか」

 ぽんぽんと肩を叩くと、怜はせわしなく左右に揺れる瞳を南雲に向けた。もう、どうこう言っている場合ではないらしい。申し訳ない。そんな言葉が顔に書いてある。南雲はくつくつと喉の奥で笑った。こんなに心の動きが読めると余計な気遣いをしなくて助かる。


 南雲は先に立って一階の廊下を進む。腹のあたりのTシャツが突っ張ると思ったら、やっぱり怜が後ろから裾を握りしめて付いて来ていた。

 ふと、台所の前を通る時に、電気も食器も片づけていないことに気づいたが、こんな状態の怜だけ残して台所に入ることもできない気がした。

 怜が寝付いたころを見計らって片づけよう。

 南雲はそう思い、2階へと階段を上がる。

 足元で、磨き上げられた階段の床がきゅっ、きゅっ、と鳴った。ちらり、と背後を見ると怜は南雲のTシャツの裾を握りしめ、うつむいて歩いている。まるで、お化け屋敷を進む幼い子供のようだ。

 可愛いな。

 ふと、そんなことを思う自分は不謹慎だろうか。南雲はそんな思いを吹き飛ばすようにひとつ咳払いをすると、2階の自室の扉を開けた。


「そんなに、散らかってないとは思うんですけど……」

 そう言って、怜を迎え入れる。

 南雲にあてがわれている部屋は6畳の部屋だった。南側にとられた窓の側に置いた座卓も、壁に沿わせて据え付けられた本棚も、この部屋に以前からあったものだ。

 南雲が家から持ち出したのは、座卓の上に置かれたパソコンと何着かの衣類だけだ。

 その何着かの衣類も、押し入れ用の収納ハンガーにかけているため、部屋は全体的にがらんとしていた。

 おかげで、引きっぱなしの蒲団だけが、やけに目につく。


「藤先生、布団使ってください」

 南雲はそう言って、座卓の前の座布団に座った。

「俺、しばらく仕事してますから」

「そんなわけにはいきません。私が押しかけたんやから」

 怜は扉の側に立ったまま、ぶんぶんと首を横に振る。

「私は部屋のすみっこで寝かせてもらいますから、先生はお布団、使こてください」

 怜はそう言って、部屋に一歩はいると、扉のすぐ側の壁にもたれるようにして、ぺたりと座り込んだ。遠慮しているのか、警戒しているのか、部屋の真ん中まで入ってこようとはしないが、扉の側、というのもまた怖いらしい。怜は何度か痕の残る首を手でこすりながら、ちらちらと出入り口の引き戸を見ている。


「ああ。そうだ」

 そんな怜をしばらく見ていた南雲は、ふと思い立って座卓の脇に置いていた瓶に座ったまま手を伸ばした。

「……日本酒ですか?」

 南雲が手にした瓶を見た怜は、不思議そうに尋ねる。南雲は頷いた。

「こちらの地酒らしいんですけど」

龍力たつりきですか」

 即答するところを見ると、やはり有名らしい。南雲はうなずいた。

「就職が決まったことを小学校の校長に話したら、有名だから送れ、って言われて買ったんです」

 まだ、送ってなくってよかった。南雲は笑うと、手に軽く力を入れて封を切る。周囲を見回して注ぐものを探したが、コップの類は見当たらない。仕方なく、南雲は直接酒を少量手の平に垂らす。

「どうしはるんですか?」

 不思議そうに尋ねる怜に、南雲は肩を竦めて見せた。

「酒は清めるって、言うでしょう? 入口に塗っておけば結界になるかもしれませんよ。名前も『龍力』と、ムカデには効きそうだ」


 南雲はそう言って、出入り口の敷居に掌で受けた酒を塗りつけた。

 室内に、一気に酒の芳香が立ち上った。甘い、どこか高揚感のある香りだ。

 ふと。

 今まで鼻の奥に付きまとっていた匂いが消えたことに気づいた。

 怜も気づいたらしい。驚いたような顔で南雲を見ている。

 あの、凝った水のような、泥臭い匂いが消えていた。


「効く……、もんですね」

 南雲は片手に持った酒瓶を照明に透かした。濃い緑の瓶の向こうで、無色の液体がとろりと揺れているのが見える。

「扉、閉めてもええですか?」

 怜がおそるおそる南雲に尋ねる。今のうちに閉めておきたい。そんな切迫した瞳で見つめられた。

 南雲としては、扉を開けておいた方が「やましいことはない」アピールになって良いとは思うのだが、怜の怯えの方が強いらしい。

 いや、そもそも真夜中に密室で男と二人でいることよりも、恐ろしい事とはなんだろう。

 南雲があいまいに頷くのを確認し、怜は安堵した表情で扉を閉めた。

「あの……」

 南雲が座卓の上に置かれたノートパソコンを開き、起動ボタンを押した時、怜に声をかけられる。「はい?」。返事をして振り返ると、怜が困ったように首を横に傾げた。

「先生、ほんまに寝てくださいね」

「寝ますよ」

 南雲は笑顔を作る。

「布団、使ってください。引っ越しの時に買った布団ですから、まだ新しいのでご心配なく」

「いや、そうやなくって……」

 怜は形の良い眉をきゅっと中央に寄せる。

「私がその辺で寝ますから、先生はお布団使こてください」

 そう言う怜を南雲はまじまじと見た。

 …正直、黙って布団で寝て欲しい。

 そんな思いをこめて怜を眺めたのだが、怜は「じゃあ、俺が布団を使います」という風に受け取ったらしい。ぶんぶんと首を縦に振り、「私、この辺に転がります」と猫のように丸まろうとする。


「藤先生」

「はい」

「先生は布団で寝てください。俺、その隣りの畳で寝ます」

「いや、それは……」

「だけど、掛け布団は横にして半分ください。それでいいですか?」

 南雲の提案に、怜はしばらく視線を宙に泳がせて考えていたようだが、躊躇うように頷いた。

 やれやれ。

 南雲は内心溜息ついた。さっさと寝かしつけよう。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る