第10話 ムカデが意味する物を南雲は語る
手で顔を覆ったまま微動だにしない
「大分、落ち着きましたか?」
マグカップに昇る湯気が怜の顔をかすめて消える。
「ありがとうございます」
怜は顔から手をおろし、差し出されたカップを両手で包んだ。南雲の目の前に、彼女の首が見える。痛々しいほどに赤い絞め痕が、やっぱりそこには残っていた。
「ムカデというのは、このあたりではポピュラーな逸話なんですか?」
南雲の言葉に、怜は眉根を寄せる。意味が分からない。そんな表情の彼女を見て、南雲も、おや、と思う。
「ムカデの夢と言うのは、いつも見ていたりするんじゃないんですか」
とんでもない、と怜は首を横に振る。
「初めて見ました」
「この地方ではムカデは悪役じゃないんですか?」
怜は驚いたように首を横に振る。知らないです。そう言う彼女に、南雲は
「応神天皇が御幸された折に、この地方の民を困らせるムカデを臣下と共に退治した話が載っていたので……。なにか、それにまつわる有名なエピソードがあって、それに似た夢を藤先生が見たのか、と」
「……すいません。話の半分もわかりません。おーじん天皇というのはいつの天皇さんですか?」
「まぁ……。実在を疑われている天皇ではあるんですが……。西暦でいうと200年代ですかね」
「まったく知りませんし、ムカデの話も知りません」
そう言ってから、怜はマグカップの紅茶を一口飲んだ。
「兄なら知っているかもしれませんが……。このあたりに悪いムカデがいたんですか?」
「山にムカデ、というのは坑道のことなんですよ」
南雲は自分のマグカップに紅茶を注ぎながら怜に言った。
「もちろん、すべてがすべてそうではないんですが……。
山に穴を掘って鉱物を発掘するために、坑道に木枠を立てて行く姿がムカデのように見えるからそう言われている、とか。あるいは、坑道自体がムカデに見えるから、と言われますが、山に悪いムカデが出る、と言えば、これは山の民が鉱山を発掘していることを暗示していたりします」
「山の民」
怜はおうむ返しに南雲に尋ねる。
「俺も専攻は西洋史なので詳しくは知りませんが」
南雲はそう前置きして、紅茶を口に含んだ。紅茶の芳香が一気に体に広がる。
「農耕をして土地に定着する民と、山に住み、狩猟や鋼鉄、採掘の仕事をする山の民があるそうです。芸能を生業にしたまつろわぬ者、と言う者も存在するのですが、これはまたおいておいて……。
その鉱物資源を採掘する人たちを「ムカデ」と呼ぶことがあるんですが、この人たちが語られる時、時として悪役として語られます」
「悪いムカデ、ですか」
怜の言葉に南雲は頷く。
「そのムカデを退治するときに、何故か大蛇が現れるんです。この大蛇が、武芸に秀でる男にムカデ退治を依頼し、太刀を手に入れる。そんなパターンの昔話が多いんです」
「それが何かを暗示しているんですか?」
「ムカデはさっきも言ったように鉱物資源を採掘する民です。対して大蛇は川と結び付けられることが多く、こちらも製鉄を生業にしている民だと言われています」
「川やのに?」
怜は小さく首を横に傾げる。短髪の毛先が揺れ、空気に甘く溶けた。
そんな仕草さえ可愛く見える。
「川は砂鉄が取れるでしょう? それを製鉄するんです」
「ああ。砂鉄」
納得したように頷く怜を見て、南雲は続ける。
「この大蛇は、太刀とも深く関係しています。神話でもあるでしょう。ご存知ですか?」
怜はしばらく考えるように瞳を天井に向けていたが、ふとその目を南雲に向けた。
「スサノオですか」
「そうです。ヤマタノオロチです」
南雲は目を細めて微笑むと、紅茶を一口含んだ。
「ムカデ対大蛇の場合、大蛇は武者を味方につけてムカデを滅ぼします。……まぁ。それが、何を指すのか、詳しい事まではわかりませんが」
