第11話 雨と共に忍び込もうとするもの

「先生」

 呼びかけられて瞬きをすると、すぐ目の前にれいがいた。不思議そうに自分の顔を覗き込んでいる。

「ぼんやりしてました」

 南雲なぐもは苦笑した。怜はあわせるように微笑むと、マグカップの紅茶を再び飲み始めた。


 その時だ。

 ぱらり、と。

 屋根を打つ軽い音がした。

「雨……」

 怜が呟くと同時に、その雨音は一気に勢いを増した。

 激しく打ちつけるような雨音に南雲は驚く。まるで夏の夕立のようだ。

「窓から雨が吹き込んでるわ」

 怜は流しの前の明り取りを兼ねている窓を見た。さっき南雲が換気の為に開けた窓だ。南雲は背にしているからわからないらしい。怜はイスから立ち上がると、足早に流しに近づいた。兄が好んで並べている茶葉のガラス瓶に雨がかかりそうだ。


 怜が流しに近づくと、ふと、その匂いに気づいた。

 生臭い。

 かといって、腐臭ではない。

 これは、水の臭いだ。


 日陰に何日も溜まった水たまりのような。川の流れに取り残された窪地に溜まる水のような。

 凝って腐った水の臭いに似ていた。

 どこから……。

 怜は流しに片手をつき、もう片方の手で窓のサッシに手を伸ばしながら視線を周囲に走らせる。この家の家政婦である木崎は、怜が物心ついたころから通ってきているベテランだ。その木崎が何かの不手際をしていることなどありえない。


 だが、この臭いはどこからだ。

 ひやり、と。

 サッシに伸ばした手が冷えた。


 雨が当たったのだ、と怜は思った。

 吹き込む雨が怜の手を濡らして冷たく感じたのだ、と。

 怜は何気なく手に視線をやる。


 その、怜の手は。

 見知らぬ誰かに捕まれていた。


「……」

 怜は声を上げることも忘れて、ただ、自分の右手首を掴む手を凝視した。

 白い甲に青い血管の浮き出た手だった。何故か爪だけがマニュキュアを塗ったように赤い。


 その手が、サッシの枠にかけた自分の中指と薬指と小指をがっしりと掴んでいた。

 怜は、その赤い爪を見てムカデの足を思いだした。

 あの、多足の先もわずかに赤い。


 怜は反射的に手を引き抜こうとした。冷えは、その手から登ってくる。皮膚を抜け、血管に入り、冷感が毒液のように怜の体に侵入してくる。手首を振り、掴む指を振り払おうとした。


 だが、その前に。

 怜の手を掴んだ手は、予想以上の力で怜の手を窓の外へ引き込もうと引っ張る。

 がたん。

 想定外の剛力に、怜は踏ん張ることができない。


 手を引っ張られたまま、下半身を流しに打ち付けて大きな物音が立つ。怜は引きずり込まれまいと流しのへりを左手で掴む。右手は相変わらず強い力で下にひっぱられ、窓枠に手首が擦れて痛い。おまけに冷えのせいか、痺れて感覚が段々なくなっていく。


 がたん。

 再度、大きく右手をひっぱられた。氷水につけっぱなしの指のように、最早感覚がない。


 怜は、腕を下に引かれて体を伸びあがらせる。

 右手を掴む赤い爪の指。

 その腕が伸びる窓の向こう。

 そこに、少女がいた。

 一人じゃない。二人だ。

 そっくり同じ顔をした二人の少女が闇の中から自分を見ていた。

少女の口が、ぱくり、と開いた。


「捕まえた」

「捕まえた」

 少女たちは同じ声で同じ言葉を発する。


 同時に。

 さらに強い力で窓の外から引っ張られた。流しを掴む左手が滑って離れる。掴みなおすいとまは無かった。そもそも恐怖で力が入らない。


 その時。

 怜の背後から不意にぬくもりを感じた。視線だけを後ろに向ける。南雲だ。

 腰に回された腕がしっかりと自分を支え、背後から抱きすくめるように支える南雲は、一気に怜を屋内の方へ引っ張った。


 がたん。

 大きな音を立てて手が離れた。

 南雲は怜を抱えたままよろめくように、たたらを踏む。

 南雲は自分の前で彼女を抱きしめたまま、窓を見た。

 そこに。

 明り取りの窓枠に。

 大きなムカデがいた。


 

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