二章 下宿にて
下宿人南雲は怜相手に困惑する
第7話 怜は夢でムカデに出会う
黒板にチョークの先が当たった時、やけに柔らかく感じた。
ぐにゃり、と。
チョークというより、クレヨンを力任せに画用紙に押し付けたような感覚が指先に残り、
そう思うと、つじつまが合う事ばかりだ。
さっきから教室に音は無く、見渡す視界に色彩が乏しい。どこか灰色のフィルターを通して世界を眺めているようで、「見よう」としてもはっきりしないことが多かった。
現に、自分の書いた黒板の文字が見えない。
左手に持った教科書に文字は羅列されているが、読めない。
怜は黒板に書く手を止めた。
黒板に書きつけたいくつかの文字を、ぼんやりと見る。薄墨を垂らしたような視界の中で、白墨の文字は浮き上がるように見えた。
かさかさ、と。
ふと。
怜は音を聞いた。
いや、感じたのかもしれない。
かさかさ、と。
紙袋をこするような音が聞こえた。擦るような、さするような、滑るような音が怜の周りの空気を動かし、鼓膜をかすめた。
かさかさ、と。
音は、怜の背後からする。
怜は今、黒板と向かい合っていた。
背にしているのは、教室だ。
生徒たちが座っている、教室だ。
その背後から。
かさかさ、と。
音がする。
怜は
振り返る。
かさかさ、と。
音を立てて蠢いているのは、
鉤爪をを持つ短い脚だった。かさかさかさかさ、と。
かさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさ、と。
鉤爪は宙を足掻くように揺れ、その揺れが先端にある赤い頭をゆらゆらと揺らしている。
その頭頂部から生えている二本の長い触角は、探索するようにひくひくと動き、躰を陽炎のようにすっくと椅子の上から立ち上がらせて。
かさかさ、と。
いくつもゆらゆら揺れているのは、教室いっぱいにいるムカデだった。
教室の、生徒たちが座る椅子に細長く、煙のように立ち上るのは、何匹もの。
いや、何十匹ものムカデだった。
怜は悲鳴を上げる。
チョークを取り落し、教科書を床に投げ捨て、黒板にしがみつくようにして叫んだ。
その悲鳴のせいだろうか。
ムカデは、かさり、と。最後の音を立てて、一斉に揺れるのをやめた。
すべての触手が怜を指していた。
怜は教室の出口に向かって一歩踏み出した。
左足で床を蹴り、右足で床を踏んだ。
レンズの合わない眼鏡をかけているように、足元がふわふわする。
前に進もうと思っても、足がもつれるようにして前に踏み出せない。床が柔らかく沈むようで、すぐ目の前の教室の入り口がとてつもなく遠く感じた。
かさかさ、と。
すぐ耳元で音が聞こえた。
怜の肌が一気に粟立った。
振り返らなくてもわかる。
後ろに、いるのだ。
かさかさ、と。
さっきよりはっきりと、明瞭にすぐ側で聞こえた。
かさ。
耳たぶに何かが触れる。
怜は目をきつく閉じて叫ぶ。見たくない。それが、すぐ近くにいる。
かさ。
耳を塞ぎたい。
この音を聞きたくない。
その為だけに、怜は叫ぶ。
だが。
今度は声が出ない。
同時に。
喉に強烈な痛みを感じた。
怜は中学時代からバレーボールを続けてきたが、一度だけ、レシーブをしそこなって、ボールを喉元で受けた時がある。
強烈な痛みの後、圧迫感がなかなか消えず、空気を吸おうにも息が入ってこないことがあった。
その、状況に似ていた。
しかし、感じるのは痛みだけではない。冷感を伴った硬質な肌触りのものが複数首の周りを覆っているような気配がする。その硬質なものは、幾重にもあり、その一つ一つが意思を持つかのように細かく震えていた。
怜は目を開ける。
痛みと圧迫を覚える首に視線を落とす。
すぐに。
肩から首にかけて締め上げるように巻き付いたムカデが目に入った。首に巻きつくのは、そのムカデの鱗だ。
ぎちぎち、と。
それは、怜の首を締め上げる。
かさかさ、と。
頬に触れるのは、
二本の触手だと気づき、怜はむちゃくちゃに腕を振るった。
「助けてっ! 誰か!」
その言葉が塊になって口から飛び出すと同時に、怜は目を覚ました。
豆電球が照らす薄暗い室内の天井が涙で滲んで見える。
怜は掛布団を蹴って布団から這い出すと、立ち上がって首と言わず、体中を手ではたき続けた。
実際に何か見えたわけではない。実際に、ムカデが体にいたわけでもない。
ただ、夢で見た通り喉がやけに熱く痛み、あの「かさり」という乾いた音が耳から離れなかった。心臓が早鐘を打ち、鎮めようと思っても呼吸が荒くなったまま納まらない。
「……藤先生?」
控えめな呼びかけに、怜は再び大声で悲鳴を上げた。体を縮こませて、声の聞こえた自室の扉を見る。
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