第9話 二人は台所で紅茶を飲む
「夢の中で、首を絞められたんです」
「大きなムカデが首に巻き付いて……。首を絞められて……」
語尾まで震えそうになった時、がさり、と大きな音が室内に響いた。「ひゃあ!」。怜は大声を上げて振り返ると、南雲のTシャツにしがみついた。
「大丈夫ですよ」
しがみついたTシャツをひっぱり、そこに顔を埋めている怜の肩を撫でながら、南雲は声をかける。
「机の書類が崩れただけのようです」
南雲に促されてゆっくりと顔を後ろに向けると、確かに彼の言うとおり学生時代から使っている学習机の書類が雪崩を打って床に散っていた。
「朝学習に使う小テストですか?」
南雲は声をかけた。怜はまだ小刻みに震えてTシャツを掴んだまま離さない。書類の方に視線は向けたものの、すぐに視線を戻してTシャツのドナルドダックのあたりに顔を埋めてしまった。
「片付けましょうか?」
部屋に入ろうとした南雲を怜は押しとどめる。
「朝に片付けますっ」
「片付けるんなら、今片付けた方が……」
「なんか、あのテストの下にムカデがいっぱいいそうな気がするっ」
再び泣き出しそうな顔を上げて訴える怜をしばらく見つめたが、結局溜息をひとつついて南雲は怜に尋ねた。
「では、台所に行ってココアか紅茶でも飲みますか?」
ぽんぽん、と怜の肩を数度叩くと、彼女の黒い瞳にわずかながら安堵の色が滲み始めた。やれやれ。南雲は内心の感情を顔には出さず、にっこりと微笑んだ。
「戸締り確認がてら、一階に行きましょう」
彼女の肩を撫でた。パジャマ越しに触れるのは、つるんとした肌触りとしっかりとした堅さだった。彼女は痩身だが、引き締まった筋肉を持っているらしい。
ふと、
とにかく、運動が嫌いな女だった。
いつもソファで寝そべり、猫のように体を丸めて本を読んでいた。
その彼女の体は柔らかく、どこか掴みどころが無いようにふわふわとしていた。
「すいません……」
かすれたような怜の言葉に、南雲は意識を引き戻す。
気取られぬように、にこりと微笑むと、もう一度彼女の肩を軽く叩いた。怜はようやくTシャツから手を離すと、一歩下がって南雲を見上げた。
「あ……。すいません……」
怜が赤面して再び謝る。彼女の視線を辿り、南雲は納得する。南雲のTシャツのドナルドダック部分が涙と鼻水でベトベトになっている。南雲はくすり、と笑った。笙子のことを思い出したからだろうか。彼女は絶対にこんなことをしなかったし、したとしても謝りもしないだろう。
今、目の前で身を竦めるようにして小さくなる怜が、随分と可愛らしく見えて胸がくすぐったくなった。
「かまいませんよ。さぁ。一階に行きましょう」
南雲は怜を促して廊下に出た。
廊下はタイマーがセットされており、夜間は間接照明が点いている。橙色の温みのある光が、廊下や階段の飴色の床を照らしていた。
南雲が先に立ち、そのすぐ後ろを怜が歩く。
ひっかかりを感じて振り返ると、怜が南雲のTシャツの裾を握りしめて視線を周囲に忙しなく走らせている。
暗がりに潜む、何かを探すように。
南雲は何か声をかけようかとも思ったが、結局口を閉じて階段を下りはじめた。
南雲の足の裏で、ぎゅっ、ぎゅっ、と床が軋む。
戦前から立つ洋館だと聞いている。
ということは、ざっと70年以上は時を経た建物だということだ。
手入れが十分に行き届いているのだろう。「古さ」は感じるが、「不潔さ」を感じたことは無く、「はかなさ」に気づくことはあるが、「脆さ」や「危うさ」をこの建物で感じたことは無い。
木製の手すりに手を滑らせると、石に似た冷感とつるりとした感触が掌に伝わってくる。
南雲はゆっくりと階下に降り、1階の廊下の電気をつけた。
ぱちり。
電灯は小さな音と同時に目を覚ますように明かりを燈した。
永年オイル拭きされた床が照明を照らし、それ自身が淡く光っている。南雲は首を廻らせて玄関に向かって歩いていく。怜はというと、おっかなびっくり南雲の後ろを付いて来ていた。
