第12話 怜は南雲に「一緒に寝よう」と提案する

 その体長は小学生の腕ほどはある。

 長い腹をうねらせ、赤い頭を揺らした風情は鎌首を上げた蛇のようだ。目標を探すかのように二本の長い触手をこちらにむけて動かしている。


 腕の中でれいが悲鳴を上げる。

 南雲なぐもは彼女を左腕で抱きしめたまま右腕を伸ばして窓枠に指をかけると、一気に横に滑らせた。


 かしゃり。

 ムカデは窓枠と窓に挟まり、脆い音を立ててあっけなく潰れる。半身はちぎれて窓の外に落ちたようだ。残った半身は悶えるように蠢いて、流しの上に落ちた。かさかさかさ、と立てるその音に怜は再び悲鳴を上げ、南雲を押しやるようにして流しから離れようとする。


「先生っ! 外っ」

 南雲に抱きついたまま、闇雲に手足を動かす怜が叫ぶ。

「そ、外? 家の?」

 南雲はなんとかなだめようと怜の腰に腕を回したまま、彼女の顔を覗き込んだ。

「ちゃいますっ。廊下! 台所から出ましょう!」

 怜に怒鳴られ、南雲は彼女の腰に回した手に力を込めて上に持ち上げる。案外軽い。彼女は床が足に着かず、数秒足掻くように足をばたつかせたが、南雲は意にも介さずに彼女を抱え上げたまま廊下に連れ出した。


「どうしました?」

 台所を出ると、南雲は怜を一階の廊下に下す。腰を折って怜の顔を覗き込んだ。怜は怯えた様子で、ただ自分の右手首を見ていた。南雲はその視線を追って彼女の手首を見る。


 彼女の手は、血を失ったかのように真っ白だった。

 南雲は廊下に膝をつくと、右手でその手に触れた。驚くほど冷たい。ぎゅっと力強く握ってやると、震えているのが分かった。


「窓の外に、女の子がいたんです」

 彼女の語尾は震えていた。南雲に手を握ってもらって、なんとか平静を保っている状態にも見えた。

「中学生ぐらいのおかっぱの女の子に手を引っ張られて……」

「外を見てきましょうか?」

 南雲の言葉に、怜は激しく首を横に振った。

「あきません。外に出たら、あきませんっ」

 怜の耳には少女たちの声がまだ残っている。


『捕まえた』

 外に出れば、『捕まる』。それは確信だった。


 雨音に混じり、廊下に振り子時計が12時を告げる音が響いた。

 南雲は怜の手を握ったまま立ち上がる。どうしたものか。怜を見下ろして途方に暮れる。

 南雲には、何がどうなったのか正直わからなかった。

『雨が吹き込んでいる』

 そう言って彼女が立ち上がり、窓を閉めようとした。その彼女が窓枠に手を伸ばした途端、前のめりに倒れこんだのだ。体を不自然に伸びあがらせ、窓枠の方へ倒れこもうとする彼女を、南雲は慌てて抱え込んだ。

 彼女には何が見えているのか。

 彼女に何が起こっているのか。

 南雲には分かりかねた。


「……先生」

 怜が不意に顔を起こした。長い睫毛に縁取られたオニキスのような眼が自分を見ている。

「なんでしょうか」

 血の気が引いているせいか、彼女の顔はビスクドールのようで、その儚さと美しさに南雲は息を飲む。

「私、明日朝から部活なんです」

 彼女は眉根を寄せて、熱心に南雲にそう言った。「はぁ」。南雲は拍子抜けしたように答える。

「俺も、午前中だけ剣道部の稽古に付き合いますが……」

「私は一日なんです」

「……それは、お疲れ様です」

「だから、寝ておかんと体がもたへんのです」

「はぁ」

「10時半に寝て、11時ごろ夢で目が覚めて……。このまま眠れへんかったら、明日部活したら死ぬと思います」

「まぁ、そうでしょうか、ね」

「寝なあかんと思てるんです」

「そう……ですね」

「でも、部屋に戻るのは嫌やし、一人でおるのはもっと嫌なんです」

 怜は必死に南雲に訴える。


「先生、カノジョは、いてはるんですか?」

「俺ですか?」

 話が読めない。南雲は何度も瞬きしながら、怜を見る。怜は真剣なまなざしを南雲に向けていた。

「……いませんけど」

「やったら、お願いがあるんです」

 怜は南雲の手を逆に両手で握り返して訴えた。


「今日、一緒に寝てもらえませんか?」

「はぁ?」

 目を丸くする南雲に、怜は懇願した。

「カノジョがいてはるんやったら、こんなことお願いできませんけど、いてはらへんかったら南雲先生の判断でお願いしたいんです」

 だめですか。今にも泣きだしそうな潤んだ目で見つめられると、だめだとは思うが、ダメとも言い切れない。握られた手をそっと解きながら、怜を見た。


「俺は……。問題ないんですけど、藤先生はどうなんですか」

 南雲は困惑しながら尋ねたが、「私は問題ありません」、と怜は即答だ。

その様子を見て思う。絶対、何も考えてない。南雲は内心でため息を吐いた。男と一緒に寝て、それだけで済むと思っているらしい。もちろん、南雲は怜をどうこうしようとは思っていないが、すべての男が彼女に対してそうではない、ということを、彼女は自覚するべきだと思う。それに、怜にとって人畜無害な男だと思われていることに、喜べばいいのか、悲しめばいいのか。男として俺はどうなんだ、と南雲は自問自答する。


「一緒に寝ましょう」

 そんな南雲の葛藤を余所に、怜に熱く呼びかけられてしまった。

「どこで寝ます?」

 いいのかよ、おい、ほんとに。南雲はいまだ混乱した思考のまま怜を見る。


「藤先生の部屋に俺が行きましょうか?」

「それはいやっ」

 怜は拳を握り締めて断言した。

「あの部屋には何か居るんですっ。朝ならともかく、夜はいやっ」

 地団駄踏みそうな勢いの怜に、南雲は途方に暮れた。


「じゃあ、どうします。俺の部屋で一緒に寝ます?」

 南雲の言葉に、怜は動きを止めた。

 南雲というより、「男の部屋に真夜中に行って一緒に寝る」ということをようやく実感したのかもしれない。ことここに及んでようやく自分が何を南雲に言っているのか理解したようだ。和紙が赤い絵の具を吸い上げるように顔を真っ赤にして南雲を見上げている。見ているこちらまで照れそうだ。南雲は視線をそらし、誰にともなく話し始める。


「他の下宿の部屋はどうですか? 空いてるんじゃないですか」

「他の部屋は全部鍵が閉まってます。鍵は両親しか持ってへんし……」

「じゃあ、リビングはどう?」

 南雲の提案に、怜は目を輝かせた。

「ええですね。リビングに行きましょう」

 二人はどこととなく安堵しながら一階北側のリビングへと廊下を歩く。


 

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