「社会科の先生は、いろんなことを知ってはるんですね」
感心したように言う怜に、南雲は首を振る。
「これは民俗学の分野だと思いますよ。俺が知ってるのはこれぐらいです」
ただ。南雲は怜に視線を戻す。
「この地域にはそんな昔話が普通に知れ渡っていて、それが深層心理に働いて藤先生が夢を見たのか、と思って」
「今、初めて知りました」
きょとんとして答える怜に、南雲は噴出して笑った。
「兄なら知っているかもしれません。そういうこと好きですし……。明日また、聞いてみます」
怜がそういうのを、南雲は頷いて聞いていた。
「この紅茶、美味しいですね。先生、紅茶淹れるの上手やわ」
怜は満足そうにマグカップの底を眺めている。その伏せた長い睫を見ていたが南雲は、彼女に向かって手を伸ばした。その動きに気付いて怜は顔を起こす。その顎に南雲は指をかけ、上へと向かせた。そのまま彼女の方に身を乗り出し、顔を近づける。
「明日、理事長に病院に連れて行ってもらったほうがいいですね」
「はい?」
怜はひっくり返った声で答える。怜は「はい?」と尋ねたつもりだったが、口から音声として出たのは「はひ?」だった。南雲との顔の距離が近い。南雲は気にしていないようだが、自分の首を覗き込む南雲の吐息がかかって心臓が早鐘を打った。
「首です」
「ふぇ?」
視線を下げると、すぐ近くで南雲の目と逢った。
「首の痕。まだ、腫れていますから」
南雲はそう言うと、彼女の顎から指を離して再び座りなおした。怜はマグカップから手を離し、自分の首元に両手をあてた。瞬間、静電気が走ったような弱い痛みを感じたが、南雲の視線を避けたくて手で覆い続けた。
「先生はどうしてうちの学園に?」
怜はまだ不規則に拍動する心臓をなだめすかしながら、南雲の顔を見た。何か、話題を口にしておかなければ、心臓の音が彼にまで聞こえそうだ。
「小学校の臨時教員をしていたんですが、中学校の教員が夢でしたから」
南雲は採用試験の面接で答えたことを繰り返した。顔に笑みを浮かべ、嘘をつく。
「小学校教員も楽しかったんですが、やはり専門性をもった教科を生徒に教えたかったので」
南雲が闇雲に住んでいる県以外の教員採用試験を受け続けたのは、ひとえに実家から逃げたかったからに他ならない。
もうすぐ兄と笙子が結婚して実家に同居するようになるからだ。
「今まで臨時教員でしたが、そろそろちゃんと正式採用されたかったですし」
それは本当だった。
いや、そもそも、大学卒業時に正式採用されていたら、笙子とは別れなかったのかもしれない。
笙子は、南雲が高校生の頃通っていた予備校の講師だった。
大学に入学したら付き合ってくれ、と口説きとおして6つ上の彼女と付き合い始めた。
『私、結婚したいんだけど』
笙子はいつもそう言っていた。今から考えれば、それは『別れたい』と同義語だったのかもしれない。
『俺が大学を卒業したら』
南雲はいつもそう答えていた。『そうね。あなたがちゃんと就職したらね』。笙子はいつもそう返し、教員採用試験の二次試験で落ちた南雲の元から、あっさりと去っていった。
その後、彼女を再び見たのは、兄が正月に見せた写真だった。
『彼女と来年結婚したいんだ。実はもう妊娠2か月で……。新居を探して、こどものことが落ち着くまで、同居させて欲しいんだ』
都銀に勤める兄は、照れくさそうに両親にそう報告し、南雲にも申し訳なさそうに言った。
『いきなり同居で申し訳ないが、いい娘なんだ。お前とも上手くやっていけると思う』
どうやら、兄は南雲と笙子の関係には気付いていないらしい。
では、と南雲は思った。
自分が去ろう、と。
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