南雲は上り框に敷かれた絨毯の上から玄関扉の引き戸を見る。こちらも古い。黒檀のような黒光りをしている格子の入った引き戸だ。
この建物の鍵は、棒鍵を挿しこんで回すタイプのものだ。淡く照らされた照明の中で、玄関扉の鍵穴に、その棒は内側からしっかりと突き刺してあった。
「台所に行きましょう」
鍵を確認し、幾分安心した南雲はちらりと背後の怜に声をかける。
怜の首を見た時、一瞬侵入者が怜の首を絞めて危害を加えようとしたのかと思ったのだ。
『大きなムカデが首に巻き付いて……。首を絞められて……』
彼女は最前そのようなことを言っていた。夢の中で首を絞められたのだ、と。
台所に向かいながら、南雲は怜の首に浮かぶ絞め痕を思いだす。
夢の中の出来事が、身体に影響を及ぼすことがあるのだろうか。
そのことで思いついたのは聖痕現象だった。南雲も詳しいことは知らないが、名前としては知っている。南雲の大学では、西洋史専攻学生は、キリスト教学の講座も受けることを薦められていたからだ。
聖痕は、脳の思い込みが体に影響を与える事例の一つだ、と記憶している。
その事例自体は古来より紹介されていたが、一気に広がったのは宗教画等の視覚からの影響もあるのだろう。13世紀には文書として残され始め、その男女比は女性が圧倒的に多いのだという。
その、一種だろうか。
南雲はそう思いながら、台所への引き戸に手をかける。
からり、と乾いた音を立てて開くと、微かに洗剤の人工香料と、わずかな食用油の匂いが鼻先をかすめた。
そして。
その奥に、何か水っぽい匂いが隠れているような気がした。
生ごみという程の異臭ではない。現に、流しの三角コーナーは綺麗に洗い清められて伏せられており、食卓の上にも食器や食べ残しなど見当たらない。
ただ空気が動く度、凝った水のような、沼地のような湿った臭いがこの部屋にあることに気づく。
南雲は頭を巡らせた。
台所の匂いが気になるのは、空気が動いているからだ。
どこか、窓が開いているのだろうか。
ふと、流しの前の明り取り用の窓がほんの少し開いているのが見えた。クレッセント鍵が開けられ、夜風が吹き込んでいる。
窓を閉めようか。
そう思ったが、台所に籠った臭いの方が気になった。
南雲は怜をイスに座らせると、流しに近づいて窓を大きく開く。ふわり、と。一際大きく夜気が吹き込み、南雲の髪をなぶった。
「紅茶にしますか?」
南雲は調理台の脇に置かれている電気ケトルに手を伸ばし、首だけ振り返って怜を見た。怜は小さくうなずくと、イスに座って安心したのか、手で顔を覆って大きく息を吐いていた。
南雲はケトルに水を入れてお湯を沸かすと、明り取り用の窓の前にいくつも並んだ紅茶の茶葉が入ったガラス瓶から、アッサムの茶葉を手に取る。
初めてこの家に来た時、惟に「茶葉は何がいいか」と聞かれて驚いた。「コーヒーがいいか、紅茶がいいか」と聞かれることはあっても、「茶葉は何がいいか」と聞かれたのは初めてだった。
ふたを回すと、瓶の中で籠っていた紅茶の香りが立ち上る。
南雲は紅茶ポットに大匙2杯の茶葉を入れると、沸騰したお湯を少なめに注いだ。その間に、食器棚から南雲と怜のマグカップを取り出す。
冷蔵庫を開けて牛乳パックを引き出すと、少し考えて温めずにそのままカップに適量を注いだ。
『紅茶は濃い目でよく蒸らして』
笙子はいつもそう言っていた。紅茶と牛乳は同量で、牛乳を温める手間も惜しまなかったが、その準備に使った器具も食器も一度も自分で洗おうとはしなかった。
洗うのは南雲の役目。
一人暮らしの彼女は、普段は一体どうしているのか不思議だった。
そして。
今、兄の妻となる予定の彼女は、食器を洗うのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら南雲は盆も使わず、器用に紅茶ポットとマグカップを両手で持って怜の向かいに座った。
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