第8話 怜の首にまきつくもの
「すいません。驚かせるつもりはなかったんです」
すぐに扉の向こうから申し訳なさそうな声が聞こえる。
自室の扉は木製だが、上部に色のついたすりガラスがはめ込まれており、人影が見えた。背の高さから判断するに
「……どうしたんですか」
最近、動きの悪い扉を強引に引くと、そこに立っていたのはやはり南雲だった。
寝着に使っているジャージと肩口のよれたTシャツを着た南雲は、怜の顔を見て目を見開く。
「何から言えばいいんか、わかりません」
口から洩れたのは泣き声であり、目から溢れ出たのは涙だった。南雲のTシャツに描かれた薄剥げたドナルドダックを見ると、肩の力が抜けて安堵する。
「寝ようと思ったら、大声が聞こえたもんですから……。一応心配になって声をかけたんです」
南雲は戸惑いながら怜を見た。
薄暗がりの中でも、彼女の姿は比較的はっきり見えた。南雲も良く知るキャラクターのパジャマを着た彼女は、次々と目から流れる玉のような涙を手の甲で乱暴にこすりながら泣いている。そんな姿がやけに幼く、南雲はどうしていいかわからずにただ立ち尽くしていた。
「怖い夢でも見たんですか?」
我ながら、小学生に話しかけているようだと思いながらも南雲は怜に尋ねた。
南雲の部屋は怜の向かい合わせにある。
月曜日の小テストを作成し終わり、筋肉痛が始まりそうな予感がするふくらはぎに湿布を貼った南雲は、そろそろ寝ようかと時計を見た時だった。
23時。
壁に掛けられた古い振り子時計を確認し、ふと、戸締りのことを思いだした。
夕飯の時、通いの家政婦の
「今日は
と告げた。
「ついては、私が帰った後、戸締りをしっかりしてお休みくださいね」
と。
その時一緒に夕飯をとった怜も聞いてはいただろうが、彼女が戸締りを確認していた様子はなかった。
こんな田舎で泥棒もないだろうけど。
南雲は、「……まぁ。若い女の子もいることだし」と念のため、玄関の施錠だけ確認することにして部屋を出た。
その時だ。
「助けて! 誰か!」
怜の悲鳴が聞こえ、慌てて南雲は向かいの彼女の部屋に向かって声をかけたのだ。
「ムカデが……」
多少落ち着いたのか、怜は涙をこするのを止めて顔を上げた。
大きな艶やかな黒い瞳が南雲を見上げる。
長い睫毛や、濡れて光沢を帯びた瞳に、南雲はどきりとして思わず目を逸らした。
その逸らした視線の先に。
「ムカデが、夢の中に出てきて……」
彼女の首で視線が止まる。
「私の首を絞めて……」
彼女の首。
「藤先生」
怜の言葉を遮るように、南雲は言う。視線は彼女の首から離せない。
不審げに自分を見つめる怜の視線を感じながらも、南雲は手を部屋の壁に向かって伸ばす。怜の部屋に入ったことはないが、自分の部屋と同じ作りだろうと察しはついた。壁に沿って手を這わせると、電灯の片切りスイッチが指に触れた。南雲が迷わずにスイッチを押すと、天井の照明が数度明滅して光を燈した。
「藤先生、鏡はないですか?」
急に明るくなった室内に目が追いつかないらしい。何度も瞬きを繰り返している怜は、南雲に尋ねられて小さく頷いた。
「姿見があります」
自分の背後のあたりにあるはずの姿見を怜は振り返りもせずに指差す。南雲は指の先を追って姿見を確認すると、怜の両肩に手を置いた。驚いた怜が顔を上げる。南雲は困惑を写した瞳で怜の顔を覗き込むと、ゆっくりと肩に手を置いたまま姿見の方へ振り返らせた。
「……何これ」
振り返り、姿見の中の自分を見た怜はそう呟いた途端、膝から力が抜けたように床に崩れ落ちかける。慌ててその体を背後から支えたのは南雲だ。
「その首、どうしたんですか」
南雲の言葉に、怜は首を横に振る。わからない。あれは夢の話ではなかったのか。
怜は脳貧血を起こしそうな頭で鏡を見た。
そこに映る自分の姿。
後ろ髪に合わせるように横の髪も短く切りそろえている。その毛先がわずかに首にまとわりついていた。そこから覗く首。
その首。
自分の首から鎖骨にかけて。
くっきりとした赤黒い、太い締め痕が残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます